父親が目を離したすきに何者かが子どもを誘拐、海に放り投げて殺害
2002年7月28日、愛知県豊川市のゲームセンター駐車場で、車内で寝かされていた村瀬翔ちゃん(1歳10ヶ月)が行方不明となり、午前5時頃に4kmほど離れた三河湾に死体となって浮いているのが発見された。
2003年4月、トラック運転手K(当時36歳)が犯行を自供、逮捕された。2006年に名古屋地裁で無罪が言い渡されたが、後に逆転有罪判決。
事件の経緯と詳細
2002年7月27日午後10時頃、愛知県豊川市の無職・村瀬純さん(当時26歳)は、夏祭りの後、同市白鳥町のゲームセンターで友人と遊び、午前0時ごろになって一緒に来ていた長男・翔ちゃん(1歳10ヶ月)が眠たそうにしているのに気づいて、駐車場に停めてあったワンボックスカーで寝かした。念の為、冷房をつけるために、エンジンはかけっぱなしにしていた。
午前1時20分頃、駐車場に戻ってきた純さんは、助手席の窓が開いており、車内に翔ちゃんの姿が見えないことに気づいた。
まだ1歳。自力でドアを開けたり、出て歩いたりすることは、とても出来ない。このため、何者かが車内の翔ちゃんを連れ去ったものと見られた。
午前5時30分頃、ゲームセンターから約4km離れた御津町の三河湾佐脇浜で、翔ちゃんの遺体が浮いているのを、カニを取りに来た人が見つけた。
捜査は難航していたが、やがてトラック運転手K(当時36歳)が浮上。
村瀬さん一家とは面識のないKが浮上したのは、現場の駐車場に停められていた彼の軽自動車のナンバーが控えられていたからだった。
Kは、そんな時間に、駐車場で1人何をしていたのか。当初、Kは「友人とコンサートに行く予定だった」と話していたが、これは嘘だった。
Kは妻、義母、子ども2人の5人家族で、義母方で暮らしていた。しかし妻との仲が険悪になり、事件までの3年の間は仕事から帰宅して子どもを風呂に入れた後、家を追い出される生活を送るようになった。
Kはわずか1000円ほどのお小遣いをもらって、車中泊をして時間をつぶしており、事件現場であるゲームセンター駐車場も普段からよく利用していた場所だった。
Kが繰り返す嘘は、警察の疑いをさらに強める結果となり、以後マークされた。さらにKが音羽町の業者に車を売っていたことも判明し、これは証拠隠滅をはかったものと見られた。
03年4月、Kは豊川署に連行され、翌日に犯行を自供、逮捕された。
2003年7月の初公判、Kは供述を一転させる。 「一切やっていません」「自白させられました」と無罪を主張し始めた。
供述調書
まずKは当日午後8時30分に現場の駐車場にやって来て、睡眠をとった。午後9時30分頃、村瀬さんの車が、Kの車の斜め前に駐車した。午前0時頃、村瀬さんが翔ちゃんを車内で寝かす。
Kは赤ちゃん(翔ちゃん)の泣き声で、目をさました。この時、現場には3人組の若い女性が村瀬さんの車をのぞいて、翔ちゃんをあやしていた。場内には他にもバイクのグループなどもいたという。
午前1時10分頃、Kは次第に赤ちゃんの鳴き声にいらだちはじめ、車内の翔ちゃんを抱いて車で連れ去った。Kは駐車場を出るとき、場内に1人でいた女性を目撃していた。(後に警察がこの女性に尋ねたところ、出会い系サイトの待ち合わせの女性であり、不審な男・車両については「覚えていない」と答えた)
Kは翔ちゃんを連れ去った後、「始末に困った」と思い、そのまま4km離れた御津町佐脇浜へ向かった。そして午前1時40分頃、生きたまま海に投げ捨てた。Kは再びゲームセンターの駐車場に戻って睡眠をとったが、この時場内に来ていた署員にナンバーを控えられている。
翔ちゃんはその4時間後に400m離れたところで発見された。
冤罪の可能性
