1935年(昭和10)11月3日、東京・本郷の日大生・徳田貢(23歳)が自宅で強盗に殺害されるという事件が起こった。
しかしまもなく強盗ではなく、保険金目当ての父親徳田寛(当時52歳)ら一家による謀殺計画のもと、母親ハマ(当時46歳)に殺害されたということがわかった。
事件の経緯と動機
徳田寛(事件当時52歳)は正規の医学校は出ていないが、大正2年に医師試験合格して医師になり、以後は炭鉱会社の嘱託医として福島県下を転々とし、昭和3年からは樺太にわたった。
徳田は日本人絹パルプの嘱託医のなることを希望しており、元々そのようにはたらきかけていたが、そのために昭和6年3月に敷香町に徳田病院を建設した。医学博士も雇ったが、嘱託医になることはできず、そのうち経営が不振となった。
病院を売却しようとしても買手がつかないので、妻ハマと共謀し、昭和9年3月頃にこの病院を放火し日本海上火災に契約してある保険金2万8000円余りを騙取しようとして未遂に終わった。
徳田には元産婆で結婚後医業を助ける妻のハマ(事件当時46歳)のほか、長男の貢(事件当時23歳)、長女榮子(事件当時21歳)、次女(事件当時17歳)、三男(事件当時15歳)の4人の子供がいた。
長男である貢は日本大学専門部歯科3年だった。真岡中学時代から学校嫌いで、すでに酒、煙草をやり、日大に入ってからもカフェー、ダンスホール、マージャンクラブ、遊郭などに入り浸っていた。学業の方がおろそかになっており、二度落第し、頼み込んでなんとか在籍させてもらっていた状態であった。
送られてくる学費はすべて使い果たし、下宿料も滞納し、のみならず衣類や寝具ですら売りとばして、部屋には本と呼べるようなものが一冊もないという破綻した状態であった。
昭和7年9月から貢は上京してきた長女の榮子と同居するが、家族の目があっても、貢の生活態度は変わらず、彼女に金をせびったり、その持ち物を勝手に売り飛ばしたりしており、それを榮子が怒ると殴るという始末だった。榮子は小石川高女を卒業し、日本女子大学家政科にいたが、ここを中退することを余儀なくされた。
なお昭和8年9月頃から母ハマが上京して、子らと一緒に暮らし始めたが、貢の様子は変わらなかった。
樺太にいた徳田が病院放火を企図して失敗した頃のことである。これ自体は起訴されなかったのだが、徳田が放火をもちかけた人物がいて、このことを種に東京にいるハマを恐喝するようになった。この対策のために徳田も家族の住む本郷に移った。これが昭和10年5月のことだった。
この家の中で、徳田は変わらぬ長男貢の生活ぶりを目にする。「これはもう治らない」と思った。この時、徳田家では金も必要だった。
実は前年の時点で徳田とハマは貢を殺して保険金を得ようと話し合っていたことがあった。無論この先貢が生活を改めることがなければ、という条件付であった。そこでハマが監督役として上京したのである。
末期の水
貢にはもともと大正14年に第一生命に1000円、昭和5年に明治生命に5000円の保険がかけられていたが、昭和9年6月に明治生命で2万、同年8月第一生命に1万、同年9月同社に2万円、同年10月に帝国生命に1万円と、計6万6000円の保険金契約をしていた。
6万という金額のことだが、この当時は大卒初任給が70円という時代である。なおこれらの金は苦しい家計から捻出し、徳田が二口契約してる他は誰も保険に加入してはいなかった。 殺害の方法も徳田とハマのあいだで話し合われていた。徳田は「梅毒治療をしてやる」と606号にモルヒネを混ぜて注射し殺害したいと言い出したが、ハマは保険金のこともあるからと、薬を飲ませて腹痛に見せかけた方が良いと言い出し、その役目も自ら引き受けた。ハマは徳田から亜ヒ酸を受け取っている。
あとは息子を謀殺することだけだったが、これがうまくいかなかった。
まず昭和10年6月10日頃、ハマが毒薬を貢の好物でった柳川鍋に入れて、彼に出したが、薬が溶解せずに失敗した。
つづいて7月初旬、ハマは食事作りを担当していた長女榮子を取りこまなければ、うまく殺害できないと思って、彼女に貢謀殺のことを打ち明けて協力を求めたところ、榮子は最初反対した。しかし兄との同居時代や大学中退に至ったことなどで遺恨があったのだろう、粘り強い説得の末、遂にこれに同意した。まもなく榮子はハマから受け取った毒薬をコロッケに混入し夕食としてこれを貢に出したが、薬の入ってないコロッケが貢にまわったので失敗。
8月、貢が夏休みのために樺太に帰った際、徳田は看護婦に命じて「カルピス」という蒼鉛剤を制限分量以上に注射させようとしたが、分量と注射方法に不審に思った看護婦が注射しなかったのでまたしても失敗に終わる。
