強盗に失敗した犯人がガソリンで放火して逃走。逃げ遅れた従業員らが死傷
2001年5月8日、武富士弘前支店に押し入った男が「金を出せ」とガソリンに火を付けた。
これにより従業員5人が死亡、4人がやけどを負った。
犯人は何も盗らずに逃走したが、翌年の2002年3月3日、タクシー運転手・小林光弘(当時43歳)が逮捕された。
事件の経緯と動機
2001年5月7日、小林は勤務先の休日を利用して弘前支店を訪れ、カウンターの位置や従業員数を確認した上で、浪岡町周辺のガソリンスタンドで約4リットル入りの金属缶でガソリンを購入した。ちなみに、犯行当日も休日であった。
5月8日午前10時45分頃、小林は弘前市田町5丁目にあるビル3階の武富士弘前支店に押し入った。
支店には出入り口から奥が見えないように、カウンター部分と店舗奥にある管理室との間を仕切る壁があり、小林は出入り口近くからカウンターの内側に向かって、金属製の缶に入ったガソリンを主成分とした混合油(以下、単純にガソリンと表記)を撒いた。
ガソリンを撒き終えると、小林は「金を出せ出さねば火をつけるぞ」と津軽弁で脅迫した。
これを支店長が断ると、小林はガソリンに火を放った。
この間、わずか3分間の出来事。10時48分には支店長が「今、男が来て火を付けるところだ」と110番通報した。
当時、支店内の金庫には1000万円が入っていたが、小林は予想以上に火の勢いが強かったためか何も盗らず、あらかじめ外に停めておいた深緑色の軽ワゴン車「スバル・サンバー」で青森市方向に逃走した。
そして、その間にも火はさらに燃え上がり、店内を覆いつくした。
このとき従業員は9名いたが、同支店勤務の田沢伸治さん(当時36歳)、太田はるかさん(当時20歳)、葛西志保里さん(当時22歳)、笹森容子さん(当時46歳)、福井貴子さん(当時30歳)の5人名が焼死、他に店長ら4人が火傷を負った。
亡くなった5人は、店舗奥に追い詰められたような状態で発見された。
同支店の店舗には出入り口が1カ所しかなく、従業員らは出入り口から反対方向の管理室の方に逃げたが、火の回りが早く、避難口に設置したロープ式の避難器具も使えなかったものと見られた。
ちなみに残りの4名は、駆け付けた近くのファストフード店の店長らがかけたはしごで、なんとか脱出することができていた。
同支店では防犯ベルが5箇所に設置され、ベルが鳴れば数分で警備員が駆けつける体制になっており、2台の防犯カメラも24時間稼動していた。しかし、店内の焼失とともにカメラも燃えてしまい、科学捜査研究所にまわせないものが多かったという。
「犯人は津軽弁を話す水色のつなぎを着た40代の男」という被害者や目撃者の証言をもとに、警察は犯人のモンタージュを作成・公開した。
また、犯人が逃走に用いた深緑色の軽ワゴン車を対象に捜査が進められ、さらに放火に使われた新聞紙の購買客から絞り込み捜査が行われた。
同僚・仲間を失った武富士の社員たちも、街頭で犯人の似顔絵つきのポケットティッシュ2億5000万個を配るなど、犯人逮捕に向けて協力を惜しまなかった。
ニュース番組でもたびたび似顔絵が報じられたことで、似顔絵に似ているとして280人の情報が寄せられた。
ちなみに、事件のあった弘前市のビルは2001年12月25日に取り壊されている。
小林光弘について
青森県南津軽郡平賀町で4人兄弟の次男として生まれ、千葉県で定時制高校に通っていた当時、ガソリンスタンドでアルバイトしていた。
1987年、青森に帰りタクシー会社に勤務。人当たりが良く、勤務態度も真面目だったという。
1995年1月には自宅購入。このときの1760万円の住宅ローンを組んだ。
1997年頃、自身の仲人の女性・A子に「面倒を見ている一人暮らしの老人から近々1000万円もらえる予定だが、その手続きに金がいる。貸してもらえないか」と持ち掛けられ、青森市内の4つの消費者金融から50万円ずつ、計200万円を借金した。小林の妻も消費者金融から50万円を用立てていたという。
1998年頃、タクシー会社の労働組合から10万~20万円程度を借りて青森競輪場に行き「一発勝負したが負けた」などと話していた。この借金は給与から天引きで返済していたというが、競輪の資金として、複数の消費者金融から金を借りており、このときには借金の総額は住宅ローンなどを含め2300万にまで膨れ上がっていた。
一時は同僚を交え、A子に金を返す旨の念書を書かせたりしたとされるが、既に督促に困っていた小林は、退職金を見込んで10年勤めた青森のタクシー会社を退社。以後は職場を転々とした。
借金は退職金や実父の死亡保険金などで返済したが、再び競輪で借金を繰り返すようになった。
その後上京し、東京のタクシー会社にも勤めたこともあったが、3ヶ月ほどで青森に戻った。
2000年4月、増収を見込んで「軽急便」で軽貨宅配の仕事を始める。(軽急便については下の記事を参照)
4月末、行方をくらましていたA子が、岩手県にある港で一家三人と心中。
A子はその直前、詐欺容疑で青森署から指名手配されていた。小林はA子を信じ込んでおり、A子の死で借金を完全に背負う形になってしまった。また、増大した借金に小林はますます競輪にのめりこむようになった。
2001年5月には、1度辞めたタクシー会社で再び働き始めた。同僚は、「勤務態度はまじめ」「安定したノルマを果たす仕事ぶりだった」と話している。
そして事件翌日の5月9日、小林は事件翌日にはなにくわぬ顔で出勤。そしてこの日、ガソリンを入れていた4Lの金属缶を自宅近くの雪捨て場のようなところに捨てた。
5月下旬には、小林は裁判所に自己破産を申請している。
逮捕とその後
翌2002年3月3日朝、犯人が逃走に使った車と同じ色の緑色の軽ワゴン「スバル・サンバー」を保有、犯人の似顔絵とよく似ていたことから、青森県浪岡町のタクシー運転手・小林光弘(当時43歳)に任意同行を求めた。
当初、小林は容疑を否認したものの、アリバイは身内の証言のみで信憑性が薄く、さらに、事件当日および前日が休日となっていたことや、ガソリンの購入歴が明らかになったことで、小林は翌3月4日に「わたしがやりました」と容疑を認め、逮捕された。
また、犯行当時に着ていた水色のつなぎも、小林の自宅から発見された。
しかし、小林は「5人も死ぬとは思わなかった」「火をつけたのは逃げるためで、殺意はなかった」「人生、命を奪ってしまい、ひたすら頭を下げるだけです。あとは法の裁きを受けるだけです。」などと供述し、殺意を否定、減刑を求めた。
しかし、2003年2月12日、青森地裁は「競輪にのめり込んで借金を重ねた末の犯行。焼死者5人、負傷者4人を生じさせた罪責は限りなく重い」として、検察の求刑通り死刑を言い渡した。小林は即日控訴した。
2004年2月19日、仙台高裁は控訴を棄却。小林はさらに上告した。
2007年3月27日、最高裁・上田豊三裁判長は「逃げ道のない室内で放火し、恐怖におののいている被害者らを焼き殺した凶悪で残虐な犯行。結果も極めて重大」と述べ、上告を棄却し、死刑が確定した。
しかしその後、小林は「執行逃れ」と言わざるを得ない再審請求、即日控訴、特別抗告などを繰り返したが、すべて棄却された。
そして、2014年8月29日、小林の死刑が執行された。(享年56歳)