事件・事故

加藤智大の生い立ちから現在まで!秋葉原無差別殺傷事件はなぜ起きたのか。

2008年、秋葉原の歩行者天国を一瞬で地獄に変えた「秋葉原無差別殺傷事件」。

事件から既に10年以上の歳月が経過しましたが「死亡者7名」、「負傷者10名」という大きな惨劇は未だ多くの人達の記憶に残っているのではないでしょうか。

そして、事件の実行犯である加藤智大の存在は日本中に大きな震撼を与えました。

罪も無い人の命を奪い、傷付けた行為は決して許されるものではありません。

しかし、なぜこういった悲劇は起きてしまったのか。

加藤は何を思い、無差別殺傷事件を起こすにまで至ってしまったのか。

今回は、そんな加藤智大の生い立ちを詳しく解説したいと思います。

加藤智大の生い立ち~幼少期から中学時代まで~

加藤智大は、1982年9月28日、青森県五所川原市で生まれました。

家族構成は、父・母・弟、そして加藤智大の4人。

加藤智大の母親は県下一の進学校、青森県立青森高等学校の卒業者でもあり、その影響からか子供達に厳しい教育を施してきました。

厳しい環境で育てられてきたのもあってか、小中学校は成績優秀スポーツ万能。

そして、母親が通っていた県立青森高等学校の受験に合格しました。

ここまでは、加藤智大に限らず他の家庭にもありがちな話かと思います。

ところが、彼の母親が行ってきた厳しい教育というのは、一般の家庭と比べたらあまりにかけ離れており、思わず目を疑ってしまうものです。

度を過ぎた厳しい教育

では、実際どういった教育が施されてきたのか。

加藤の証言を元に、マスコミが発信した情報は以下の内容です。

  • 冬の寒い日に薄着で外に立たされた。
  • 小学生の頃から珠算やスイミングスクール、学習塾など、多くの習い事をさせられた。
  • 友人の家に遊びに行くことも、友人を家に呼ぶことも禁止されていた。
  • 作文や絵画は母親の検閲が必要だった。
  • 見ることが許されたテレビ番組は「ドラえもん」と「まんが日本昔ばなし」のみ。
  • 男女交際禁止

この内容だけでも十分厳しさが伝わってきますが、実はさらに厳しいエピソードがあります。

加藤智大の母親は完璧主義だったそうで、常に完璧なものを求めてきたと言われています。

例えば、作文指導の際に「10秒ルール」と呼ばれるものを設けていたらしいです。

その内容は、母親が検閲した際に「この熟語はどういった意図で使ったのか?」などという質問が飛び、答えずにいると「10・・9・・8・・7」と声に出してカウントダウンを始めます。

そして、0になっても正解できなかった場合、ビンタが飛んでくるというものでした。

しかも、この問題における正解は母の好みや教師ウケするような回答でなければいけなかったという事です。

傍観する父と弟

度を過ぎた教育は、他にもまだあります。

それは加藤智大が中学1年生の頃。

食事の途中で母が突然激昂し廊下に新聞を敷いて、その上にご飯や味噌汁など、その日の食事を全部ばらまきます。

そして、母親は「そこで食べなさい」と言い放ち、加藤智大は泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べたそうです。

このように、ただ厳しいだけではなく、現在で言う虐待まがいの行為を日頃から行っていたことが窺えます。

また、こうした状況の中でも父は黙っているばかりで助け舟を出さず、弟も横目で見ながら食べ続けていたそうです。

厳しい教育に加え家族からの対応、この頃から加藤智大の歯車は狂い始めていたのかも知れません。

加藤智大の生い立ち~高校時代~

こうして、厳しい幼少期を乗り越え高校生になった加藤智大ですが、ここから本格的に歯車が狂い始めます。

優秀な生徒が集まる環境の中、加藤は埋没し成績は低迷していきます。

さらに、今までの不満が爆発したかのごとく「母親に暴力を振るう」、「部屋に穴を開ける」、「教室の窓ガラスを割る」などの行動を取ります。

また、高校入学当時の志望大学は母親の希望する「北海道大学工学部」との事でしたが、3年に進級する時点で短期大学の入学を希望しておりました。

いくら成績が優れていなかったとはいえ、県下一の青森高校に在籍していたのであれば、大学に進学することは可能だったとされています。

では、なぜ短大を選んだのか?

