事件・事故

築地八宝亭一家惨殺事件

犯人探しに協力的で、手記『私の推理』を発表した第一発見者が真犯人だった事件

1951年2月22日朝、東京の築地警察署に中華料理店「八宝亭」のコック山口常雄(25歳)が「主人一家が殺されている」と届け出た。

店に署員が急行すると、この店の一家4人が薪割で惨殺されているのを発見。

山口の証言から前夜からこの店で雇われ、事件直後から行方不明となった「太田成子」という女性が犯人と見られた。

山口は警察やマスコミへの協力や情報提供を惜しまず、『私の推理』という手記まで発表したことで世間から注目されていたが、太田成子こと西野ツヤ子(当時24歳)の供述から山口こそが真犯人であることが判明した。

逮捕された翌日、山口は留置場で服毒自殺した。

事件の経緯と動機

1951年2月22日午前9時半頃、東京の築地警察署に中華料理店「八宝亭」の見習いコック山口常雄(25歳)が「主人一家が殺されている」と届け出た。

署員が署から7、80mの店に急行すると、部屋の中は血の海という形容がぴったりの凄惨さで、署員らは思わず目をそむけた。

1階の6畳間で岩本一郎さん(41歳)、妻キミさん(40歳)、長男元君(11歳)、長女紀子ちゃん(10歳)が薪割りで殺されていた。

寝こみを襲われたらしく、眉間にはそれぞれ3~20数箇所の傷があった。紀子ちゃんは逃げようとしたのか、襖に手をかけて半立ちのまま死んでいる状態だった。

このとき、第1発見者の山口と署員らは出前の配達を通じて顔見知りだったことや、育ちが良さそうで、ひょうきんで明るい青年だったことから、「シロ」という見方が強かった。

事情を聞かれた山口は次のように答えた。

「朝9時過ぎ、ゴミ屋の鈴の音で目を覚まし階下へ降りると4人が死んでいた。凶荒の前日21日午後4時ごろ、女中募集の張り紙を見て、26、7歳の女がきた。昨夜は3畳間で寝たが、夜中にその女を訪ねて来た男がいた。女の親類だと言っていたが、顔は後ろ向きでわからなかった。25、6歳ねずみ色のオーバーに紺ズボンだった。女の名前はたしか太田成子だったと思う」

犯人とされた「太田成子」

山口の証言を元に作成されたモンタージュ写真

このときすでに、太田成子は姿を消していた。通いの中国人のコック・劉も「そんな名前だった」と証言した。

現場検証の結果、凶器の薪割は厨房の冷蔵庫に立てかけてあり、現金2、3万円と永楽信用組合、千代田銀行の預金通帳がなくなっていた。22日朝に盗まれた通帳で14万円を引き出そうとした女がいて、「印鑑が違う」といわれて帰ったものの、この女こそが山口の言う太田成子だとされた。

この後、山口に数千枚の写真を見せ、成子のモンタージュ写真を作成した。成子は言葉づかいや話の内容から地方出身者と見られ、小太りで、肌は浅黒いオカメ顔だとされた。

山口は貴重な生き残り証人として捜査本部を頻繁に出入りし、各メディアの記者などと飲みに出かけたり、3月6日付の朝日新聞には「私の推理」という手記も発表するなどしていた。

証言のほころびから浮かび上がった真犯人

ただ山口の証言に関して、おかしい点もいくつかあった。

まず、事件前夜に訪れてきたという「成子の親類」と名乗る男のことについて、顔をよく見ていないのに、服装だけは色も正確に証言していた。

また、成子というのは普通「シゲコ」と読むが、山口はなぜか「ナリコ」と呼んでいた。山口はそのことを記者たちに指摘されて狼狽する素振りを見せたことがあったという。

山口は捜査中に何度も証言の矛盾点を指摘され、新聞社の記者にも、証言の矛盾点を指摘されてきたが、その時はなき脅しで乗り切り、「私は世話になった主人の犯人を捕まえるのに、こんなに努力しているのに犯人扱いされるなんて死んだ方がましだ」と泣いて見せたという。

その後、捜査が進展し、太田成子は西野ツヤ子(当時24歳)の偽名であることが聞き込みから判明した。

ツヤ子は伊豆西海岸の村の出身で、漁業を営む父に妻子ある男性との結婚を反対されたことから、前年の暮れ、東京の兄を頼って上京してきていた。

そして、2月13日まで宿屋の女中をしていたが、その後、生活苦から水商売に従事していたことも判明した。

3月10日、捜査員らは、一旦静岡に帰り、東京に戻って来ていたツヤ子を新宿の旅館で検挙した。取り調べたところ、ツヤ子は「山口が殺したのです。だが、私は共犯ではありません」と言って泣き出した。

供述によるとツヤ子は山口と20日に新宿旭町で出会い、八宝亭に連れてこられた。そして事件の日の朝、ツヤ子は山口に頼まれて永楽信金にお金をおろしに行ったが、印鑑のことで断られたので通帳を破って捨てたという。

また、「信金で全額預金をおろさないと、殺すぞと、脅された」と証言し、彼女は警察に捕まるというよりも山口に殺されるのが怖くてずっと逃げていたことが判明した。

その後、ツヤ子の証言の確証が得られたことから、3月10日同日の夕方、山口が逮捕、山口署へ連行された。

しかし、山口は犯行については認めたものの、その後は黙秘権を使い、何もしゃべらず、夜になって「大変疲れているので明日、一切を話します」と言って就寝したが、翌午前5時ごろ、留置場で青酸を飲んで自殺しているのが発見された。

青酸はスーツの裏などに隠し持っていたらしく、山口の死によって一家を惨殺するまでの動機、詳しい状況などは闇に葬られることとなった。

山口常雄の生い立ちと事件のその後

山口は茨城県川根村の裕福な農家の次男として生まれた。

農業を嫌い、小学校を出てからは横浜の軍需工場を経て、村の役場に勤めていたが、配給品の横流しをして、50年12月25日に東京高裁で懲役1年半、執行猶予5年を判決を受けている。

この犯罪で山口が村内で忌み嫌われたかというとそうではなく、物資がなく困窮している村人に品物を流して、罪を1人被ったのだから、むしろ英雄視され、「次の村長さんは山口さんだ」という声もあがるほどだった。

その後、交際していた女性の家が中華そば店だったので、山口は料理を勉強するために東京築地の「八宝亭」でコック見習いとして働き始めた。

田舎から仕送りがあったので「給料はいらない」と話していたが、主人からは毎月2000円の小遣いをもらっていた。

そのため金にも困っておらず、主人夫婦にかわいがられ、2人の子供たちを連れて遊びに行くなど面倒見の良かった山口が、なぜ一家を殺害しようと思ったのかは、山口の死によって永遠の謎となった。

本事件については、事件検証の結果、押入れに隠してあった山口の衣服から被害者の血痕がみつかり、山口を犯人と断定できたものの、被疑者死亡により不起訴となっている。

一方のツヤ子は、逮捕後に臓物運搬罪で起訴され、懲役1年、罰金2000円執行猶予3年を言い渡されている。

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