事件・事故

姫島村リンチ殺人事件

1962年3月29日、大分県姫島村で、島民39名が男性2人をリンチして死亡させるという事件が発生した。

事件の経緯と動機

1962年3月29日、大分県・国東半島の北西に浮かぶ姫島で、島民39名が男性2人を殺害するという事件が起こった。

殺害されたのは別府から移り住んできた映画館経営者Aさん(27歳)とその弟Bさん(23歳)である。

事件当夜、島の青壮年39人は幼稚園前の公園にやって来た。

「こらぁー!出てこい!今朝の話をつけに来たぞ!」

 暗闇の中からは返事がかえってくる。

「なに言うちょるんかい、バカタレどもが!」

その時、棒切れを持った39人は2人に襲いかかった。AさんとBさんはスコップなどを持ち出して応戦しようとしたが、多勢相手ではどうしようもなく、引っ張り出されて袋叩きにされた。

Aさんは次第に動かなくなり、Bさんの方は這って逃げようとしたが力尽きた。

それを見届けた39人の男達は現場を立ち去り、まもなくAさんの身内が駆けつけて兄弟を村営診療所に担ぎこんだが、まもなく死亡した。2人の死因は頭蓋骨骨折で、頭や顎は完全に砕かれていた。

集団暴行

姫島は当時人口4000人ほど、世帯数約800の平和な島だった。

Aさん・Bさん兄弟も姫島の出身だったが、まだ幼い頃に別府へ移っている。

事件から6年前、Aさんは親元を離れて姫島に戻る。Aさんが姫島に戻ったのは、叔父が姫島の村議会議員を務める土地の有力者で、この叔父を頼って何か商売を始めるためだった。まもなく映画館「姫島劇場」を開いた。島唯一の劇場だったため、当初は客の入りが良かった。

事件の3年前には弟のBさんも姫島にやって来た。商売で成功した兄を頼ってのことだった。Bさんはまず姫島劇場の隣に喫茶店を開くがすぐに店を閉める。その後パチンコ店も失敗し、事件当時は酒場をやっていた。

姫島生まれとはいえ、別府で育った兄弟にとって姫島の若者たちは田舎くさく見え、つい見下しがちだった。別府にいた頃は暴力団関係者とも付き合っていたと言い、派手な格好をして、村内で気にいらない人を見ると因縁をつけて暴力をふるうなどしていた。

そんな暴力行為も事件の1年ほど前から特にひどくなっていた。Aさんは気の合った5、6人のグループを作り、暴力団組長を気取っていた。相次ぐ暴力に警察も2人を逮捕したこともあるが、名士を叔父に持つからか、2、3日ほどで舞い戻って、「お礼参り」を繰り返した。兄弟から殴られた島民は100人にもなるという。島民たちはこの兄弟を憎んでいたが、抵抗らしい抵抗もできないほど恐れてもいた。それは「別府の暴力団がバックについている」と脅されていたためだった。

事件の半月ほど前、島の西浦地区の青年クラブが西浦港開設30周年記念行事として、入場料無料の少女歌劇団公演を主催した。

Aはこの公演のために自身の映画館の客の入りが悪くなったことに腹をたて、「必ずこの落とし前をつけてやる」と青年クラブに宣戦布告をした。

青年クラブからすれば難癖以外の何者でもないが、これを知った西浦地区の青年達は兄弟の報復を恐れて公民館の若者宿に集団で寝泊りするようになった。

そして事件当日の朝をむかえる。若者宿にAさんとBさんがのりこんできた。
「お前ら、よくも俺に恥をかかせてくれたな。横着だ!」
土足であがりこんだAさんは、島民9名を次々と踏んづけ、蹴った。

事態は深刻化していた。これまでは個別に殴られるということがあったが、地区の集団に対して殴りかかってくるというのはこれが初めてだった。西浦地区の青年たちは公民館で緊急会議を開くことを内々に申し合わせた。

同日午後7時頃、公民館で会議が開始される。

「A・B兄弟をこらしめるべし!」

島民40数名が出席したこの会議では主戦論が圧倒的だった。警察を頼るという選択肢もあったが、これまでの兄弟の行いを思い返して、警察は頼りにならないというのは村民たちは身にしみて感じていた。これまでに何度も島民たちが殴られてきたこともそうだが、会議では「百数十年の伝統を持つ若者宿を荒らされては、地区の面子がたたん!」という悲憤の声が挙がった。

こうして39名の青壮年は闇にまぎれて決戦の場へと向かう。この人数だから返り討ちにされることはないにしろ、Aの言うようにバックに別府の暴力団がいるならば殴りこみのあとのことが怖い。だがそんなことが脳裏をかすめてもすぐに打ち消されるほど、彼らは興奮状態にあったのではないか。あるいは団結の心が恐怖心を消した。

会議で殴りこみが決議されたが、これは兄弟を「こらしめる」ためであり、この段階で島民たちは「殺す」までは考えていなかった。

島民達のリーダー格である消防団副団長(当時45歳)も、「どうして兄弟が死ぬまで叩いたのか、自分でもさっぱりわからない」と事件後に話している。

暴行後、AさんとBさんは島の忠霊碑の前に置かれ、7名が自首した。

判決とその後

事件に関わった39名のうち傷害致死罪で起訴されたのは15人である。

「被告人らは共同謀議の段階では、兄弟殺傷の意思はなかった。多数の心理コントロールを失い、A・B兄弟を死に至らしめた責めは免れないが、被害者側にも事件責任の一端はあった」

大分地裁はリーダー格に対して2年の実刑、他の14名については執行猶予付き有罪判決を言い渡した。

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