国内史上4番目に大きな被害を出した獣害事件
1970年7月、日高山脈を縦走せんとしていた福岡大学ワンゲル部5名が執拗にヒグマに襲われ、3人が次々と命を落としていった。
ワンゲルはワンダーフォーゲルの略で、ドイツ語で「渡り鳥」って意味だよ。20世紀初頭、青少年の間に、山野を徒歩旅行し、自然と親しみながら心身を鍛えようとする運動が始まり、これをワンダーフォーゲルと呼ばれました。戦後、日本でもこの運動が広がり、ハードな「山登り」を行う山岳部とは異なり、「山歩き」「自然散策」というイメージが強く、そこが学生の人気を集めました。今でいうアーシング的な。。。
事件の経緯と詳細
1970年7月、福岡大学ワンダーフォーゲル部員の5人パーティーが日高山脈の芽室岳(1754m)からペテガリ岳(1736m)までの日高山系縦走すべく入山した。
・竹末一敏さん(経済学部3年 20歳 リーダー)
・滝俊二さん (法学部3年 当時22歳 サブリーダー)
・興梠盛男さん(工学部2年 19歳)
・西井義春さん(法学部1年 19歳)
・河原吉孝さん(経済学部1年 18歳)
5人は7月12日午前9時に、九州・博多から列車「つくし1号」で出発し、14日新得に到着。新得署御影派出所などに登山計画書を提出し、その日の午後から登山を始めていた。
7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ山(1979m)にさしかかっていた5人だったが、大幅に予定が遅れていたため、翌日の登頂後に下山することにした。カムイエクウチカウシとは、「クマが転げ落ちるほど険しい峰」という意味である。
この日の夕方、パーティーは峰直下の「九ノ沢カール」という箇所でテントを張ったが、ここでヒグマからの最初の襲撃を受けた。
カール(ドイツ語)とは、氷河の浸食によって、山頂直下の斜面が、すくい取ったように円形に削られた地形のことで。日本では飛騨・赤石・日高山脈などにみられる。日本語では圏谷(けんこく)だよー。
発見したのは竹末さんで、テントから7mほど離れたところにヒグマはおり、当初パーティーは誰もヒグマを怖がっておらず、しばらく興味本位で見ていたが、やがてヒグマの方から近づいてきて、テントの外にあった登山用のザックを漁り、中の食料を食べ始めた。発見してから30分ほど経った頃である。
メンバーはラジオの音量を上げ、火を点し、食器を打ち鳴らしてなんとかヒグマを追い払うことに成功した。
しかし午後9時頃、疲れて眠っていたパーティーはヒグマの鼻息で目を覚ますこととなる。ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、去って行った。これが2度目の襲撃で、メンバーは2人ずつ2時間交替で見張りを立てることにした。
執拗な襲撃
7月26日午前3時、起床。快晴。結局のところ、メンバーは恐怖のため誰一人眠ることができなかった。そして4時半頃、3度目のヒグマの襲撃を受ける。
ヒグマは執拗にテントを引っ張り続けるため、パーティーはテントを捨て、外に退避した。ヒグマはテントを引き倒し、あいからず登山用のザックを漁っていた。
竹末さんの命令により、サブリーダーである滝さんと1年生の河原さんが営林署に連絡してハンターによる救助の要請をしに山を下り始めた。2人は途中の八ノ沢で別の大学生パーティー「北海岳友会」(北海道学園大学の学生10人ほど)と出会う。
北海岳友会もまたヒグマ(おそらく同じ個体)に襲われていたため下山するとのことで、2人は伝達を頼み、また食料や地図、ガソリンなどを譲り受け、再び残る3人を助けようと戻って行った。
滝さんと河原さんは戻る途中で2組の大学生パーティーと出会ったのち、午後1時頃に他の3人と合流。テントを修繕し、設営して、夕食をとった。
夕食を終え、寝にかかろうとしていた午後4時半頃、例のヒグマがまた現れ、テントのそばを離れず、それから約1時間も居座り続けた。パーティーはその場に居続けることは危険だと判断して、八ノ沢で設営していた鳥取大パーティー(滝さんらが先ほど出会ったパーティー)のテントに入れてもらおうとした。
山を下りようにも辺りはすでに真っ暗だった。それでも5人は無我夢中で歩き続けた。そして午後6時半、西井さんがふと後ろを振り返ると、そこまでヒグマが来ていた。全員一目散に下り始めたが、ヒグマは河原さんを追い、他のメンバーは「ギャー」という叫び声を聞いた。
「チクショウ!」
暗闇のなか、河原さんの声がした。河原さんは背後からヒグマに襲われており、格闘の末に鳥取大のテントの方へ足をひきずりながら下りていくのを竹末さんが目撃していた。
竹末さん、滝さん、西井さんの3人は鳥取大パーティーに助けを求め、彼らはホイッスルを吹いた。やがて鳥取大パーティーと別れ、3人は岩場に登り夜を明かした。興梠さんは逃げる途中に他のメンバーからはぐれ、別の場所に身を隠していた。3人は河原さんの無事を祈りつつ、はぐれた興梠さんの名前を呼び続けたが、1回応答しただけで姿を見せなかった。
