戦後日本の身代金目的誘拐殺人で、捜査機関が犯人を特定できなかった唯一の未解決事件。
1987年9月14日、群馬県高崎市筑縄町、高崎中央消防署員・荻原光則さん(当時43歳)の長男、「私立むつみ幼稚園」・功明(よしあき)ちゃん(5歳)が自宅前の神社から姿を消し、同夜、男から身代金を要求する電話があった。
電話は何度か続いたが、16日午後、市内の川で功明ちゃんが遺体となって見つかった。2002年、時効成立。
事件の経緯と詳細
行方がわからなくなっていた群馬県高崎市筑縄町、高崎中央消防署員・荻原光則さん(当時43歳)の長男、「私立むつみ幼稚園」・功明ちゃん(5歳)の遺体が同市鼻高町の谷津橋下の寺沢川で発見されたのは1987年9月16日午後6時35分頃のことだった。
功明ちゃんは全裸で、うつぶせとなって倒れており、顎が複雑骨折しており、13m上の橋の上から投げ捨てられたものと見られた。
9月14日午後2時30頃、功明ちゃんは迎えに来た光則さんと一緒に幼稚園を後にして、一旦帰宅している。家の前には神社があり、普段からここを遊び場にしていた功明ちゃんはすぐに「(神社の)滑り台に遊びに行く」と1人で家を出ていった。
その10分後、通りかかった祖母が功明ちゃんの姿が見えないというので、家族や親類らが探し回ったが、とうとう見つからず、高崎署に捜索願を出したのは午後6時半頃だった。
その直後の午後6時42分頃、萩原家に電話が入った。
「子どもを預かっている。2000万ぐらいならあると子どもが言っている。2000万円よこせ、よこさなければ殺す」
男の声だった。それも若くはなく中年らしい声だったという。男は「警察へ連絡したのか」と尋ねたため、光則さんが捜索願を出したことを伝えると、「届けたことを取り消して、2000万持って来い」と言った。
午後7時47分、2度目の電話。光則さんの弟で、現職警察官の正規さんが電話に出ている。
男 「おめえは誰だ」
正規さん「弟だ」
男 「子どもはどうした、子どもはどうした。…2000万円よこせ、2000万円よこせ」
正規さん「おじいさんが寝こんでいるし、おばあさんは年をとってるし、そんな金ねえよ。第一、金融期間は休みだろ!」
男は翌日が「敬老の日」で休日だということを知らなかった。
午後8時3分、3度目の電話。この時、初めて功明ちゃんが電話に出た。
功明ちゃん「お父さん」
光則さん 「うん、お父さんだよ。元気?」
功明ちゃん「元気」
光則さん 「どうしてるの」
功明ちゃん「これから帰るよ」
光則さん 「もしもし、どこにいるの。どこからかけてるの。おうち?どこのおうち?」
功明ちゃん「おまわりさんは一緒」
光則さん 「おまわりさんかい。うーん、よし君、よし君・・・」
ここで電話は切れた。この後、翌朝までベルを1~3度鳴らして切るという電話が13回続いた。
16日午前7時50分頃、4回目の電話。
光則さん「はい、もしもし」
男 「今日の夕方までに1000万円用意しろ」
光則さん「もしもし、わかりません。もう1度お願いします」
男 「また電話する」
しかし、男からの連絡はもうなかった。荻原家では犯人の指示通りに1000万円の大金をなんとか集めた。
しかし、最悪の結末を迎える。同日午後、自宅から5km離れた寺沢川で遺体が発見された。
17日、功明ちゃんの遺体は群馬大学医学部法医学教室で解剖され、首を絞めた跡や、薬物を飲まされた跡がなかったため、生きたまま橋から投げ落とされたものと見られ、死因は砂や水を飲み込んだ窒息死。
先に書いたように顎は骨折しており、胃の中はからっぽで食事を与えられた形跡はなかった。死亡推定時刻は15日午前10時以前と見られ、殺害してから身代金を要求する電話をかけていた。
