事件・事故

日曜日の爆弾魔事件(ウルトラ山田事件)

甘く見るな ウルトラ山田より

1974年2月18日深夜、大阪市天王寺区の近鉄上本町駅で爆発が起こった。怪我人などは出なかったが、近くに脅迫状があり、近鉄に五千万円の現金を要求した。

犯人からの電話はその後も続き、3月13日に現金を受け取りに来た千葉という男が逮捕され、共犯者だったその弟もまた検問に引っかかり逮捕された。

3月17日、今度は近鉄百貨店阿倍野店7階で爆発が起こる。犯人は「ウルトラ山田」と名乗り、千葉兄弟の釈放を求めた。

事件の経緯と動機

1974年2月18日午前0時23分、大阪市天王寺区の近鉄上本町駅で最終列車が発射した直後に爆発音があり、火災報知機のベルが鳴った。3人の駅員が音のあった方に行くと、駅務室から約50m離れたコインロッカー付近から白煙が出ているのに気づいた。周囲は爆発により飛び散ったものが散乱していたが、火はついていなかった。

過激派による事件かとも見られたが、爆発現場近くのロッカーから近鉄社長宛てにある脅迫状が入れられていた。

われわれは多額の現金が必要なため貴社にそれを用立ててもらう。
この書面を貴社がみるころ、近い現場と時刻に、ある場所で爆発が起きているはずだ。
そのあとでも連続して犠牲者が出ることになるだろう。
われわれが所持しているのはニトロである。
五千万円出せ。
もしこの要求に応ずるのであれば『政子話し合う、すぐ電話せよ』という文と連絡電話番号を
毎日新聞の広告欄にのせよ。警察に連絡すれば、われわれにはすぐわかる。
その結果いかなることになろうと、われわれの方に責任はない。

爆発の直前には同社広報担当の常務宅に「朝までに近鉄のどこかで大事件が起きるだろう」という電話がかかっていた。中年の男の声だった。

近鉄は警察に通報。捜査本部は脅迫文の指示に従い、新聞の尋ね人欄に広告を出した。

まもなく、犯人側から近鉄本社8階会議室の特設電話に頻繁に電話がかかってくるようになった。犯人側は当初の5千万円要求から、金額を2億円につりあげてきた。しかし、3月に入るとなぜか1億円にひきさげた。

おれは、死刑も覚悟のうえである。
2億円の要求をしたが、運搬その他の都合で、1億円に変更する。
警察が障害となる場合は爆弾で排除する。長時間を費やして貴社の盲点を調べている。1億円を全学1万円札で2列に並べて、完全防水包装し、十文字に紐をかけて準備しろ。指示のあり次第すぐ運搬できるようにしておけ。
この条件を受諾の場合には、3月6日の毎日新聞朝刊に『信洋全部許す、すぐ帰れ」と掲載しろ。そうすれば又電話するる。

※3月4日 近鉄社長宛て 差出人は「奈良市八島 近鉄政子」
 犯人であることの証明のため、爆破されたコインロッカーの鍵が同封されていた。

同じ頃、電話の録音テープの男の声が言語学者・金田一春彦氏によって鑑定されていた。

「言葉遣いから、関西出身のように思われるが、この人物の生まれ育ちは関西ではない。どちらかと言えば、生まれ育ったのは北関東、奥羽地方から北海道と推定される。年齢は45~50歳くらいで、長く関西に住んでいる」

3月9日、犯人側から新たな脅迫状が届けられた。現金の受け渡しを求める内容だった。

それによると現金運搬者は近鉄・上六デパートの男性店員(Iさん 当時26歳)、車両は近鉄・名古屋タクシーのあるナンバーの車、運転者は5日午後2時頃にその車を運転してい男性(Mさん 当時45歳)を指定してきた。そのようにして10日の日曜日午後6時半頃に会社を出発するよう指示した。

警察はこの脅迫状を受けて、愛知~兵庫に広域警戒態勢を敷いた。

しかし当日午後6時1分、「あのね、金、もうわし、金いらんわ」との犯人からの電話が入った。しかし電話に出た捜査員がすでに現金を用意している旨を伝えると、犯人は「また手紙を送る」と言って電話を切った。

12日午前、近鉄本社に犯人から5回目の脅迫状が届いた。「13日午後6時半に車を出せ、30分前に行き先を指示する」というものである。

13日午後5時59分、特設電話に電話が入り、「午後8時までに旧・枚方のバイパスを京都方面に向かい、宇治川近くの『宇治』というドライブインで次の指示を待て」と伝えてきた。

さっそく現金運搬車は本社を出発した。運ぶのは指名された百貨店店員ではなく捜査官、運転手も同様である。その後、犯人側から「こちらもドライブインに向かう」という電話があった。後に起こるグリコ・森永事件のように行き先を次々と指示するのではなく、指定場所にそのまま現れて現金を奪うというのである。