母親への反旗

加藤は高校を卒業する際、生徒会誌に「ワタシはアナタの人形じゃない」という言葉を残しました。

これはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する綾波レイというキャラが発したセリフです。

綾波レイは理不尽な戦いを強いる司令官に対し、このセリフを発したのですが、どことなく加藤の幼少期と重なりはしませんか。

これは明らかに、幼少期の頃から自分を道具のように扱ってきた母親に対する反旗を翻す行為そのものではないでしょうか。

これ以上、母親の思い通りになりたくない。

加藤はこの思いから、母が望んでいた大学ではなく岐阜県にある短大を選んだのです。

加藤智大の生い立ち~大学時代~

さまざまな経緯から加藤は、岐阜県にある「中日本自動車短期大学自動車工学科」に入学します。

しかし、短大に入学しても学業に意欲が持てず成績は低迷していく一方でした。

結果、自動車関連の仕事をしていく上で便利とされている自動車整備士の資格すら取得せずに短大を卒業します。

加藤智大の生い立ち~社会人~

加藤は短大卒業後、1人暮らしを始めながらも準社員として宮城県仙台市にある警備会社に就職します。

警備事業部、警備現場の警備員に配属。

月収は残業を含めて多い月で25万円に達したとされています。

また、同じ職場で働いている人の中で仕事以外に交友する友人もいたそうです。

職場を転々とする生活

一見、上手くいっているかのように思えた社会人生活ですが、警備会社に就職して約2年。

ある日、職場の所長に仕事の件で提案を行いますが、その案は却下されてしまいます。

そして、その件で仕事への手応えが感じられずに職場を辞めてしまいます。

警備会社退職後は、埼玉県上尾市にある自動車工場に派遣社員として就職します。

しかし、そこでも職場の上司と馬が合わずに無断欠勤を繰り返してからの退職。

部品の整理の仕方についての提案だったそうですが、「派遣は黙っていろ」と一蹴されたとの事です。

警備の職場に続き、自動車工場での職場、きっと加藤にとっては自分を否定された気持ちだったのかも知れません。

その後も茨城県の住宅建材メーカー、青森県でトラック運転手、静岡県の自動車生産工場と職場を転々としていくことになります。

掲示板サイトとの出会い

埼玉県の自動車工場に勤務している時、ゲームの情報を得ようとネットサーフィンを行っていたところ、掲示板サイトを見つけます。

掲示板サイトを通じてネット上の友人ができ、自虐ネタなど、たわいもない雑談で毎日を楽しんでいました。

仕事以外の時間はすべて掲示板に当てるほど没頭したそうです。

また、この時の加藤は寮生活で、家族とは離れて暮らしていました。

自動車工場での職場は交友の深い友人ができることもなく、休日は1人で過ごしていました。

そうした中、見つけた掲示板は加藤を孤独から解放してくれる場所でした。

自分の話に付き合ってくれる人がいること、外では言えないような事を自由に発言できるなど、心の底から嬉しかったのかも知れません。

実際、本人も

「掲示板は自分の居場所であり、家族同然」

と言っているぐらいです。

この事から掲示板サイトは、加藤の人生を大きく変えてくれた場所であることは間違いないでしょう。

自殺未遂

無差別殺人犯で定着している加藤ですが、実は過去に自殺を図ったことがあります。

掲示板サイトの友達に厳しい発言をしたことが原因で友人関係に亀裂が入り、彼は居場所を失います。

唯一の居場所がなくなり激しい孤独感に襲われた彼は、2006年の8月に青森のバイパスにてトラックで対向車線に突っ込もうとします。

ところが、縁石にぶつかったことでトラックは走行不能となり自殺は失敗に終わりました。

母親からの謝罪

自殺未遂の後、加藤は職に就いていなかったこともあり、一度地元に帰宅します。

そして、自宅で待っていたのは意外な出来事でした。

それは母親からの謝罪です。

加藤の自殺未遂はもちろんですが、それまでの間に弟が高校を中退し5年間引きこもっていたという事情もあります。

これらの要因は全て自分自身にあると気が付いた母は、

「よく帰ってきたね。ごめんね」

という言葉と共にハグをし、幼少時代の教育姿勢を謝罪しました。

自分を道具のように扱ってきた母からの謝罪は、加藤にとっても予想外の出来事だったのではないでしょうか。

その後、両親共に自宅での休養を進められた加藤は、しばらくの間自宅で生活することになります。

地元で就職するが・・・

自宅休養をしていた加藤は、高校時代の友人達に度々会って飲食や歓談をしたり、大型自動車運転免許を取得したりなど、新しい一歩へと踏み出します。

取得した資格を活かして2007年の1月、青森の運送会社に大型運転士として就職。

同じ職場で友人ができ、高校時代の友人との関係も続いていました。

また、一度は居場所を失った掲示板での活動も続けておりました。

しかし、同年の9月、掲示板の友達と会うために2週間の休暇を会社に申請するものの、却下されます。

これを不満に思った加藤は、抗議の表明として無断欠勤を行い、運送会社を退職してしまいます。

加藤智大の生い立ち~事件発生まで~