さらに同日、遺体発見現場から1.5mほど離れた市道沿いの斜面で功明ちゃんの「パーマン」の絵が描かれたサンダルが発見された。もう片方は谷津橋近くで発見されている。
また19日には、2km離れた藪の中で功明ちゃんの着ていた半袖シャツとパンツが、さらにその2km先で半ズボンが発見された。
これは犯人が功明ちゃんを投げ落とした後、八千代橋方面に向かいながら車から投げ捨てていたことを意味していた。
想定された犯人像
逆探知の結果、男からの電話は高崎市西部を含む「群馬・長野局」管内からかけられていたことがわかった。また2回目の電話には車の通過音が入っており、公衆電話からかけた可能性が高い。
しかし、なぜか捜査本部は15日までで逆探知を切り上げている。このため16日の4回目の電話は27秒の長さがあったが、逆探知できなかった。逆探知は捜査員とNTT職員がペアになって行なうが、「逆探知を解除して帰っていい」という指示があり、変に思いながらも従ったという。
県内で本格的な誘拐事件が起こったのはこれが初めてだったらしく、逆探知の設置にも時間がかかり、2回目の電話には間に合わなかった。
目撃証言
9月8日、功明ちゃんの通う「むつみ幼稚園」で不審な白い乗用車が目撃されていた。車は群馬ナンバーで、リフトバック式、メガネをかけた男が乗っていたという。
事件当日の14日午後5時ごろには、神社の北口付近に2台の白い乗用車が入り口をふさぐかたちで停められているのが目撃されている。車内に人影はなかったが、家族が功明ちゃんを探し始めた時には消えていた。
またそれと同じ頃から少し後に功明ちゃん宅から2.3km離れた町屋橋の下、その20分後には管状大橋の下で、子どもを乗せた白い乗用車が目撃された。乗っていた男は40歳前後だったという。
犯人は電話の声から中年男とされ、身代金の額の決め方などが乱暴で、指示も場当たり的。さらに身代金目的ながら、受け渡し方法は一切指示せず、15日が金融期間の休みのことも知らなかった。これらのことから、計画性が薄く、社会性のない異常性格者による犯行ではないかと見られた。
3回目の電話で功明ちゃんは「おまわりさんと一緒」と言っており、この取り方は二通りあった。荻原さん宅に警察がいるのかを犯人に命令されて聞かされているのか、あるいは光則さんの「誰と一緒なの?」という問いに答えたものなのかである。
捜査本部では後者の可能性も考え、非番中だった身内にまで捜査の手を広げることになった。
捜査本部は県内の6000人の素行不良者や不良債務者、変質者などを洗ったが、進展はなく、結局2002年に時効成立。戦後の冤罪疑惑事件(狭山事件など)をのぞく、身代金目的の誘拐殺人で唯一の未解決事件となった。
また、翌日には「群馬県小2女児殺人事件」が発生。
【群馬小2女児殺害事件】1987年(昭和62年)9月15日(火曜、祝日)、群馬県新田郡尾島町(現:太田市)に住む小2女児・大沢朋子ちゃん(8歳)が子猫を抱いて自宅近くの尾島公園へ遊びに出かけたまま行方不明に。
翌年の11月27日、利根川河川敷で白骨死体の一部が発見された。
なお、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人の宮崎勤は1989年(平成元年)3月11日、朝日新聞本社と宮崎が1988年(昭和63年)8月22日殺害した被害者の両親の自宅に「今田勇子」名義で告白文を送っているが、その告白文で群馬小2女児殺害事件について触れられている。
このため、この事件に関して宮崎の関与が疑われたが立件はされず、2002年(平成14年)9月15日に公訴時効が成立。
さらに、同県では1996年に太田市で横山ゆかりちゃんがパチンコ店から姿を消すという事件も発生している。