この事件で、Kが犯行を行なったとする物証や目撃者はなく、あくまで自白のみである。事件後にKが売ったとされる車からは、翔ちゃんの指紋や、衣服の繊維は検出されなかった。
また事件当夜のことについて、翔ちゃんのいた車の斜め前ではなく、約60m離れたゲームセンターに隣接する「ユニクロ」前に車を止め、朝まで寝ていたと話した。
そしてその供述内容も信憑性が揺らいできた。
ある時、「赤ちゃんを抱いてみろ」と言われ、たまたま左手でお尻を支える抱き方となった、「それは左利きの抱き方だ」と言われ、調書では左利きとなった。しかし、実際は右利きである。
また殺害時の自白も「背中を押した」から「投げ落とした」に変わった。当時、現場の海は干潮で、すぐ下の海面には岩場がでた。翔ちゃんの体が岩場にぶつかると、体に何かしらの傷がつくが、遺体にはそうした傷はなかった。それを指摘されると自白が変わった。
この事件が起こった直後、まず父親・純さんが疑われた。純さんは取り調べ官に「間違いなく、君が犯人だと言えるよ」と言われたという。しかし、後にゲームセンターのビデオカメラに純さんの姿が映っていることがわかり、アリバイ成立となった。
純さんは事件後しばらくは、「Kを極刑にして欲しい」と話していたが、後に「K以外の人物なのでは?」と考えるようになった。また自責の念にも苦しんだという。Kが浮上してくるのはその後のことである。
Kは福井県の日本海沿いの街で生まれている。父親は幼い頃からしつけに厳しく、Kは恐れを抱くようになった。学校ではいじめを受けており、いつも1人でいた。同級生に盗みの濡れ衣を着せられて、補導されたこともあったという。
父親や同僚によると、Kは嘘が多い人物であったらしい。ただ、それは自分を強く見せようという性格の嘘ではなく、その場しのぎの、圧迫・苦痛をしのぐ嘘がほとんどだったようだ。
父親が白いコーヒーカップを指して、「このコーヒーカップ、黒いね」と強く言うと、「うん、黒いね」と答えるほどだったという。つまり、「恐ろしい」と感じると、苦痛をしのぐために相手の言うままに答えることが多い。それは逮捕後に行なわれた心理鑑定でも、次のような結果が出た。
1 自分でも判っている嘘→嘘をつける
2 思いつきで言う嘘→嘘をつける
3 自分を良く見せようとする嘘→嘘をつけない
自身の辛い体験から、こうした性質を持つようになったKが、取り調べ室で刑事に怒鳴られたり、椅子を蹴られたりするとどうなるのか。やっていないことを「私がやりました」と答えるということは、大いに考えられることだった。
判決とその後
2005年9月20日、懲役18年が求刑された。
2006年1月24日、名古屋地裁・伊藤裁判長は「自白に犯人しか知り得ない秘密の暴露がなく、動機はあまりに短絡的で不自然」と、Kに無罪を言い渡した。
Kは保釈が認められ、記者会見で「皆様のおかげで無罪になりました。ありがとうございました。本当にうれしい気分です」と話した。
2007年7月6日、名古屋高裁で懲役17年の(求刑同18年)の逆転有罪判決。前日にはマスコミの取材で「無罪を確信している」と話していたKは、裁判長の「被告人を懲役17年に処する」との言葉を聞き、大きくうなだれた。
前原捷一郎裁判長は「自白は自発的になされ、中核部分は客観的事実と齟齬がなく、根幹部分において十分な信用性が認められる」と指摘し、供述調書の信用性を認めた。
この控訴審で検察側は、連れさり直前に現場でKの赤い軽乗用車の目撃者2人の証人尋問や、ポリグラフの結果などで信用性を補強していた。
Kは無罪判決後、名字を変え、事件のことは伏せて派遣社員として働いていたが、この日の閉廷後、名古屋拘置所に収監された。
村瀬さんは記者会見で「内容を聞いていて、Kが犯人だという確信を持てた。捜査に感謝している」と話した。
2008年9月30日、最高裁・古田佑紀裁判長は被告側の上告を棄却、刑が確定した。