残されたメモ
7月27日早朝、深い霧のため視界は5mほどと、はぐれた2人を探したり、ヒグマの接近を察知するには絶望的な状況となっていた。3人は午前8時頃まで河原さんと興梠さんを探したが、応答はなく、いったん下山することにした。
下りる途中、一番前を歩いていた竹末さんは下方2~3mにヒグマがいるのを発見。ヒグマは逃げる竹末さんを追い、この隙に滝さん西井さんはなんとか五ノ沢の砂防ダム工事現場までたどりつき、自動車の手配を頼む。これが午後1時頃のこと。それからさらに麓の中札内駐在所に到着したが、午後6時になっていた。
7月28日、遭難したメンバー達の救助隊が編成された。しかし、ハンターたちが発見したのは3人の変わり果てた遺体だった。
着衣は剥ぎ取られ、裸にベルトだけが巻かれている状態だった。顔半分がなかったり、腹部から腸が引きずり出されるなど、目を背けたくなる光景だったという。
検死結果によると、3人の死因は「頚椎骨折および頚動脈折損による失血死」であった。致命的な傷は首、顔、股間の3点に限られる。3人はいずれも逃げている最中に後ろから臀部を攻撃され、うつぶせに倒れたところを臀部や肛門部を噛み切られたものと見られた
悪天候により3人の遺体を下ろすことが出来なかったため、八ノ沢で荼毘に付され、遺族に遺骨が手渡されることとなった。
7月26日に仲間とはぐれた興梠さんはテントに一旦戻ったらしく、テント跡には彼の残したメモがあった。文字からは彼がただひとり恐怖と闘い、震えながらこれを書いたことが窺えた。
26日午後5時。夕食後クマ現れるテント脱出。鳥取大WVのところに救助を求めにカムイエク下のカールに下る。
17:30 我々にクマが追いつく。
河原がやられたようである。
オレの5m横、位置は草場のガケを下ってハイ松地帯に入ってから20m下の地点。
それからオレもやられると思って、ハイ松を横にまく。するとガケの上であったので、ガケの中間点で息をひそめていると、竹末さんが声をからして鳥取大WVに助けを求めた。オレの位置からは下の様子は、全然わからなかった。クマの音が聞こえただけである。竹末さんがなにか大声で言ってた、全然聞きとれず、クマの位置がわからず。
ガケの下の方に2、3カ所にたき火が見える。テントにかくまってもらおうと、ガケを5分ぐらい下って、下を見ると20m先にクマがいた。オレを見つけると、かけ上って来たので一目散に逃げる。前、後ろへ横へと転び、それでも振りかえらず前のテントめがけて、やっと中へかけこむ。しかし、誰もいなかった。しまった、と思ったが、もう手遅れである。シュラフがあったので、すぐ一つを取り出し、中に入り込み大きな息を調整する。しばらくすると、なぜか安心感がでてきて落着いた。それでもkazeの音や、草の音が、気になって眠れない。鳥取大WVが、無事報告して、救助隊が来ることを祈って寝る。
27日 4:00 目が覚める。
外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時までテントの中にいることにする。
テントの中を見まわすと、キャンパンがあったので中を見ると、御飯があった。
これで少しホッとする。上の方は、ガスがかかっているので、少し気持悪い。
もう5:20である。
また、クマが出そうな予感がするので、またシュラフにもぐり込む。
ああ、早く博多に帰りたい。
7:00 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあったシャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。
8:00頃まで・・・・(判読不能)しかし・・・・・(判別不能)を、通らない。他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ、助けに来るのか。すべて、不安でおそろしい・・。またガスが濃くなって・・・・
そしてテントの中に一人でいるところを、興梠さんはヒグマに襲われることになった。
29日、福岡大ワンゲル部5人を襲ったヒグマはハンター10人によって射殺された。胃袋が調べられたが、そのヒグマは人間を食べていなかった。つまり、悪戯するかのようにいたぶっていただけということである。
そしてこのヒグマは4歳にして交尾をした形跡はなかった。普通、2歳ほどで子どもを産むものらしい。このヒグマを仕留めたハンターたちは「山のしきたり」により、この肉を食した。
ヒグマの恐ろしさ
正式にはエゾヒグマ(学名:Ursus Arctos Yesoensis)、ネコ目クマ科の動物だ。以下、ヒグマと呼ぶ。
日本には本州にツキノワグマ、北海道にはヒグマがいる。体格はヒグマの方が大きく、体長2m、体重300kgになるものもいる。それぞれのテリトリーを持ち、ヒグマは子連れの母熊以外は単独で行動している。
アイヌの人々はヒグマを山の神「キムンカムイ」と呼び、畏敬の念をはらってきた。彼らにとってヒグマは、山から皮と肉を運んできてくれる、まさに「神」だった。
