母子4名を崖から落とした犯人に死刑、事件前後にも別の殺人

1952年10月11日に千葉県安房郡小湊町にある、「おせんころがし」と呼ばれる崖で母親(29歳)と長男(6歳)、次女(3歳)が殺害された。
犯人として栗田源蔵(26歳)が逮捕・起訴され、1959年10月14日、宮城刑務所で死刑が執行されている。
犯行の経緯や動機

犯人の栗田は夜尿症からいじめに遭い、小学校を三年生で中退。その後は下男として奉公するも夜尿症が原因で追い出され、何度も奉公先を転々とする。
1945年、栗田は19歳の頃に徴兵されて弘前の歩兵隊に入隊するも夜尿症が原因で2ヶ月で除隊となった。
終戦後には栗田は北海道の美唄炭鉱で炭鉱夫として働くようになり、その後は闇商売のブローカーとして生計を立て始める。
1948年、栗田は静岡県で三角関係のもつれから交際していた女性2人を殺害。更に1951年8月8日、栗田は栃木県で子供を寝かしつけていた主婦を強姦しながら絞殺した上で屍姦した。
事件当日の10月10日夜、栗田は千葉県にて自転車に乗って盗みに入る家を探していたところ、国鉄の勝浦駅にある待合室で母子4名を発見。母親と性的関係をもつことを目的に家まで送ると誘い出した。
母子の家へ向かう道中、栗田は母親へ性的関係を求め続けたが受け流されたことで腹を立て、翌日深夜1時頃、栗田は母親へ襲いかかった。
子供らが騒いだため長男の頭や顔を石で複数回叩きつけて崖から投げ落とし、更に長女を複数回殴って崖から落とした。
栗田は母親に背負われていた次女を母親から引き剥がし、足を掴んで振り回した上で崖から放り投げた。
そして助けを求める母親を強姦して首を絞め、崖から投げ落とした。
栗田は長女以外の3名が崖の途中で止まっているところを見つけて石で殴打して殺害。隠れていた長女は軽傷となり、他3名は死亡した。
1952年1月13日、栗田は千葉県千葉郡検見川町で民家へ盗みに入るが見つかったため主婦と叔母を殺害。更に主婦を屍姦した。この現場から発見された指紋から栗田が捜査線上に上り逮捕された。
判決とその後
まず千葉地裁で1952年の事件について公判が開かれ、栗田へ死刑判決が下された。また翌年12月21日には宇都宮地裁で当事件等について死刑判決が下された。控訴するも取り下げて確定。
1959年10月14日、宮城刑務所で栗田の死刑が執行されている。