1956年11月、東京・武蔵野市で、不審な車に職務質問した巡査が乗っていた男に撃たれ死亡した。
男は中村泰(当時26歳)、東大中退という経歴で話題となった。
彼は70歳を過ぎて、再び事件を起こした。
事件の経緯と詳細
1956年11月23日。勤労感謝の日。
午前6時過ぎ、東京・武蔵野市吉祥寺の市営グランド前に小型自家用車を止め寝ていた男に、若い警官が職務質問した。
「とにかく本署まで来て下さい。時間はそうかかりません」
しばらく質問が続いた後に警官がそう言うと、男は車内からピストルで警官の胸を撃ち、さらに車から降りて左コメカミを撃ち、再び車で走り去った。
亡くなった警官は武蔵野署西荻派出所勤務の新任巡査・山川治男さん(22歳)だった。
目撃者によると、撃った男は25、6歳で、ボサボサ頭に紺のナイロンジャンパーを着ていた。車は薄紺色で同乗者はいなかったという。
さらにこの車は、事件の起こる2時間前、午前4時頃から止められていたことがわかった。これは牛乳配達の人などが目撃している。
また現場に残された薬きょうから、男の使用したピストルは米軍のMPなどが使用する「コルト45口径」のオートマチックと推定された。
やがて犯行に使われた車種が判明し、そこから2人の男が浮上、指名手配された。
「沢井精三」「早川友次郎」という男で、捜査本部では2人が米軍の軍事施設で秘密兵器、軍の移動状況、自衛隊の装備などの機密を集める軍事スパイではないかという見方もあった。
そして1957年2月、沢井精三こと、中村泰(当時26歳)が逮捕された。中村は東大中退であったため、大々的に報道された。
中村泰について
中村は1930年(昭和5年)に生まれた。父親は南満州鉄道の職員で、幼少期は大連で過ごし、1940年(昭和15年)に帰国した。
本籍地である茨城の旧制水戸高校から東大教養学部理科二類に入学。成績は優秀だったが、窃盗事件を起こして2年で中退している。在学中は左翼運動に走って、朝鮮動乱が起こたことを契機として「世界は変わる。そして大きく動く。今までの学問は日本では役に立たない。東南アジアか南米でこれまで修めた理科系の技術を生かそう」と決意した。学校を辞めてからの中村は、そうした闘争資金を稼ぐため、窃盗を働いては服役した。
出所後、中村は深夜の銀行に忍びこみ、金庫破りをしようと考え、アメリカから合い鍵とダイヤルに関する本を取り寄せ研究し、実際に埼玉県内の市役所・役場3ヶ所で金庫のダイアルを解体して調べた。また銃器も大量に仕入れ、東京近郊や秩父の山でピストルの早撃ちを練習し続けていた。またそういった取引では、ロシア語、フランス語、ドイツ語、朝鮮語などをこなし、ブローカーの重要な位置にいた。
1956年8月6日、中村は台東区浅草雷門対等地区電話局浅草分局に忍びこみ、金庫のダイヤルはわかったが開かず、壊して無理やり開けて電話債券195万円分を盗んだ。その後、ダイヤルの組み合わせを変え、出勤してきた局員がすぐに開けられないように仕組んだ。
中村の細工により事件の発覚は遅れ、気がついた時には中村はすでに債券を日本橋などの3つの証券会社で売りさばき、現金を手にしていた。この事件は、「知能的金庫破り」として新聞に報道された。
11月11日、同様にして世田谷区の永楽信用金庫北沢支店から現金30万円を、さらに茨城県那珂郡下小野の農協事務所から35万を奪っていた。
11月23日午前3時頃、54年型ダットサンで三鷹駅前の都民銀行三鷹支店に乗りつけた。しかし、店の周囲を調べても侵入口は見当たらず、断念した。
その後、武蔵野署の前を通り、五日市街道を越えた田無(現・西東京市)方面に抜ける道が工事中だったので、わき道に入り、事件現場となった市営グランド前に出てきた。中村はここで急に眠気を催し、車を止め横になった。山川巡査が職務質問してきたのはその後である。
中村は山川巡査を撃った後、車を急発進させて逃走。このあたりは、弟が以前駐留軍要員として勤めていたグリーン・パークの傍なので、なんとなく地理は知っていた。
そして、午前7時半頃、埼玉県蕨市のマンションに戻った。中村は夕方まで眠った後、山川巡査射殺を報じた新聞各紙の記事を切り取り、赤鉛筆でラインを引いた。
24日、中村は立川市松町の取引相手のアジトに向かった。取引相手は外国籍の男で、中村は55年春頃からピストル3丁、実包2300発、ヤミドル1000ドル、外国ウイスキー1200本などを彼から購入していた。そして3日前にもピストル10丁、弾倉17個、機関銃バズーカ砲を注文していた。