北海道開拓が始まる頃、ヒグマの住む森に予備知識を持たない農民が送り込まれ、各地で事件が続発する。明治から昭和のはじめまで、実に100人を超える死亡事故が発生した。
とりわけ凄惨の一言に尽きるのは、1915年(大正4年)12月に苫前町で起こった三毛別ヒグマ事件である。死者7名、重軽傷3名という最悪の熊害事件であり、後に吉村昭が「羆嵐」という小説にして、その恐ろしさが人々に強く記憶されることとなった。この事件でヒグマが人間を襲ったのは、冬眠に失敗した「穴もたず」という状態で、空腹になっていたからだった。同時にヒグマも開拓によって平野部から山岳地帯に追いやられるようになった。
1966年、道内で「春グマ駆除」が開始される。これはヒグマを発見しやすい春のうちに、被害が出る前に個体数を減らしておくものである。この駆除では70年代前半までに年間約500~600のヒグマが捕獲された。やがて道内では絶滅が危惧される地域も出始めたため、捕獲数は70年代後半から減少し、春グマ駆除は1990年にいったん中止されることとなった。
ヒグマは立派な牙を持っているが、臼歯に肉を切り裂く鋭さはなく、植物類をすりつぶすのに適している。雑食であり、特に植物食に依存している。それは肉類に比べ、獲得しやすいからである。
よく里に近づくクマは、観光客による餌やりや道ばたに捨てられたゴミ類(ジュースの残りなど)に端を発していると言われる。甘くてうまい味を覚えてしまうのである。そうなってしまうと、多くの場合悲しい結果に終わる。心ない人の餌やりは、クマを殺し、多くの住民を危険に陥らせる。
確かではないが、福岡大ワンゲル部を襲ったヒグマも何度もザックを漁っていたことから、以前に別のパーティーの持っていた食料を口にしていた可能性が高い。
それにヒグマは執着心が強い。最初にテントの外に置いてあったザックを漁った時点でそれはヒグマのものになったのだが、メンバーがを取り戻したので襲ってきたものと考えられる。
泳ぎが達者で、木登りがうまく、のそっとした巨体ながら走るのも速い。
ヒグマは人間をはるかに凌駕する身体能力を持っているが、人間を見ると必ず襲いかかってくるような獰猛な生き物ではない。ただし、この事件のヒグマのように、興味本位で人間に近づいてきたりするものもいる(若い個体に多いという)。
我々が熊を恐ろしく思うように、熊からしても人間が怖い。大抵のヒグマは人間に気づくと、ヒグマの方から逃げるか、ゆっくり離れていく。突進してくることがあっても、威嚇である場合が多い。その時、こちらが背を向けて走り出したり、騒いだりすると攻撃を誘発することになる。また魚や動物の死骸などヒグマが「占有」している物が傍にある時は、それを奪おうとする意志を見せないためにも、こちらがゆっくりとその場を離れることが好ましい。子連れの母グマと出会った時も同様である。
最も大切なことが出会わないことであり、熊鈴を携帯して山歩きする光景がよく見られる。それ以外には声を出したり持ち物を打ち鳴らすなど、異質な音を出すことでこちらの存在をヒグマに知らせることが必要である。
そしてもし対峙してしまった時は、車内に避難したり、有利になるよう高所に陣取ること。唐辛子の成分が使われるクマスプレーなどで抵抗するのが良い。このスプレーは90%以上の確率で熊の行動を止めると報告されている。
実は福岡大ワンゲル部事件によく似たケースが起こっている。1962年7月25日のことだった。札幌商業山岳部員10名が芦別岳(1772m)の登山中、テントの設営を終えて、一息いれたところにヒグマが出現し、雪渓に冷やしてあった缶をかじり始めた。この時も福岡大の5人のように危機感を持っておらず、珍しいその姿に写真撮影したりしている。ヒグマはやがてキャンプの周りをうろうろ回り始めたが、この瞬間から札幌商業のメンバーの行動は迅速だった。「逃げろ」という大声と同時にメンバーは一斉に走り始めた。命の危険があるので、荷物などはそのままだった。しかしただ一人、2年生の津野尾君だけは靴を脱いでしまっており、逃げるのが遅れ、その後翌朝まで13時間にわたってヒグマに追い掛けられた。津野尾君の手記によると、その距離5mに満たないほど追い立てられた末に彼はもうあきらめて、その場に座り込んだ。そのうちにウトウト眠ってしまい、翌朝午前2時頃に目を覚ますと、ヒグマはまだ眠っていた。そしてその間にソロリと逃げ切ったのである。
若い3人の命が失われた福岡大ワンゲル部事件。
よく事前調査をし、ヒグマの性質を知り、最初の襲撃時点で登頂にこだわらず山を下りたり、持ち物を手放すなどの対策をとれば被害はここまで大きくならなかったのかもしれない。
しかしあとからでは何とでも言うことができる。人間常に最善の行動をとれるものではないし、彼らの恐怖と疲労も考慮しなければならない。「事前調査の甘さがあるとするならば、現地のことが書かれたガイドブックに明確な指摘がなかったことこそ問題にされなければならない」と遭難報告書にも書かれてある。3人の冥福を心より祈りたい。