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警察は京都府久世郡久御山町のドライブイン「宇治」周辺を包囲していた。

午後9時32分、犯人から重役に電話があり、「宇治には警察がいっぱいいて動きがとれない。あんた裏切ったな」と言ってきたが、重役が「社員らは大丈夫か!」と怒鳴りかえすと、気圧されたのか「もう1度行ってみる」と電話を切った。

午後11時10分、「宇治」の前に停められた近鉄タクシーに、国道の歩道の方から1人の男が近づいて来た。白いマスクをつけた中年男だった。

男は、運搬役の巡査長(当時28歳)に現金を持ってくるように要求。腹部のあたりから導火線のようなものを取り出し、「爆弾を持っている。おかしな真似をしたら、これや」と脅した。しかし、巡査長はゆっくり近づいて行った後、男にとびかかり、運転手に扮していた巡査長(当時46歳)と2人で見事取り押さえた。男は神戸市に住む無職「千葉」(当時44歳)という男だった。

同じ夜、京都府警が茨木インター付近で検問中、不審な男が運転する三河ナンバーの車を見つけた。調べてみると、こちらの男はなんと千葉の弟(当時31歳)だったのである。

千葉兄弟について

千葉兄の供述によると、爆弾は爆竹1000本を各地の火薬店で買い集め、自分で製造していた。ロッカーに仕かけたのは当日午後4時頃で、時限装置にはドライアイスを使用した。現金運搬役に指名した男性店員は、以前にカメラ売場でネームプレートを見て覚えていたという。これは警官が店員の扮するのを見抜くためである(実際は見ぬけなかったが)。

ドライブインには弟が兄を乗せていった。弟は「兄と京都観光していて、兄の犯行には気づかなかった」と関与を否認していたが、家宅捜索の結果、自宅から犯行につながる物品が出てきたため14日に恐喝未遂幇助の容疑で逮捕された。
 
千葉兄弟は宮城県登米郡米山町の農家に生まれている。兄の方は兄弟の上から3番目である。父親は戦後行方不明なっており、母親と子どもの貧しい暮らしをしていた。

1950年、兄弟の1人が女性関係のもつれから人を殺害し、遺体を自宅近くに遺棄するという事件を起こして、一家は町を出ていった。

兄の方は中学卒業後、20歳ぐらいまで地元で日雇い労働をしていたが、町を出てからは川崎市で工員などをしていた。この工場が特殊合金工具などを製造するところであったため、火薬類やピストルの構造に詳しくなった。神戸に移り住んだ64年には改造ピストルを製造し、逮捕された前歴もある。この後、大阪府門真市のブロック製造会社に勤務した後、事件当時は仕事を辞めて神戸市の食堂2階に間借りをしていた。

弟は21歳の時に大阪・淀屋橋の池田銀行淀屋橋支店に玩具のピストルと催涙剤「クロロボクリン」を持って押し入り、現行犯逮捕されていた。この後は競輪のノミ行為で生活をしており、自転車競技法違反で2度逮捕されたことがあった。その後は神戸市内の工芸会社に勤務していた。

千葉兄は犯行の動機について次のように供述した。

「世の中の貧富の差があまりにひどいことに腹が立った。こうした世の中で自分も一旗上げるには、爆破を実行に移すことぐらいしかできることがないと思った。近鉄を狙ったのは、大会社で相当の金があるはずと見たからである。また以前に、ナポレオンの帽子を高い値段で売りに出すなどふざけている上に、日頃から不当な利益を得て、大きな顔をしていることも癪に障った」

この千葉兄弟には他にも関与が疑われる事件があった。未解決となっていた大丸恐喝未遂事件と、1年前に起こったニセ夜間金庫事件である。

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ニセ夜間金庫事件の犯人はトヨタハイエースバンに乗って現れたが、千葉弟はこの車に乗っていたことがあった。弟は車が好きだったため、この車を大事にしていたが、ある時から乗用車に乗り換えている。また逮捕時に弟の車から発見された釣糸と釣針は、大丸恐喝未遂事件に使われたものと同種であった。

しかし、兄弟の指紋はニセ夜間金庫から採取された指紋とは一致せず、それ以外の手がかりはなかった。

千葉兄弟逮捕の数日後、この兄弟を釈放させようとする、もう1人の爆弾魔が現れた。

ウルトラ山田

3月17日午前11時半頃、日曜日の混雑する近鉄デパート阿倍野店7階子ども服売場で爆発が起こる。爆発と言っても、音と白煙が出ただけの花火程度のもので、客や店員に怪我人などはなかった。

次の事を実行せよ
我々の要求に応じるならば我々は第二第三と
爆破及び放火計画を中止する
我々の要求とは千葉兄弟を訳放(ママ)せよ
要求に御応じないときは我々は近鉄百貨店
近鉄電車が攻激(ママ)目的となる我々は利益を
目的としない

