事件・事故

長野・生坂ダム殺人事件

“事故”から23年目にして、犯人の自白によって”殺人事件”だったと判明した事件

1980年3月29日、長野県東筑摩郡生坂村にある生坂ダムの湖底から、男性の遺体が水死体となって発見された。事件は自殺と断定され、捜査はくわしく行われなかったが、20年以上たち控訴時効が成立してから、犯人の自白によって解決した事件である。

事件の経緯と動機

1980年3月29日、長野県東筑摩郡生坂村にある生坂ダムの湖底から、小山福来さん(当時21歳)が水死体となって発見された。発見したのはダムの作業員で、発見後すぐに松本署に届け出た。小山さんは同年3月1日から行方が分からなくなっており、発見された際には、首や両手首、足がビニール紐で固く縛られていた。小山さんは司法解剖の結果、死因は溺死だった。

この状況から、当初、警察は事件性を疑っていたが、小山さんが特に争うこともなく、自ら他の車に乗り込んだこと、縛られていた紐が小山さん自身でも縛ることが可能な状態であったこと、遺体に目立った外傷がないこと、周囲に他殺である証拠がなかったことから、警察は自殺と断定し捜査を打ち切りにした。しかし、小山さんからは自殺する明確な動機が見つからなかった。

行方が分からなくなった同年の3月1日、小山さんは知人女性2人と行動をともにしていた。この女性達は警察に対し、「黒い大型の乗用車に乗った2人組の男とトラブルになり、小山さんが相手の車に乗り込み、そのまま戻らなかった」と話した。

それから20年以上が経過した2000年4月14日、警察の捜査に進歩は無かったが、この日に捜査が急展開を迎えた。その日、覚醒剤取締法違反で逮捕され、服役していた男(当時54歳)が本件への関与を自白する内容の手紙を豊科警察署長宛に送付した。

この時点で事件から20年が経過していたため、捜査資料の多くが保存期間切れで廃棄されており、供述内容のみでの即断ができなかったが、再取調べが行われ、自白から3年後の2003年10月16日、長野地方検察庁へ書類送付された。しかし、既に殺人罪の公訴時効(当時は15年)が成立しており、起訴はできなかった。

事件の真相

この男の供述によると、3月1日に友人と2人で車に乗っていたところ、女性と車で松本市内の運動公園に来ていた小山さんと、友人の間でトラブルとなり殺害したそうだ。

逮捕された男の友人が「毎日、同じ車に後を付けられている」と話、車のナンバーがびっしり書き込まれたノートを見せてきたことから、「それならその車を探しに行こう」と出掛けたことが発端だった。その後、小山さんお車を見つけ、友人が「あの車もそうだ」と話したことから、確認する為に小山さんに声をかけて自分の車に乗るように誘ったそうだ。小山さんを乗せて走っているうちに、男は小山さんが関係ないと感じ、小山さんの車があった場所に戻った。

しかし、小山さんを連れ去ったことを女性が警察に通報していたら、自分が覚醒剤を常用していることがバレて大変なことになると考え、彼を麻績村まで送ると言い、途中で洗濯用のロープを購入し、3人で食事をした後、小山さんに女性達へ電話を入れさせた。

電話をかけた小山さんから「女性はまだ家に帰っていないらしい」と伝えられた男は、この時点で、通報されてしまったと思い込んだ。殺害する際、「人を殺すと、うなされたり化けて出てくると聞くが、試してみたい」という気持ちもあったそうだ。そんな考えのもと、男は友人が運転する車を生阪ダムで停止するよう指示し、そこで犯行を実施した。

それから数ヶ月後、男は別件で逮捕されていれば、本件とは結びつかないだろうと考えて故意に車を盗み捕まった。本件への関与を聞かれるが、適当にごまかした結果、詳しく追求される事はなかった。その後、一度出所するが釈放された日に、車を盗んだことと覚醒剤が見つかったことから再逮捕されていた。

その後

2004年には、時効後の男からの告白に対し、妹の小山順さんは「犯人よ、話してくれてありがとう〜長野生坂ダム事件の真相を追った母の23年〜」という本を出版した。

この書籍では、早々に自殺と断定され、やり場のない気持ちを抱えながらも、それでも息子を信じ続けた20年間の色々な感情が書き出されている。

県警本部は本件の補償について「法的な保証は難しいが、何らかの救済を前向きに検討したい」と述べた。この言葉を聞いたご家族は「本部長が心から言ってくれたことは有り難いが、捜査への疑問はまだある」と話した。

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