芸能界史上初、現役女優が加害者となった殺人事件

現役映画女優愛人刺殺事件とは、事件当時大映の契約女優だった毛利郁子が7年間付き合っていた愛人(水田照正さん)を姫路市のパーキングエリアに止めていた車の中で、包丁で刺し、殺害した事件の一般名称。
毛利郁子と水田照正さんの間には、子供が居たとされている。
事件の経緯や動機
毛利郁子が30歳の時、姫路市のヘルスセンターの出演依頼があり、その時に共演した水田照正と出会い、毛利郁子は過去に惹かれた男性と同じような雰囲気の水田照正に惹かれ、2回目のデートで性行為に及んだ。
交際から半年後、水田照正に多くの愛人や妻子が居ることが判明するが、水田照正は悪びれることもなく、毛利郁子も別れなかった。
毛利郁子が、水田照正に出会って4年後に毛利郁子は水田照正との子を妊娠し、水田照正は子供を堕ろす事を要求したが、毛利郁子は産むことを決意し、子育てのための住居も購入した。そして、毛利郁子は出産したが、それ以降水田照正は毛利郁子からの連絡が来ても、多忙であることを理由に会おうとしなかった。
しかし、前触れもなく水田照正が毛利郁子に会いにやってきて、寄り添おうとしている毛利郁子にもくれず、「お前はセックスが好きだからな。一人じゃ身体がおさまらんだろう。どうだい、若い彼氏でもつくってみる気はないかい」などと若い男を紹介すると言われ、毛利郁子は水田照正に殺意を抱いたと言われている。
事件当日の1969年12月14日、翌日から新しい撮影に入る予定があった毛利郁子だったが、予定を無視して、姫路市へと向かった。
その途中で包丁を2丁買ったと言われている。
午後1時頃、水田照正の事務所に電話を入れたが、応答がなく、姫路へ向かう大通りをフラフラと歩いていると、信号のところに見慣れた水田照正の車を発見し、毛利郁子は走り寄って行った。
毛利郁子が水田照正の車の窓をたたくと、運転席の水田照正は驚いた様子だったが、すぐに車に乗せたという。
その後二人は、とんかつ屋に入ったが、二人は一言も話さなかったという。
食事を終えると、水田照正は「頭がすっきりするところへ行こう」と姫路市の北端のパーキングエリアに車を止めた。
車を止めると、毛利郁子が子供の認知について、話し始めたが、水田照正が「お前、自分で産んだ子のせきにんぐらい、自分で負えや。」と言い、認知を拒否した。すると、毛利郁子が来る途中に購入した包丁を取り出しだが、水田照正は「やれるもんならやってみろ」と挑発した。
毛利郁子は、水田照正の左腹を包丁で刺した。刺した後すぐに車を出て、助けを求め、水田照正は救急車で病院に運ばれたが、約3時間後に出血多量で死亡した。
水田照正は病院で、薄れていく意識の中、「俺がやったんだ」と最後まで毛利郁子をかばい続けた。それがせめてもの毛利郁子への償いではないかと言われている。
水田照正の死ぬ間際の言葉
水田照正は、「悪いのは俺だ。」と周囲に訴え、それを聞いた妻も「主人があそこまでかばったのだから、よほど好きだったんでしょう。彼女を無罪にしてあげてください。」と言ったと伝えられている。
毛利郁子の壮絶な過去
毛利郁子は高校卒業後家業を手伝っていたが、折角の美貌がもったいないからと、大分県で親戚が経営する温泉旅館のフロント係になった。そこで19歳の時に全国温泉旅館美人コンテストで「ミス温泉」に選ばれ、地元で有名になり、そのせいで地元のヤクザ(日本生まれの中国人)に目を付けられ、監禁・強姦された後、中洲のクラブで働かされた。
クラブで働かされる生活に耐えられなくなった毛利郁子は、地元暴力団の親分に依頼し、クラブで働かされる生活からは開放されたが、依頼した暴力団の親分の愛人にさせられてしまった。
地元暴力団の親分の愛人になって2年が過ぎたころ、大映の新人女優募集に応募し、無事テストに合格し、研究生となって上京した。
そして、毛利郁子が25歳の時、「透明人間と蝿男」に主役として抜擢された。当時の映画界はテレビ番組に押され、斜陽化が始まっていたため、観客動員のためかエロティシズムが前面に押し出されている作品が多かった。毛利郁子も大映の肉体派女優として、有名になった。
毛利郁子が28歳の時、共演した当時39歳の俳優と京都で同棲を始め、妊娠、出産したが、相手の俳優の母が「お前のような女と一緒にしておいては、子供の将来のためにならない」と、赤ん坊を連れ去り、その後同棲していた俳優とも別れることとなった。
裁判の様子・判決
1970年に裁判が開始され、水田照正の妻も亡夫の意をくんで、寛大な処置を訴え、大映の社長や、共演者も減刑嘆願書を提出していたこともあり、毛利郁子に懲役7年の刑が言い渡された。
釈放とその後
7年間の刑期を終えた毛利郁子は、芸能界から引退し、「芸能人物事典 明治大正昭和」に記述のある1998年時点では、結婚して平穏な生活を送っているとされている。それ以降の消息は不明である。