10月2日と同月12日の2回、榮子はこの毒薬をご飯に混入して貢に食べさせたところ、1度目は少量過ぎて失敗、2度目は多すぎて吐き出されてしまった。
あれやこれや計画しても、うまくいかない。この頃、徳田から「自分が引き受けると言いながら、何もできていないではないか」と難詰されていたハマは自ら刃をふるうことを決意した。三越銀座支店で出刃包丁を買い、これを研いでおいて台所の上に隠しておいた。
11月3日午前1時頃、貢が外出先から帰ってきた。ハマと榮子はかねてからの協議に基づいて、彼の手首を十字に手ぬぐいで縛り、「この結び目を口で解いてごらん」と言った。ほんの遊びのようにふるまっていた。
貢が結び目に口を当てていた時、ハマは包丁で息子を襲った。
「母さん、僕が悪いんだよ・・・・母さん許して」
「判ったよ判ったよ、死ぬよ死ぬよ・・・・死ぬ、医者、末期の水を呉れ」
貢はそう絶叫して死んでいった。実に17箇所を刺され、5箇所を切りつけられていた。
この騒ぎのなか、次女が起きだして母親が手にしていた包丁をとって隠したりしている。ハマは次女を交番へ走らせ、「強盗にやられた」と言わせた。
女たちは真相を
事件から1ヶ月、手がかりはまったくなかった。そこで家族の者の言う強盗殺人という話はおかしいのではないかという見方が出てきた。なぜなら、
- ハマが強盗が侵入したと申し立てた場所に、その形跡がないこと。
- ハマと榮子は、強盗が貢を殺すところを見ていないと言うこと。
- 貢は善良な息子であったと申し立てるも、実際はそうでなかったこと。
- 畳の上の血の足跡がすべてハマと榮子のものであること。
- 就寝していたはずの貢は懐に煙草を入れ、足袋をはいた状態だった。
- 家族が目撃した強盗の服装は貢の服装とまったく同じであった。
といった不審な点が多々あったからである。
さらにこの捜査の最中、樺太敷香町警察署に照会すると、徳田が保険金目的で放火を企てたり、貢を毒薬注射によって殺そうとしていたことがわかった。
そして保険会社より徳田に多額の保険金を支払ったという内申があり、疑いは一家に向けられることになった。
12月6日、本富士署に徳田、ハマ、榮子の3人が召喚拘留された。3日目に榮子が「私が殺しました」と犯行を自供し、ハマも「娘が自供しましたか、娘が可愛い」と自供を始めた。
事件の真相が明らかになるにつれ、巷間で騒がれる当時の一大事件に発展した。巨額の金をかけて息子を殺すというのは当時では考えられなかったことだった。現代でこそ保険をかけて肉親を殺すという犯罪は枚挙に暇がないが、この頃はまだ生命保険などは一部の金持ちのためであり、庶民的なものでなかったのである。
判決とその後
第一審は昭和12年5月24日より東京地裁で開かれ、公判において、徳田はずっと否認し続けたが、あとの2人は大方の事実を認めている。
公判において、いくら放蕩息子であったとしても情はあったのか、ハマは涙ながらに当時のことを述べ、殺害時の状況の話になると泣き伏すなど、彼女にはまだ母親としての顔があった。「私一人が悪いのです。私だけを罰してください」と他の家族をかばうところもあった。
一方の徳田は終始とぼけ続けた。ハマに亜ヒ酸を渡したことについても、「ネズミ捕りのため」と話し、柳川鍋に混入せよと言っていたことに対しても「鍋に入れてもネズミは死ぬという意味です」と答え、法廷内で失笑がもれた。
榮子は肉親謀殺の悩みを綴った手記を書いており、それが婦人のあいだで読まれていたため、彼女が尋問に立つ日には出身校の小松川高女、日本女子大学の生徒が押し寄せ、、若い女性を中心に法廷は超満員となった。「私も関わった」とする榮子と、「私一人でやった」とするハマの涙のかばいあいにて閉廷した。
第一審では立会検事であった野村佐太男が論告で万葉集の歌を引用して被告人らを責めた。
しろがね(銀)もくがね(金)も玉もなにせむに まされる宝子に如かめやも
同年7月19日、徳田に対して死刑、ハマに対して無期懲役、榮子に対して懲役6年8ヶ月の判決が言い渡された。3人は控訴。なおこの日、私訴においても3保険会社に対し全額6万6000円の支払いを命ずる決定があった。
控訴審では徳田に無期懲役、ハマに懲役15年、榮子に懲役6年が言い渡され、ハマと榮子はこれに刑が確定した。ただ一人、徳田は上告し、弁護人が無罪論を展開したが、昭和13年12月23日にこれは棄却されている。
徳田は巣鴨刑務所で服役し、のちに東北の刑務所に移され、終戦後に仮出所したが、その後死亡した。