通り魔殺人鬼から彼女を守ったにも関わらず浴びせられた誹謗中傷の嵐
2010年10月4日の22時50分頃、兵庫県神戸市北区つくしが丘の路上で、交際相手と会っていた堤翔太さん(当時16歳)が、何者かに刺されて殺害された。
そして2022年現在、事件発生から約12年が経過した現在でも犯人は捕まっておらず、未解決のままである。
事件の経緯と詳細
翔太さんとその彼女は、自動販売機の横に座り、恋人同士の会話を楽しんでいた。
ふと彼女が目を上げると、約10m離れた支柱から若い男性が自分たちを眺めているのに気がついた。
彼女が「あの人なんだか気持ち悪いね」と話すと、翔太さんもそれに同意していた。その直後、男は無言で立ち上がり2人に近づいて来ていた。
その男性をよく見ると、手元には小型のナイフが握られていた。
咄嗟に翔太さんが「逃げろ」と指示し、彼女は必死に走って逃げた。数分後、彼女が戻ると自動販売機から約70m離れた交差点で翔太さんが血塗れの状態で倒れており、その状況から、薄れていく意識の中で刺した男を追いかけたとみられた。
翔太さんはすでに意識がなく、すぐに病院に搬送されたが、約1時間半後に死亡が確認された。頭頂部や首筋にいくつもの刺し傷があり、明確な殺意のもと犯行に及んでおり、路上には血痕が点々と続いており、自動販売機周辺には血痕や足跡が残っていた。
警察はすぐに捜査を開始。翔太さんが金品を取られた形跡もなく、交友関係をあらっても目立ったトラブルはなかった。目撃証言は時間帯や閑静な住宅街ということもあり、全くなかったが、その中でも数は少ないが有力な手掛かりはあった。
残された証拠
事件発生から約1週間後には現場からおよそ南西に100mほどの側溝で凶器とみられるナイフが発見され、そこから翔太さんのDNAも一致した。しかし、発見された凶器に関して捜査本部は、この場所は事件発生直後にも確認しており、その際には見つかっていないと話した。
さらに、血痕や指紋は綺麗に拭き取られていた為、検出されなかった。つまり、犯人がいったん持ち帰るなどして、指紋や血痕を洗い流した後に捨てたと思われる。
そして何より重要な翔太さんと一緒に現場にいた彼女の証言も得ることができた。彼女による証言は「20歳代後半から30歳くらい」、「身長は160cmから170cm」、「小太りで濃い眉毛に細め」、「外側にはねた癖毛」というものである。犯人の似顔絵は事件発生から2年後に一般に公開された。
さらには、最寄りの量販店では凶器と同じ型の製品が売られていた。事件前に、この量販店で最後にナイフを購入した人物の、履いていたズボンが公開され、捜査特別報償金制度も利用された。しかし、犯人逮捕につながる有力な情報は未だに得られていない。
警察は今でも20人以上の体制で本件の捜査を続けている。本件は場当たり的な事件とはいえ、凶器を常に所持しており、現場から程近い場所で破棄していることから、当時、近隣に住んでいた人とみて間違いはないだろうと考えられている。事件発生から約12年の時が流れており、今も近くに住んでいるとは限らない。
家族の受けた被害
翔太さんは姉と兄がいる三人兄弟の末っ子で、父親の敏さんは「リビングでは何でもおしゃべりする、ひょうきんで周囲を楽しませる子だった」、「翔太がいなくなり、家から灯が消えたようだった」と語っている。
そんなご家族に対し、翌日には多くの報道陣が押し寄せた。悲しみが言えない中、「今のお気持ちを一言」と心ない質問をぶつける記者もいたそうだ。
いつまでも進展を見せない捜査に加え、悲しみに暮れるご家族の心をえぐるようなマスコミ。そんな中、御家族は少しでも何かわかればと、インターネット上の『大型掲示板』や『翔太さんが残したブログ』から情報を探していた。
しかし、そこには信じられないような書き込みが多く書かれていた。ニュースで報道された際に使用した翔太さんのプリクラから事件発生時に髪の毛を染めていたことや、発生した時間帯が遅かったため未成年がそんな時間に出歩くものなのか等の時間帯について疑問視する声や、当時の彼女の年齢などから「こいつは死んで当然」、「不良の末路だな」など、心ない中傷が数多く書かれていた。それらは御家族にとっては本当に辛いものだった
父親は「息子を失ってなお、こんな根も葉もない誹謗中傷を言われなければならないのか」と語っている。
しかし、悲しいことだけではなく、事件の翌日には翔太さんのために300人以上の同級生が自宅に訪れ、涙ながらに「喧嘩を仲裁した話」や「気に上った話」など翔太さんとの思い出を語ってくれる人もいた。その中には翔太さんを撮影した動画もあった。
父親は、翔太さんが友人らの心の中で生き続けていることに、自身の心が救われたそうで、それと同時に、必ず捕まえるという強い意志を改めて持ったそうです。
警察に任せきるのではなく、自作のチラシを作り同級生らの協力を得て現場周辺で配布。協力してくれる同級生らに感謝しつつも、その姿をみて「翔太が生きていたら」と感じ辛くなる時もあったそうだ。