かつていじめにあっていた加害者が、ホームレスの男性を川に投げ込み殺害
1995年10月18日午前8時30分頃、大阪市中央区の道頓堀川(水深3.1m)に架けられた戎橋上において、手押し台車の上で仮眠していた藤本彰男さん(63歳)を通りかかった坂本広宜(当時24歳)と田辺健次郎(当時25歳)が川へ投げ落とそうと企て、藤本さんの体を持ち上げ、欄干越しに5.4m下の川に突き落とした。藤本さんは病院に運ばれたが、同日午前10時22分に亡くなった。
2日後、逃走していた田辺が摂津市内の公園のベンチで寝ていたところを逮捕される。その翌日、坂本も東京の新宿区歌舞伎町のゲームセンターにいたところを逮捕された。また坂本、田辺らとともに犯行現場を立ち去った元ウェイターのA(当時22歳)は自分から捜査本部に出頭し、参考人として事情聴取に応じた。
坂本広宜について
癲癇(てんかん)を患っており、小学校も休みがちで、中1からてんかん発作がひどくなり、中学2年から時代は特別学級に入っていた。
癲癇(てんかん)は、痙攣・意識障害などの発作を繰り返す脳の疾患。突然意識を失って倒れ、硬直・手足の痙攣を起こすなど、症状は多様。遺伝的素質によるほか、外傷・脳腫瘍など脳の損傷によっても起こる。
そのことと関係があったのかなかったのか、Aは小学校時代から同級生からのいじめにあっていた。だが、Aはそうした理不尽な暴力に対して「仕方ない」と感じて生きてきた。
中学校卒業後、電気制御盤製造会社で工員として3年、その後トビ職やパチンコ店員などアルバイトを転々とする。抗てんかん薬の薬の副作用などで、仕事中もウトウトしたりボーっとしてしまうなど、勤務評価は芳しいものではなく、アルバイトをクビになることもあった。アルバイトの面接では「てんかん」と口にした瞬間、落とされることもあったという。
もちろん、この病気を持っていても普通に働いている人はいくらでもいる。しかし、こうした”排除された”事実は坂本を社会不信にさせ、いつまでも無職でいる事のひとつの要因となったのではないだろうか。
仕事も決まらず居場所を求めていた坂本は道頓堀にたどりつき、何人かの友人を見つけた。同じく何らかの事情で道頓堀にたどりついた子を坂本が励ましていたこともあったという。
坂本広宜被告の手記
あのころの僕の寂しさはあなたの寂しさでもあった……そんな気がするのです
「道頓堀川ホームレス水死事件」から2年半。友人とともに傷害致死罪で起訴された坂本広宜被告が大阪拘置所で書いた手記が毎日新聞社が報じた。
同紙によれば、坂本被告は事実認定を争って控訴しているものの、奪った命の重さを知ろうと自問し、路上を居場所にする若者とホームレスの共通点にたどり着いているという。以下に坂本被告の手記と、それに対する読者の感想を併せて紹介する。
ちなみに手記は、弁護士が坂本被告に永山則夫元死刑囚の著書「無知の涙」を差し入れ、自問自答を続けた死刑囚を知ったことから書き始めたという。
いじめ
僕は4歳から「てんかん」と聞かされた。薬のせいか急に眠気がさし、体の動きが鈍い気がしたりする。何も知らぬ職場の人に「何トロトロしてんねん」って言われるたびに、病気を恨み、ひたすら頭を下げ、最終的にけんかして会社を辞めることが多かった。
坂本被告は病気などを理由に小学生時代からいじめられ、教師や親に相談しても解決できなかったことから「弱者はいじめられて当然」と思うようになったという。そして、“強者”に加わって盗みを繰り返し、中卒後、職を転々とし、事件の1年前、パブの客引きを辞めた。
仕事が嫌いな訳じゃない。髪を黒く染め、就職情報誌を隅々までチェックして履歴書を書いた。でも面接で病気のことを話すと断られ、「もうしんどい」と思うようになった。
何もかも病気のせいにし、生まれてきたことすら、何かの言い訳にして生きてきた。だけど本当はそんな自分が悪いのだ。
橋の子
職を失った坂本被告は戎橋で「橋の子」と呼ばれる若者たちと出会う。家出少女や無職少年、初めて得た仲間だった。
人と接する時、一歩も二歩もさがってつきあっていた。人の心まで信じきることが出来なかった。だけど「橋の子」たちは僕とよく似た痛みや思いを持ちあわせている、そう感じた時、初めて居場所を見つけた気がした。
そんな仲間が就職や結婚で橋を“卒業”し、路上生活者に向けた坂本被告の暴力が始まったのだという。
暴力
