「人体実験された」と勝手な妄想を抱き、復讐と称して執刀医を射殺。”責任能力”の有無が争点に。
1994年10月25日午前8時5分頃、出勤途中であった医師・岡崎武二郎さん(当時47歳)が何者かに背後から拳銃で撃たれた。
至近距離から発射された銃弾は、岡崎さんの腹部を貫通。岡崎さんは「患者だった野本にやられた」と言い残して意識を失い、その後すぐに病院に運ばれたが、翌26日午後、出血多量で亡くなった。
事件当日の25日午後6時15分、警察は会社員・野本正巴(当時36歳)を指名手配した。
逮捕後には「体内にポンプを入れられた」と主張し、摘出を要求。
精神鑑定が実施されたが「責任能力あり」とされ、殺人罪と銃刀法違反で起訴された。
1997年8月12日、東京地裁が懲役12年を言い渡し、控訴棄却によって、2007年7月に刑が確定した。
裁判では、野本の「精神状態」と「刑事責任能力」が問題となりました。しかし、野本は被害者となった医師の身辺調査を行っていたり、拳銃の試射を行っていたりしたことから、犯行が計画的かつ冷静な判断のもとに実行されたと裏付けられ、有罪の決め手となりました。
事件の経緯と動機
1994年10月25日午前8時5分頃、東京・品川の京浜急行青物横丁駅構内で、出勤途中だった都立台東病院医長、岡崎武二郎さん(当時47歳)(品川区東品川三)が、改札口を抜けようとしていたところを短銃で背後から至近距離から射撃された。
至近距離から発砲された弾丸は、岡崎さんの腹部を貫通し、「患者だった野本にやられた」という言葉を残して意識を失って、搬送先の病院で失血により亡くなった。
犯行後、犯人はバイクでそのまま逃走していたが、逃走に使用されたバイクが、同駅南東約1kmの路上で発見された。
事件当日の25日午後6時15分、警察は殺人容疑で会社員・野本正巴(当時36歳)を全国に指名手配した。
ちなみに、野本には精神病院への通院歴があったため、新聞各紙では「容疑者」とのみ表記される形での「匿名発表」であり、実名が公開されたのは逮捕後のことだった。
翌26日午後3時40分、野本は浦和の自宅に電話をかけ、母親に犯行を自供したものの、母親による出頭の説得には応じず、そのまま電話を切ったという。
27日午前、野本容疑者が青物横丁駅近くの駐輪場で使用契約を結んでいたことが判明。
これを受け、27日同日午後4時、捜査一課と品川署が特別捜査本部を設置。二次犯罪の恐れと、刑事責任は問えるなどの判断から、野本容疑者の氏名、写真を公表し、公開捜査に踏み切った。
また、27日同日の夜には、野本容疑者の写真入り手配ポスター5万枚を配布した。
「おふくろに会ってから自首したい。南浦和駅だ」
28日午前3時5分~59分の約1時間、野本容疑者と見られる男がNHK、日本テレビ、TBS、フジテレビを訪れ、フジを除く3社に手紙を渡した。
マスコミによる報道内容に不満があったものとみられ、「診療について不満があった」と犯行に至った経緯を説明し、また、自ら出頭すると主張した。
同日8時35分~11時25分までの約3時間、テレビ局各社に野本と名乗る男からの電話が相次ぐ。
そして、28日午後2時過ぎ、野本は浦和市内の自宅の母親に電話をかけ、南浦和駅で待ち合わせの約束をした。また、午後4時ごろには、千代田区二番町の日本テレビに「おふくろに会ってから自首したい。南浦和駅だ」などと電話をかけていた。
このため、捜査員を派遣して警戒していたところ、午後4時45分、駅前でタクシーから降りようとする野本容疑者を発見、職務質問で野本は「おれがやった」と容疑を認めた。
同時刻、自供を受け、警視庁捜査一課と品川署の特捜本部は、殺人容疑で指名手配していた浦和市太田窪に住む元会社員・野本正巳容疑者(当時36歳)を浦和市のJR南浦和駅前で逮捕。
4時55分、特捜本部が容疑者逮捕を発表。野本容疑者の身柄は、特捜本部のある品川署に移された(午後6時3分着)。
直後の取り調べに対し、野本容疑者は「青物横丁駅で台東病院の岡崎医師を暴力団から買った短銃で撃ち殺した。短銃は荒川の上流に捨てた」と供述。殺害の動機については「手術で体がぼろぼろになり、このままでは死んでしまうので、死ぬ前にやった。一か月前から計画していた」と供述した。
ちなみに、取り調べには静かに応じたという。
野本容疑者は1993年6月に、岡崎さんの執刀でヘルニアの手術を受けていた。手術は成功したが、術後しばらくして、「体に異物が詰まっているような感じがする」と体調の不調を訴えはじめ、同病院に出向いて「体にハサミか何かを入れたのではないか」といった内容の抗議を続けていた。
ちなみに、同病院ではこの要求に応じ、検査を行って異常がないことを証明したが、野本はこれに納得せず、「自分は人体実験の道具にされたんだ」と妄想をさらに膨らませた。そして、野本は会社を辞め、岡崎さんの自宅や通勤経路を調べ上げた上で、犯行に及んだのだった。
