刑事責任能力の有無が注目された惨忍冷酷な事件の真相とは…
会津若松母親バラバラ殺人事件とは、2007年5月15日に福島県会津若松市で発生した栗田恭平(当時17歳)が母親のはるみさん(当時47歳)を刺殺した殺人事件です。
同日午前7時頃、会津若松署へ「母親を殺害しました。」と栗田恭平が自主したことで事件が発覚しました。
冷静な犯行の経緯と動機
栗田恭平は、自首した際、切断されたはるみさんの頭部を通学用のショルダーバックに入れて持ってきており、応対した女性警官は生首と目が合い卒倒して医務室に運ばれたといいます。
署員が少年の自宅アパートに駆け付けたところ、布団の上ではるみさんが頭部を切断された状態で死亡しており、栗田恭平を殺人容疑で緊急逮捕したのです。
5月16日、殺人と死体損壊の疑いで送検されました。
栗田恭平は5月15日午前1時30分頃、寝ている母親を包丁で刺し、のこぎりで首を切断。足と腕も切ろうとしたが切れなかったと証言したといいます。
その後、インターネットカフェでアメリカのアーティストビースティ・ボーイズのDVDを見て夜を明かしました。そして、6時20分、携帯電話でタクシーを予約し、警察署へ乗り付けたのです。タクシーの後部座席にはバックからもれた血が付着していました。
動機については、「誰でもいいから殺そうと考えていた。」「戦争やテロが起きないかなと思っていた」と供述しています。
栗田恭平は、高校2年生の9月頃から不登校気味となっており、3年生になってからは5日間登校しただけで4月13日を最後に登校していませんでした。
2007年5月1日には市内の精神科に行き、精神的に不安定になっていると診断されていたということです。栗田恭平は実家から60km離れた高校に通う為アパートを借りていました。
14日に仕事を終えたはるみさんがアパートを訪れ、殺害された15日は、奇しくもはるみさんの47歳の誕生日だったのです。
少年の人物像と事件のその後
栗田恭平は中学時代、卓球部に入っていましたが、1年で辞め、そこからは勉強に専念し何事にも一所懸命な優等生だったといいます。市内でもトップクラスの高校にも合格しています。
しかし、高校に入ると長髪にし、爪も伸ばすようになりました。友達にもうまく溶け込めず友達も少なかったようで、次第に不登校となってしまうのです。
2007年5月、殺人と死体損壊の非行事実で送検され、家裁決定が2月26日に下されました。福島家庭裁判所会津若松支部は、栗田恭平の完全責任能力を認定したうえで、充分な治療と教育が必要と判断。医療少年院送致という保護処分を決定したのです。
子どもが母親の首を切断するという惨忍な殺人事件。2001年の少年法改定により、16歳以上の少年が重罪を犯した場合、刑事裁判で裁くことが決められました。この事件も、この法律改定におけるきっかけを作った事件のひとつであることは確かでしょう。