僕はホームレスにある日突然、嫌悪感を抱き始めた。け飛ばし、つばを吐きかけ、たばこの火を押し付けた。雨に打たれ、食べ物がなくてもなぜ平気なのか。夢や希望がなく生きられることがうらやましい半面、人間の生き方には映らなかった。だから自分に「おれには夢も希望もあるんだ!」って言い聞かせた。うらやましいと思う自分が本当に嫌で、悲しかった。
そして藤本彰男さんへの事件を起こした。
ホームレス
坂本被告は裁判資料などを読み、「橋」のもう一つの現実に気付いた。
藤本さんは9人兄弟の六男で、小学校卒業後、工員として働いた。工場を解雇され身内と音信不通に。建設現場で働いたが、高齢やけがのため、事件当時は古紙回収をしていた。
わずかなお金にしかならなくとも働いていた藤本さんが、望んで路上生活していたなんて、今は考えられない。望んだとしても理由があるはずだ。僕が知らなければいけないところはそこにある気がする。それは僕を含めた一人一人に向けられる問題だと思う。
過酷な労働の末、体が不自由になったのに、路上生活をしなければいけない。高齢で学歴も体力もないことを承知で仕事をくれる会社は今の日本にあるのか。力になってくれる身内や親せきはいないのか。この世には差別がある。そんな人たちは自分の人権をどれだけ守れて、周りはどこまで理解できているのか。
自問
あのころは寂しさと自信のなさをホームレスの人たちにぶつけていた。あの人たちにも悲しい過去があり、ひどい病気もある。理解してもらえない苦しみや寂しさ。息を引き取る前、藤本さんの心にあったものは何だったんだろう。それを考えると涙が出て、罪の重さを痛いほど感じる。
僕に足りなかったもの、ホームレスを作り出す社会に必要なことって何だろう。結局、一人一人の気持ちなのだ。自分を考えること、負けぬこと、信じること、愛すること。それができなければ、自分以外の人間を守ることもできない。人を思いやる気持ちを持つため、精いっぱい生きていかなければ。それは自分との戦いという気もする。
反響(1998年6月24日)
「今まで他人と接する時、一歩も二歩もさがって付き合ってきた」という坂本被告の姿に、香川県善通寺市の大学生、桑折美佳さん(21)は自分を重ねて読んだという。高校時代まで、いじめは日常的にあった。人と敵対することへの恐怖を感じたが、「それでも生きられるのは、自分を大切にしてくれる存在があるから」。坂本被告や藤本さんのことを知り、「自分も知らぬ間に差別する側に回っていたこともあるかもしれないと思った。人を理解しなければ何も始まらない」と答えている。
兵庫県一宮町、フリーアルバイター、世良華子さん(22)は、卒業論文で「ホームレス」を取り上げ、路上で多くの「おっちゃん」にインタビューした。「親や先生のような大人たちにはない親近感と説得力があり、自分を考え、見つめることにつながった」というが、予想以上に問題が大きく、結論を見いだせないまま終わった。「坂本被告は自分なりに何かを見つけ、気づいています。うまく表現できないのですが、生きることの大変さを感じます」と語った。
路上生活者への虐待を繰り返してきた坂本被告の悔恨と、生き直す決意に対し、「人間の価値って、地位や名誉やお金でなく、どれだけ一生懸命生きていたかで決まると思う。藤本さんは一生懸命生きていた。坂本被告も精いっぱい生きようとしている」(兵庫県三田(さんだ)市の女性)などエールを送る感想が相次いだ。
一方で、「文章にすることで自分を悲しみのヒーローにしているよう。反省を美化しないでほしい」=大阪市、主婦(29)=のように批判的な意見もあった。
被害者の藤本さんの追悼集会などにかかわってきた大阪市西成区のカトリック神父、本田哲郎さん(55)は手記を読み、「坂本被告の事件に対する真剣なとらえ直しを感じた」と語る一方、「被告の反省だけで悲劇の連鎖は止まるのか」と問題を投げ掛けた。
本田さんによると、大阪市内には約7000人の路上生活者がおり、あいりん地区周辺だけでもこの1年で2.5倍に増え、居住地域も拡散。同時に各地で路上生活者への暴行が増えているという。
坂本被告に対しては「行為は許されないが、彼もまたある意味での『被害者』に違いない。刑期を終えて出所した時、受け入れてくれる社会がなければ、今の気持ちを生かすことはできない」と懸念を示した。「行政は弱者を放任し、市民は『怠け者は仕方がない』と思う。その構造にメスを入れ、我々一人一人が学歴、能力主義、向上志向の価値観を見直さない限り、第二、第三の藤本さん、坂本被告が出る。だれが『藤本さん』や『坂本被告』を生み出したのか、問われるのは私たち自身ではないか」と話した。
藤本彰男さんについて