アジトと言っても一見普通の民家で、中村がここを訪ねたのは、巡査殺しの捜査の手が彼に伸びてきたら、今取引をして自分まで疑われたらまずいと考えたからだった。
中村は注文した分をキャンセルするように頼んだが、男は応じられないと答えた。中村は1万8千円の手付金を渡し、口止めしたが、男はそれから姿を消した。
相棒
25日、蕨のマンションに元警視庁巡査のF(当時32歳)が訪ねてきた。Fは中村とは「相棒」である。Fに「お前がやったんだろう」と問い詰められ、中村は射殺を認めた。
Fは宮崎県生まれ。復員後、自動車修理工を経て、45年に警視庁巡査となり、高輪署外勤係に配属された。50年に退職してからは、各署で悪事を重ね、中村とは51年頃に知り合い、焼酎の密造などをした。52年に2人は窃盗事件を起こし、Fに懲役1年6ヶ月、中村には同2年が言い渡されていた。
Fが中村の犯行に気づいたのは、犯行に使われた車が54年型ダットサンと判明したからだった。当時はまだ街にそれほど車はあふれておらず、目撃した牛乳配達の少年もカーマニアだった。
中村とFは早めに車を処分しようと考え、車で関西に向かった。途中、小田原と名古屋に1泊ずつして、30日に奈良市内の自動車修理業者に車に預けた。蕨に戻ったのは12月2日のことである。
4日、再び奈良に向かい、預けてあった車を受け取って、兵庫県尼崎市で家賃1万円を払い倉庫を借りた。2人は9日からこの倉庫で、ダットサンの解体をはじめ、エンジンは5000円で売り払った。2人は専門業者に解体を依頼したが、廃車証明がなくてはダメだった。
このダットサンの名義は日本橋の印刷店のものだった。中村は8月に、この印刷店店主から15万円で購入していた。中村に頼まれたFは1人で上京し、店主の元をたずね、「〇〇(中村の偽名)の代理だが、車を廃車したいから印鑑証明をもらいたい」と頼んだ。
翌日Fと店主で中央区役所に行ったが、自動車ブローカーが山川巡査射殺犯と同じ車両だということを指摘した。Fはあわてて言い逃れし、タクシーで逃げ、店主が通報した。
この一件で、中村が浮上。偽名だったが、2人のモンタージュ写真30万枚がばらまかれ、まもなく2人は逮捕された。
72歳現役
事件から46年後の2002年11月22日午前10時半頃、名古屋市西区のUFJ銀行押切支店で、支店に金を運びこもうとしていた現金輸送車に男が近づき突然発砲、見張り役の警備員(当時55歳)が両足を撃たれ、もう1人の警備員が車の陰に隠れたすきに現金約5000万円入りの袋を奪い逃走した。撃たれた警備員は重傷を負い、もう1人の警備員が男を追いかけ取り押さえた。
この男こそ中村泰(当時72歳)であった。中村は01年10月にも大阪市都島区の三井住友銀行都島支店の駐車場で現金輸送車を襲撃し、発砲により警備員の男性に重傷を負わせたうえ現金500万円が奪っていたことも発覚した。
中村は山川巡査殺しで無期懲役が確定し、1976年に千葉刑務所を出所した。彼が出所してから、現金輸送車襲撃事件を起こすまでの間のことはよく判っていない。
ただ使用された拳銃などから、1988年4月に石川県金沢市で起こった金融業者夫妻殺害事件、95年に八王子市で起こったスーパーナンペイ3人射殺事件、また同じ年の国松長官狙撃事件などの関連について疑われた。
2003年夏、警視庁は三重県内のアジトを家宅捜索し、大量の銃器、実弾を押収した。中村はこれについて「新右翼の故・野村秋介氏とともに『武装民兵組織』を結成する計画があり、そのための武器を集めていた」と供述した。
2004年、「新潮45 4月号」(新潮社)に中村の手記が掲載された。それは国松長官狙撃事件についてのもので、使用されたであろう銃器の解説や、スナイパーの心理を克明に記していた。
2006年10月23日、三井住友銀行の事件の公判で、検察側は「以前にも警察官を射殺しており、被告の反社会的人格は顕著」として無期懲役を求刑した。UFJの事件では懲役15年が確定している。
2007年3月12日、大阪地裁・西田真基裁判長は「完全犯罪をもくろんだ周到な犯行。被告は昭和31年に警官射殺事件で無期懲役に処せられ、仮釈放を受けた後に本件犯行に及んでおり、更生は期待できない」として無期懲役を言い渡した。中村にとっては2度目の無期判決だった。
同年12月26日、三井住友銀行都島支店襲撃事件についての控訴審で、大阪高裁・森岡安広裁判長は控訴を棄却。
2008年6月2日、最高裁は上告を棄却。無期が確定した。