1951年7月、滋賀県下の村で、男が口論から両親を殺害した。
男はそのまま逃亡し、行方はわからず時効が成立した。
事件から16年が過ぎた夏の終わり、男は故郷に戻ってきた。
事件の経緯と詳細
1951年7月、滋賀県朽木村(現・高島市)の山中の集落において、両親を殺害した農業N(当時26歳)が殺人容疑で指名手配された。殺害の動機は新しいラジオを購入したことを普段から仲の悪かった父親(60歳)になじられたことから口論となり、カッとなったというもの。薪割り用の手斧で父親、それから母親(59歳)も殺害し、そのまま逃亡した。Nには子供を身ごもった妻がいたが、ちょうど実家に戻っているところだった。
事件の起こった集落は京都や福井との県境にも近い山間部にあり、村内の派出所まで往復10時間もかかるところにある。当時、集落内には電話が1本しかなく、その線がNの手で切断されたため逃走は容易に運ばれた。Nの足取りは海津(現・同市マキノ町海津)という町で髪を切って以降、途切れていた。
やがて1ヶ月、そして1年が過ぎていったが、手がかりはまったく掴めず、Nが発見されることはなかった。Nは気の小さい男であるという評判があったため、すでに自殺している可能性が高いものとみられた。
1960年8月、Nは妻の申し立てによって失踪宣言を受け、除籍された。法律上は死亡したことになった。そしてついにNの行方はわからず、時効成立。両親殺しは、その動機を見ても、逮捕されていればほぼ間違いなく死刑であった。
逃亡者
1967年8月30日夜、朽木村の今津署朽木巡査部長派出所に男がやって来た。16年前の両親殺しの犯人Nである。
Nは次のように述べた。
「時効のことは知っている。まずふるさとに帰り、村の人にお詫びしたかった。逃走中は死んだ両親の顔が浮かび、眠れないこともあった。これからは北海道でまじめに働く」
事件当時は青年だったNも、この頃には41歳、中年の顔になっていた。額にはしわが出来、目つきも危険を察知する猫のような鋭いものになっていた。
「N、発見」との情報を受け、Nはその後警察で事情を聞かれ、本人と確認されたが、もちろん時効が成立しているため、そのまま帰されることとなった。
犯行時、Nは妻に「子どもは堕ろしてくれ」という内容の置手紙を残して逃げたのだが、妻は出産しており、その子供も中学を卒業するほどに成長していた。再び郷里に戻ったNであるが、妻と縁りを戻す方法もなく、服役もしていない殺人者として集落で暮らしていけるわけもなく、簡裁で失踪宣告を取り消しただけで、1週間ほどで再び土地を離れた。
Nは警察に指名手配された頃、すでに北海道に渡り、翌日には夕張の飯場の土工となっていた。逃亡のために所持したのは身のまわりの品を詰めたトランク1個と現金6000円だけである。以後、姓名を一字ずつ変えた偽名を使って道内の飯場を転々とし、本州には一歩も出ないようにした。
16年に及ぶ逃亡生活では何度か警察に職務質問を何度か受けたが、そのたびに偽名を言ってかわしていた。当時は広域捜査がなかったことや、手配写真が数年前のもので本人とはあまり似ていなかったことも彼にとっては幸いした。それでもNは身元がバレないように仕事上で事故にさらされて病院に運ばれることや、仕事仲間と喧嘩ざたになること、女との付き合いにも用心し続けた。酔ってよけいなことを口走らないために、酒も断った。そういう生活をしているうちに、Nは模範土工として雇用主からも一目置かれるようになった。仕事ができ、態度も良い働き手だったようだ。そして夕張→勇払郡→苫小牧→札幌→十勝と、道内40数ヶ所の仕事場を歩いた。
Nが時効を意識するようになったのは逃亡13年目のことである。もともとは雑誌も読まなかったような男が、六法全書を買い、刑事訴訟法の時効の箇所ばかりを読んで、その日が来るまでひたすら待ち続けた。念願の時効を迎えた時もすぐには警戒を解かず、札幌の弁護士の元を訪れ、「友人に頼まれたから」とことわったうえで、死刑相当の罪の時効を確認するなどしていた。そして万が一を考え、潜伏を1年延長することにした。
郷里に戻り、そしてまた北海道に帰ったNのその後に関する記録はないが、おそらくはまたそれ以前の生活に戻り、働きながらひっそりと暮らしていたと考えられる。
Nの心に去来したものは何だったのか。「捕まりたくない」という気持ち、逮捕されることへの恐怖はかなりのものであったと思われるが、両親に対し心から詫びる気持ちがあったかどうかはわからない。
今現在、指名手配されながら逃げている者には、すでに自殺していたり、仲間や闇社会に匿われている者もいるだろう。しかし中には、Nのように悪の顔を出さず、真面目に働きながら時が過ぎるのをじっと待ち続ける人間もきっといるはずである。