1932年、大阪生まれ。9人兄弟の6男。小学校を卒業後、ゴム工場工員として働いていたが、1962年頃解雇され、その翌年から自宅に帰らなくなり、1970年以降、親族と音信不通になっていた。
事件当時は道頓堀界隈で段ボールを集め、古紙回収業者に売って生計を立てていた。ちなみにこの仕事はリヤカーいっぱいに段ボールを持っていっても、700円程度にしかならなかったという。私はリヤカーの古紙回収の仕事風景を目にしたことはあるが、これは日当700円などありえないほどの重労働だ。60を過ぎた高齢者が体に鞭打ちながら、こうした仕事をせざるを得ない状況も問題だと言える。
事件当日
藤本さんが川に落とされた頃、通行人は出勤途中のサラリーマン、朝帰りの若者など30人近くがおり、大半の人が欄干ごしに川をのぞいていた。しかし、坂本らが逃げるまでの10分間、この若者を取り押さえたり、藤本さんを救助に向かう人は誰も居なかった。現場から10数メートルのところにある戎交番には、2人の警官がいたが、事件にはまったく気づかなかったという。
坂本と田辺は橋の上から様子を見ていたが、藤本さんが浮かんでこないため、近くの工事現場からロープを持ってきて、助けに川岸まで降りていった。しかし発見することが出来ずに、通行人に「110番通報しろ」という声を聞き、あわてて現場から逃げ去ったという。
逮捕後、坂本は「乞食を見るといじめられていた当時の自分を見るような気がして、腹が立っていた」と供述した。
裁判とその後
坂本被告、懲役6年
1997年1月23日、大阪地裁・谷口敬一裁判長(転任のため吉井広幸裁判長代読)は「無抵抗で落ち度のない被害者を遊び気分で虐待した犯行は、極めて悪質。社会に多大な衝撃を与えた」などとして坂本に懲役六年(求刑同七年)を言い渡した。
検察側は、坂本被告が中学時代に同級生らにいじめられたことから、今回の事件のようないじめる側に回ったと指摘していたが、吉井裁判長は「幼いころいじめられた経験を、大人になって自分が他人になしたという結果の意味を真剣に考えてほしい」と付け足した。
同被告は「欄干に座らせた藤本さんが、しがみつこうとした手を振り払ったら落ちてしまった。投げ落とそうとしたのではない」などと主張したが、判決は目撃証言などから否定した。
弁護側は「1人の犯行だった」という目撃証言があることなどを根拠に、「坂本被告が1人で藤本さんを驚かせようと欄干にのせ、しがみついてきた藤本さんの手を振り払ったら落ちたという偶発的犯行だった」として大阪高裁に控訴。
田辺被告は現在1審で、「当時、橋の上にはいたが、関与はしていない」と、無罪を主張した。
田辺被告、無罪に
1999年5月6日、傷害致死の罪に問われた住所不定、無職・田辺健次郎被告に対する判決公判で、大阪地裁は無罪(求刑懲役六年)を言い渡した。大山隆司裁判長は「田辺被告の関与を指摘した目撃証言には合理的疑いが残る」と述べた。共犯とされた友人の一審判決は田辺被告の関与を認定しており、一審段階で結論が分かれた形になった。
判決は、田辺被告の犯行を目撃したとされる通行人ら四人の供述について、いずれも「犯行の瞬間をはっきり目撃したとは言えず、具体性に乏しい」と指摘したうえで、「記憶の確実性に疑問を挟まざるを得ない」と信用性を否定した。また、捜査段階でいったん田辺被告の関与を供述し、公判では一転して単独犯行と主張した坂本被告の証言については、「田辺被告の関与を認めた供述は捜査官の理詰めの誘導に迎合したもの」と認定した。
弁護側は、「田辺被告が坂本被告と共謀して男性を抱え上げ、落としたという事実はなく、目撃者の証言も信用性に乏しい」として無罪を主張。捜査段階で坂本被告との共謀を認めた供述調書は、捜査員の過酷な取り調べで作られた
判決後に会見した弁護人によると、田辺被告は判決前の接見で、「無罪を確信している」と話していたといい、判決については「うれしい」と話しただけで落ち着いているという。今後は、しばらく母の家で静養したあと社会復帰を考えるという。莚井(むしろい)順子弁護士は「時間はかかったが、各目撃証言に踏み込んで判断してもらった。警察は、思いこみや偏見で捜査したのではないか。目撃者の声に公平に耳を傾けてほしかった」と話した。
大阪地検次席検事・中尾巧は「予想外の判決である。内容を十分検討して上級庁と協議のうえ、控訴するかどうかを考えたい」と話した。
1999年5月17日午前、大阪地検は無罪判決を不服として、大阪高裁に控訴。
2000年3月31日、大阪高裁は田辺健次郎さんに対する一審の無罪判決を支持、検察側の控訴を棄却する判決を言い渡した。