1971年8月7日午前2時頃、千代田区一番町にある警視総監公舎玄関脇に、爆発物らしき物がしかけられているのを警備の巡査が発見、犯人らしき男ともみ合いとなったが、逃げられてしまった。
この事件で、日大闘争などで闘ったメンバーが、車の盗難事件の別件で逮捕され、爆発物取締罰則で起訴されたが、全員の無罪が確定。
事件の経緯と詳細
1971年8月7日午前2時頃、千代田区一番町にある警視総監公舎の赤外線装置が突然作動、宿直の巡査が駆けつけたところ、玄関脇に爆発物らしき物がしかけられているのを発見した。
巡査は犯人と見られる若い男と格闘になり、いったん捕まえたが、後ろ向きのまま鉄扉の間をすり抜け、待機させていた車で逃げられてしまった。
後の鑑定でわかったことだが、この爆発物は2mmのベニヤ板も損壊できない「爆弾もどき」「仕掛け花火」にすぎないものであった。
直後の2時15分、公舎から近い新宿区坂町の靖国通りに、車種とナンバーから犯行に使われたと見られる普通乗用車「コロナ」が放置されているのを警官が見つけた。
車は須藤正(当時23歳)名義のもので、警察はすぐに須藤宅に電話をかけたが、応対した父親が「まだ帰宅していない」と答えた。
須藤は日大闘争を闘った人物である。
当日の夕方から、新宿の喫茶店で日大闘争時代の友人・桐野敏博(当時23歳)、二瓶一雄(当時23歳)、伊藤博司、後藤国雄と会って話しこんでおり、最終的には女性2人も合流して二瓶宅に行き、午前1時過ぎて解散した。
須藤は自分の車「フローリアン・バン」で桐野を送った後、伊藤の家に行った。同行の後藤はそこに泊まったが、須藤は午前2時頃伊藤方を出て、20分後に自宅に戻った。父親が警察からの電話に出ていたのはちょうどその時だった。
問題のコロナは、たまたま桐野が二瓶とともに10日ほどまえに入手していた3万円のポンコツ車だった。それを当時、週刊現代の記者をしていた福富弘美(当時37歳)に貸してあったのである。
福富は当初、「車は前日に盗まれた」と嘘の供述をしたが、後に車の所有者は京大全共闘のMら2人で、須藤は名義を貸し、車を預かっていただけということがわかった。その知人から「車を返してくれ」と言われて、前日新宿駅前で渡していた。
当日午前5時頃、須藤と福富は、車を確認してもらうという名目で、麹町署に連行された。そこで須藤は二瓶宅に夜遅くまでいたこと、福富は夜10時に帰宅してそれからは一歩も外出していないと説明した。
この時、同時に面通しも行われていた。靖国通り上で車を乗り捨て、曙橋方面に逃げて行った2人の若い男の目撃者であった女性は、須藤・福富は別人であること証言した。また車内にあったタオルとハンカチと、2人の着衣を警察犬に嗅がせてみたが「反応なし」だった。
逮捕の経緯
須藤は前述したように日大全共闘に属していた。そして桐野、二瓶らと成田・三里塚闘争に取組んでいた。総監公舎爆破事件と同じ頃、成田署で同種の爆弾による爆破事件があり、疑惑を深めることとなった。
事件は迷宮入りかに思われた11月6日、福富と二瓶は交通事故にからむ窃盗事件で別件逮捕される。
公舎爆破未遂事件の数ヶ月前、麹町署管内で車の三重衝突事故があり、間にはさまった車両が20日前に小金井市内で盗難されたものだった。この車に乗っていた2人の男は現場から逃げ出していたが、1人は背が高くヒゲを生やしていた。
福富もヒゲを生やしており、背格好も似ていた。警察はこれに気づき、公舎事件と結びつけることを思いついたとされる。この交通事故の2人の運転手を訪問、福富の写真を見せ、同一人物か尋ねた。事故の男は顔全体にヒゲがあったが、福富は鼻ヒゲだけで、運転手も「同じ男かは断言できない」としたが、警察は「事故の男は福富でもう1人は二瓶である」という供述調書を作成した。
翌17日に須藤、23日に桐野、25日に岩淵英樹、外狩直和(当時29歳)と次々別件逮捕された。
11月27日、福富は釈放されたが、二瓶は窃盗罪で起訴され、他の人物も起訴されていった。
12月12日、二瓶が自供、15日には福富を含むこの6名は爆発物取締罰則違反で再逮捕。そして72年1月5日、実家にいてアリバイが成立していた外狩をのぞいた5名が爆発物取締罰則で起訴。さらに共犯として佐藤憲一が全国指名手配された。
1月9日、爆弾を提供したとして飯田真司逮捕。だが31日、起訴できずに釈放される。結局、爆弾の出所は不明のまま。
警視庁の描く事件像は次のようなものだった。
(1)5月7日、三里塚闘争の「足」にするため、桐野、須藤、岩淵、外狩、二瓶の5人は、小金井市で乗用車1台を盗む。
(2)外狩をのぞく5人は、警視総監公舎に爆弾を仕掛けることを計画。
(3)8月上旬、桐野と須藤が、京都から爆弾を調達。
(4)8月7日、福富の運転する車で総監公舎に乗りつけ、二瓶が玄関前に爆弾を仕掛けた。
判決とその後
72年4月5日、二瓶の分離公判で懲役2年の実刑判決。取り調べの時に「認めないと実刑になる」と言われていたが、実刑となった。二瓶は初めて騙されたことに気づき、自白を撤回、控訴した。
83年3月9日、東京地裁は5被告に無罪を言い渡す。公舎爆破未遂事件はもとより、自動車窃盗事件についても犯行の証明がないことを指摘した。22日には検察側も控訴を断念し、無罪が確定した。
4月1日、無罪確定を受けて、指名手配されていた佐藤が11年3ヶ月ぶりに姿をあらわし、記者会見。
12月15日、控訴審判決で二瓶にも無罪。
71年という年は、真岡猟銃奪取事件(2月)、明治公園爆弾投てき事件(6月)、朝霞自衛官刺殺事件(8月)、日石ビル地下郵便局爆破事件(10月)、土田邸爆弾事件(12月)、新宿クリスマスツリー爆弾事件(12月)などの左翼による事件、または爆弾事件が頻発していた。ほかに交番、機動隊宿舎爆破(未遂含)なども相次いでいた。
そんななか「御膝元」で起こった総監公舎爆破未遂事件は、警察の威信にかけて、なんとしてでも犯人を早期に捕まえる必要があった。この焦りがデッチあげを呼んだものと見られる。5人が爆発物取締罰則で起訴される際、地検と警視庁で意見の相違があったともされる。
97年1月14日、福富らのおこした国家賠償請求で、東京地裁は「警察官による違法な取り調べがあった」として、都に300万円の賠償命令、だが「起訴に違法はなかった」として国や個人への請求は退ける。双方控訴。
元被告らは国家賠償請求を提訴。2001年12月20日、裁判所は捜査の一部の違法性を認め、300万円の支払いを命じる判決が確定している。