訳した本は反イスラム、教授が殺害され未解決事件へ

1991年7月12日 、筑波大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟7階のエレベーターホールにて、同大学助教授の五十嵐一さんが刺殺されているのが発見される。
「イスラム式の殺し方」とみられる。
五十嵐さんは、1990年、サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語訳している。
前年、イランの最高指導者が同書を反イスラム的であるとして、発行に関わった者などに対する死刑宣言をしていた。
2006年7月11日、時効が成立して未解決事件となった。
犯行の経緯や動機
1989年2月、イランの最高指導者、ルーホッラー・ホメイニーが、サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を反イスラム的であるとして、著者や発行に関わった者に死刑が宣言されていた。
1990年、五十嵐さんはサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を翻訳。
その真意を「中央公論」にて、読者として、イスラム研究者として興味を覚え、同宗教に対する冒涜の書ではないと判断したからこそ翻訳を引きうけたとしている。
1991年7月12日 、筑波大学筑波キャンパス人文・社会学系A棟のエレベーターホールにて、同大学助教授の五十嵐一さんが刺殺されているのが発見される。
司法解剖により、11日午後10時頃~12日午前2時頃の間に殺害されたと判断された。
五十嵐さんの首に、左に2箇所、右に1箇所の頸動脈を切断するほどの深い傷があり、「イスラム式の殺し方」とされる。
また、右側の胸や腹など3箇所の刺傷は肝臓に達していた。
現場からは犯人のものと思われる血痕や足跡が見つかった。
犯人はエレベーターの使用を避けて階段で3階まで降り、非常階段から逃走。その後の消息は判明していない。
2006年7月11日、殺人罪の公訴時効が成立し、未解決事件となる。
捜査中、大学の五十嵐さんの机から、殺害前数週間以内と思われる時期に書いたメモが発見された。
壇ノ浦の戦いに関する詩が日本語およびフランス語で書かれていたが「壇ノ浦で殺される」という日本語に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と書かれており、五十嵐さんは自信に危険が迫っていることを察知していたと推測された。
判決とその後
CIAの元職員は、テロ活動などを行う特殊部隊「ゴドス軍」による犯行を示唆した。エレベーターホールで襲撃したのは発見されやすく、見せしめだという。
1998年4月30日、『週刊文春』は「『悪魔の詩』五十嵐助教授殺人に『容疑者』浮上」と記事を掲載。同誌は治安当局が『容疑者』を特定していた極秘報告書を入手していた。
当時、東京入国管理局は筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生を容疑者としてマークしていたという。
この学生は五十嵐さんの遺体発見当日、昼過ぎに成田から帰国している。