1965年5月15日から18日まで、東京農業大学のワンゲル部は山梨県へ行き合宿を行った。
その合宿はハードな日程のもので、それまで登山経験のなかった同大学1年生の和田昇君は弱りきっていた。
その和田君に対して上級生は殴る蹴るの暴行を加えていた。
合宿から4日後、和田君は亡くなった。
事件の経緯と詳細
1965年5月15日、東京農業大学ワンゲル部48人は夜行列車に乗りこみ、翌16日午前2時過ぎ山梨県塩山で下車した。部員はバスで山道を行けるところまで行き、歩いて笠取山に向かった。
中腹でキャンプを張り、午後になり山頂をめざし、夕方に再びキャンプを張った。
翌17日は午前4時起床。午後6時には雲取山方面に出発。18日、雲取山山頂へ。続いて鷹の巣山、六石山を回って、同日夕方、青梅線氷川駅で解散した。
16日午後1時過ぎ、一人の登山家が農大生の後について雲取山に向かっているあいだ、ある光景を目撃する。
「農大生グループの最後尾の一人が疲労が激しいようで、平地でも上級生に腕を支えられ夢遊病者のようによろめいていた。笠取山正面の急斜面にかかった時は完全に立てず、はってのたうち回っていた。それでも上級生2人がかかえて強引に頂上は登らせたらしい。額と鼻のわきには殴られたような傷があり、口のまわりも腫れあがっており口も満足に聞けなかった」
上の様子は登山1日目の話である。話の中の疲労しきった農大生は1年生の和田昇君で、17日、18日も同じようにこのハードな日程をこなし、上級生たちは 対し生木の棍棒で殴り、登山靴で蹴りつけたりした。
意識不明に、そして
青梅線の氷川駅が合宿の解散地点だったが、上級生は意識もうろうとしている和田君を置いて引き上げた。和田君は1年生部員によって、なんとか立川駅まで連れてこられ、家族の迎えを待った。
21日、和田君が意識不明になり入院、翌日午前3時40分、呼吸困難に陥って死亡した。司法解剖によると、和田君の背中には直径15cmぐらいのえぐれた外傷があり、眉間から鼻にかけて大きな打撲傷があった。特に下半身の打撲傷がひどく、下腹部から出血していた。直接の死の原因は、肺炎、肺水腫の併発による呼吸困難であるが、これは全身打撲で内臓が圧迫されたために発病したものとされた。
練馬署は21日の段階でリンチの線で捜査を進めており、25日には主将のWと副将のFの2人を逮捕した。なおも「徹底的に事件は叫明する」という署長の言葉のもと、合宿参加者全員(1年生28名、上級生18名、OB2名)に対し、事情聴取を行い、25日に副将Mと副将Tら5名を、6月4日にはOBで監督のIを逮捕した。
さらに、このIこそが農大ワンゲル部のトップであり、このリンチ事件の首謀者であったことを明かにした。
ある部員は「自分たちも1年のときから同じ訓練を受けてきた」と話したという。