事件・事故

あさま山荘事件(連合赤軍浅間山荘事件)

あさま山荘に立てこもった連合赤軍と武装警官の激しい攻防。

日本の新左翼組織連合赤軍が『あさま山荘』に迷い込み、人質を取って立てこもり事件を起こした。死者3名、重軽傷者27名を出し、日本での人質監禁時間が最も長いとされた立てこもり事件である。

あさま山荘事件を当時はNHKで10時間以上も生中継され、血まみれで運ばれる隊員や犯人グループと警察との激しい銃撃戦の生々しい様子が、テレビ中継で流れ日本を震撼させた。犯人逮捕の瞬間には89.7%の視聴率に達するというほど日本の関心を集めた事でも有名な事件だ。

事件概要

浅間山荘事件は1972年2月19日から2月28日にかけて長野県北佐久郡軽井沢町にある『浅間山荘』に新左翼軍である連合赤軍メンバーが人質をとって立てこもった。

10日間にも及んだ警察と犯人グループの攻防だったが懸命の人質救出作戦により人質は無事救出。犯人グループ5人は全員逮捕となった。

しかし3人の死者(うち機動隊員2名、民間人1名)と27人の負傷者(機動隊員26名、報道関係者1名)を出してしまう結果となった。人質は219時間も監禁されており日本では最長記録の人質監禁事件だ。

事件経緯

犯人グループの『革命左派』と『赤軍派』は1970年に結束された日米安保条約に反対して各地でテロ行為を繰り返していた。

警察当局が銀行襲撃事件や鉄砲店襲撃事件などに関しての新左翼組織の活動に対して捜査が厳しくなり連合赤軍構成員の犯人グループは群馬県の山岳地帯での逃走を余儀なくされていた。

群馬の山岳地帯で逃走していた連合赤軍は350人動員された警察の捜査から逃れる為に何人かのグループに分かれて、山岳ベースを転々としていた成り行きで1972年2月19日、宿泊客や管理人不在の『あさま山荘』で管理人の妻(当時31歳)が留守番をしているときに左翼組織連合赤軍メンバー5人が妻を人質に浅間山荘に立てこもった。

連合赤軍は人質に取った妻に乱暴しないことを約束するが警察当局に包囲されてしまう。新左翼組織による籠城事件は前代未聞で、長野県警や警察庁、警視庁が大集結した。

警察長官は『人質を無事救出』『犯人を殺害せず逮捕する』『犯人の取引には応じない』と指示し籠城する構成員の家族に説得させるなど必死の攻防が続いた。

犯人グループの一人の吉野正邦の母親の説得に対して警察の「お母さんを撃てますか?」という言葉に、吉野正邦は涙を流しながら発砲したという1幕もあった。家族の必死の説得にも犯人グループが投降することはなかったことや、長期間の籠城による人質の健康状態も危ぶまれ説得による投降は厳しいと警察が判断。

強行突破の作戦が警察によって検討され始め、あさま山荘の建物が複雑な構造だったことからクレーン車を使用する案が採用された。

2月28日午前10時からクレーンを使った強行突破の作戦は開始された。構成員の犯人グループは徹底抗戦を構え警察と連合赤軍グループの激しい銃撃戦は8時間にも及び、午後6時過ぎに3階のベットルームから内部に機動隊員28人がなだれ込み、山荘を破壊した。続いて放水と催涙ガスで犯人を制圧し人質を無事救出。犯人5人全員を殺害する事なく逮捕した。

人質を無事に救出し、犯人も全員逮捕となり無事にミッションをクリアしたが、殉職者2名を出してしまい、負傷者が26名、民間人1名が死亡、報道関係者1人が負傷するという結果になってしまった。

事件その後

浅間山荘事件後、各地に潜伏していた連合赤軍幹部は次々に逮捕され、警察当局に出頭した者もおり凶暴な組織は崩壊した。

5人の実行犯の一人『坂口弘』は殺人事件16件 傷害致死1件で死刑が確定しているが共犯である坂東國男が未だ国外に逃亡しており裁判が終了していない為まだ死刑が執行されておらず収監中である。

浅間山荘事件で坂口と坂東の指示に従うことが多かったことが従犯とされた吉野雅邦は死刑を免れ、1983年から現在も千葉刑務所で無期懲役で服役中。

浅間山荘事件の実行犯で事件当時は名前の伏せられていた、加藤倫教(かとうみちのり)は1983年に懲役13年が確定し三重刑務所に服役1987年に仮釈放されている。

あさま山荘事件当初16歳だった加藤元久は保護処分とされ現在の詳細は不明である。

浅間山荘事件後の10年ほどはあさま山荘は観光名所や観光バスのコースにもなっていたが現在は中国企業の所有となっている。

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