また、28日未明に都内のテレビ局などに届けた手紙でも、診療について不満を訴えていることから、やはり診療をめぐる逆恨みが動機とみられる。
野本容疑者は、精神科への入院・通院歴があったが、警視庁は、「事件は計画的で、刑事責任は問えると判断している」として27日午後、異例の公開捜査に踏み切ったが、今後、精神鑑定を行うなど慎重に捜査を進める方針だとした。
また、調べに対し野本容疑者は「一か月前から計画した」などと容疑を認め、使用した短銃については「暴力団から買った。荒川に捨てた」と供述した。
特捜本部では発見を急ぐ一方、入手ルートについても捜査を進めるとした。
短銃の入手経路
一方、同本部では、犯行に使われた短銃はトカレフ30口径と断定しており、入手先について捜査を急いだ。
野本容疑者は、逮捕前に、日本テレビにかけた電話では「弾は七発あったが、一発だけ込めた。弾と短銃は事件後すぐに荒川の橋から捨てた」と話していた。
10月31日の夜、殺人容疑で逮捕した元会社員野本正巳容疑者に短銃を売り渡していたとして、台東区千束三、指定暴力団国粋会系根岸組組員、石原秀夫容疑者(当時29歳)を銃刀法(譲渡)違反および火薬類取締法違反の疑いで逮捕した。
さらに野本容疑者の供述に基づいて、この日の夕方、千葉県習志野市の公園内から、凶器のトカレフ型短銃一丁と実弾三発が発見・押収された。
調べによると、石原容疑者は射殺事件四日前の10月21日、台東区浅草の組事務所近くの路上で、野本容疑者に短銃と実弾七発を計百四十万円で売り渡したという。また、野本容疑者は短銃の代金を数回に分けて支払ったという。
野本容疑者は9月中旬ごろ、台東病院近くでたまたま同組事務所を見つけ、事務所にいた初対面の石原容疑者に「短銃が欲しい」と持ちかけた。「お礼を出す。短銃が手に入ったら自宅に電話を欲しい」と立ち去ったが、10月21日になって石原容疑者から「短銃を入手した」と電話連絡があり、浅草の組事務所近くまで短銃を受け取りにいったという。
石原容疑者は調べに対し、短銃の譲り渡しの容疑を認め、また、同本部では野本容疑者から「短銃は習志野市の京成大久保駅近くの公園内の草むらに捨てた」との具体的供述を得たため、同容疑者の立ち会いのもと、同市本大久保三の中央公園内を捜索した。
その供述通り、公園にある駐輪場わきの草むらの中から、銀色のトカレフ型短銃と実弾三発が発見された。
野本容疑者は逃走途中、タクシーで公園に乗りつけ、事件当日の10月25日の「午前10時前に捨てた」と話しているという。
野本容疑者はそれまでの調べに「弾7発付きの短銃を石原容疑者から買った」と供述していたが、射殺事件では1発しか発砲しておらず、押収した実弾のほか、3発の実弾が未発見のままとなっていた。
未発見の3発について追及していく中で、野本は事件前に「(浦和市内の)自宅近くのサッカー場でグラウンドに向けて試射した」と話し、犯行に向けて射撃の練習を行っていたことが判明した。
裁判とその後
野本は逮捕前から精神病に通院しており、1994年夏頃まで通院を続け、逮捕後も「体内にポンプを入れられた」と主張し、その摘出を求めたという。
1994年2月13日、東京・品川の京浜急行青物横丁駅で起きた医師射殺事件で、殺人容疑で逮捕され、精神鑑定のため鑑定留置されていた会社員・野本正巳容疑者(37歳)について「刑事責任能力はあるものの、犯行時に精神病を発病しており、心神耗弱に近い状態だった」とする鑑定書が、東京地検に提出された。
1994年2月16日東京地検は「鑑定結果から刑事責任は問える」と判断し、殺人と銃刀法違反の罪で東京地裁に起訴した。
ちなみに、被告人の精神状態を最終的に判断するのは裁判所だが、刑法は「心神耗弱」と判断された被告の刑を減じるよう定めている。
刑法第39条(心神喪失及び心神耗弱)では、
1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
と、定められています。
1995年2月2日、野本に短銃を売り渡し、銃刀法違反などの罪に問われた元暴力団員・石原秀夫被告(29歳)に対する判決公判が、東京地裁で開かれた。阿部文洋裁判長は「使用可能な短銃を渡し、百四十万円を受け取ったもので、極めて危険な犯行」と述べ、懲役6年、罰金80万円(求刑・懲役七年、罰金百万円)の実刑を言い渡した。
1997年8月12日、東京地方裁判所は野本に対し「無防備な被害者を待ち伏せし、至近距離から拳銃で撃ったという用意周到かつ計画的な犯行は、極めて残虐な行為である」とし、懲役12年の実刑判決を下した。
野本はこれに控訴したが、棄却。
2000年7月、控訴棄却によって、懲役12年の判決が確定した。