  甘く見るな
   ウルトラ山田より

脅迫文は誤字が目立つが、きれいな文字で書かれていた。

「ウルトラ山田」とは、67年1月の大丸神戸店で起きた爆破事件の時に現場に残された脅迫状に差出人として記されていた名前である。

それから同日午後4時44分、近鉄阿倍野店に脅迫電話がかかった。

「われわれの仕掛けた爆弾はどうなった、要求に応じることになったのか」
「はあ…」
「あの千葉兄弟を釈放するのか、しないのか。そこの置手紙を見たのか」
「はあ、はい…」
「7階の催し場だよ。次の日曜を楽しみにしているからな」
「…」
「テレビやラジオで、俺達のしたことをイタズラと言ってるな」
「はい」
「爆弾のことだよ。わかってるな。テレビやラジオでいたずらと言ってるけど。いたずらじゃないことだけは知っておいてくれ」
「はい」
「いたずらじゃないことだけ知ってればいいんだ」

声は明かに作り声で、40歳前後のしゃがれた声と見られた。この日はさらに午後6時20分、午後11時40分と2度電話があった。

近鉄百貨店によると、この奇妙な声の男は、1ヶ月前にも2つの近鉄デパートにかかってきていた。つまり男は千葉兄弟の釈放を求めているものの、無関係であったのである。

事件の前、3月10日には堺市のスーパーニチイで爆破未遂事件が起こっていたが、こちらの現場で発見された爆弾は、タイマーなどの仕組みから、近鉄百貨店爆破事件と同じで、同一人物による犯行とされた。これが鑑定によって判ったのは20日夜のことである。

4月7日、この日も日曜日だった。午後4時頃、天王寺署上本町七丁目派出所で爆弾が爆発、警官の1人が右手の指3本を失う重傷、他4人が軽傷を負った。

この爆弾は近鉄デパート上六店(上本町六丁目)から届けられたものだった。

同日昼頃、デパートのトイレで清掃員が怪しい懐中電灯を発見、職場の人に相談して派出所に持って来ていた。ところが派出所の警官たちは忙しく、その懐中電灯をすぐに調べてみることができなかった。そして届けられて1時間後、1人の警官が不注意で懐中電灯のキャップをはずしたところ爆発した。

そして4月14日、またしても日曜日に国鉄天王寺駅構内にある地下トイレで爆発が起きた。トイレは目立たないところにあり、利用客も少なく、怪我人なども出なかったが、向かいは近鉄デパート阿倍野店だった。

少年Aについて

日曜日の爆弾魔は、電話の声から「中年の男」と見られたのだが、捜査は思うようにすすまなかった。犯人は千葉兄弟の釈放を求めるだけで、近鉄に対して金銭を要求してくるということもなかったからだ。堺市鳳南町を中心にローラー作戦が進められたが、犯人の特定には至らなかった。4件はいずれも日曜日に起こっている、これは何を意味するのか。この事件は迷宮入りになるかとも思われた。

9月、捜査本部の刑事が、爆破事件の現場の写真を見て、ある見物人の顔に気がついた。張り巡らされた現場保存用のロープに少年が1人すがりつくように見物している。この顔は初めて見る顔ではなかった。別の2件の現場にも同じ少年が写っていたのだ。

すぐにこの少年の身元は割り出された。以前行なわれたローラー作戦で、堺市にA(当時13歳)という中学2年の爆弾マニアがいたのだが、それこそこの少年だった。

まだ中学生ということもあって、警察もすぐには事情を聞くわけにもいかなかったが、25日、Aが自分から警察署にやって来た。Aによると、自宅敷地内にいた不審な男を取り押さえ、連れてきたのだという。Aはこの時、参考人として調書に指紋を押したが、これが天王寺駅トイレの爆発物に残された指紋がAのものと一致し、補導された。中年男の声に聞こえた脅迫電話もAがかけたものだった。

Aの家は母子家庭である。1人っ子で祖母と3人家族。母親は税務署の電話交換手として働いているため、Aは幼い頃から鍵っ子だった。小学生の時は新聞配達などをして母親を助けていたが、6年生ぐらいから学校を休みがちになり、中学2年時にはほとんど登校していなかった。

母親は生活に追われ、一連の爆破事件のことも気づかず、まして自分の息子が勉強部屋で爆弾を作っていることなども知らなかった。

また学校に行っていないAは難しい漢字なども書けなかったが、母親に頼んで脅迫状を書いてもらっていた。母親は代筆を頼まれた時、あまりの内容に何に使うかを聞いたが、Aは「なんでもいいんやないけ。言う通りに書いてくれたら、それでいい。べつに何もせえへん」と言い返したため、何も言わずに文章を書いて渡した。

Aは大丸爆破事件の時は6歳。当然犯人ではなく、「ウルトラ山田」の名を借りただけである。そして74年に起こった日曜日の4件のうち、派出所爆破事件だけはAの犯行と立証されなかった。

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