加藤は運送会社を退職後、一般労働者派遣事業(登録型派遣)会社である日研総業(現・日研トータルソーシング)と契約。

2007年11月、静岡県にある自動車工場に派遣社員として就きます。

ところが、リーマンショックに端を発した世界同時不況で自動車業界は減産を余儀なくされ、その影響で加藤は翌年の5月に、6月末での契約解除通知を受けてしまいます。

加藤は当時、自動車工場の寮に住んでいたため、職を失うことは住む場所を失うことも意味していました。

実際掲示板サイトにて、

「あ、住所不定無職になったのか。ますます絶望的だ」

と綴っています。

そうした状況の中、さらに追い討ちをかける出来事が起きてしまいます。

事件の引き金となった2つの出来事

秋葉原の事件が起きる直前、加藤の身に事件の引き金となる2つの出来事が起きていました。

1つ目は、掲示板のなりすましです。

加藤とは違う他の者が加藤智大になりきり、掲示板を荒らしたのです。

これによって、ネット友達との友情関係にも亀裂が入り、加藤は掲示板に居づらくなってしまいます。

2つ目は、ツナギ(作業着)の紛失です。

事件の3日前に当たる6月5日、加藤はいつも通り出社しますが、職場のロッカーに入れてあったはずのツナギが無くなっていました。

加藤はこれに激しい怒りを感じ、異様な叫び声を挙げ、手に持っていた缶コーヒーを壁に投げつけたと言われています。

ツナギが無くなった理由は定かではありませんが、加藤は「自分を追い出す=自分を否定する」と捉えてしまったのでしょう。

事件当日

さまざまな不満を抱え込んできた加藤は、それが爆発したかのように、とうとう取り返しのつかない事に手を出してしまいます。

2008年6月8日12時30分過ぎ頃でしょうか。

加藤は、レンタカーのトラックで次々と人を跳ね、トラックから降りた後は無差別にダガーナイフで人々を襲いました。

加藤が事件決行の決め手となった動機は、なりすまし犯に対し

「自分が本気で困っていることを知らしめる」

との事だったそうですが、その身勝手な理由で多くの人が傷付き命を落としました。

秋葉原の歩行者天国は、一瞬で悪夢のような光景に変わってしまったのです。

その後、加藤は秋葉原交番から追跡してきた警察官と非番でたまたま居合わせた蔵前警察署の警察官によって取り押さえられて現行犯逮捕されました。

この間の出来事はわずか5分~10分だったと言われています。

加藤智大の現在と家族のその後

加藤は、2015年2月2日に死刑判決が言い渡され、東京拘置所に収監されていましたが、2022年7月26日午前に死刑が執行されました。

労働作業は行っておらず、拘置所の中でイラスト制作や執筆活動に時間を充てていたそうです。

そんな加藤が描いた作品は、2017年の「死刑囚表現展2017」にて入賞したものもあります。

他にも事件の再発防止や贖罪(しょくざい)を目的として、秋葉原の事件や自身の生い立ちについて記載した複数の書籍を出版しています。

加藤は拘置所で何を思い、毎日を過ごしていたのか。

それは本人にしか分からないでしょう。

家族のその後

加藤智大の家族のその後ですが、事件後に両親は離婚します。

父親は勤めていた会社で退職を余儀なくされ、現在は実家で1人ひっそりと暮らしています。

母親は自身が行ってきたスパルタ教育が世間から非難の的になり、精神バランスを崩して一度精神病院に通っています。

退院した現在は、青森市内のアパートに引きこもって生活を送っているそうです。

ただ、何より不幸だったのが弟の加藤優次さんです。

優次さんは、「秋葉原通り魔事件の犯人の弟」としてマスコミから追従を受け職場も転々としていました。

そんな彼の唯一の救いだったのが、事件から約1年後にできた彼女。

彼女との付き合いは上手くいっており、相手側も加害者家族であることを受け入れてくれていました。

ところが、結婚の話になると彼女の家族は猛反対。

そして、彼女も優次さんに対し

「家族すべてが異常だ」

という言葉を投げかけ、優次さんの元を去りました。

この出来事がきっかけで彼は生きる理由を見失い、2014年に自ら命を絶ってしまいます。

両親に関しては因果応報の結末とも言えますが、優次さんの人生までこのような結末になってしまったのは同情せざるを得ません。

殺人事件は、それほどにまで大きな影響を与えてしまうことを改めて実感させられる瞬間でした。

加藤智大と自己愛性パーソナリティ障害

幼少期から自分を否定されてきた加藤は、いつしか「自己愛性パーソナリティ障害」になってしまったのではないかと考えられます。

自己愛性パーソナリティ障害とは、「自分は優れていて素晴らしく、特別で偉大な存在でなければならない」と思い込んでしまう症状です。

例えば、自己愛性パーソナリティ障害には以下のような特徴があります。

  1. 容易に傷つき、拒否されたと感じることが多い
    加藤智大の例:ツナギ紛失の件や掲示板のなりすましなど、激しい怒りを抱いている事から該当する。
  2. 人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
    加藤智大の例:最初の職場と2つ目の職場で案を出しているが、いずれも拒否されている。また、それがきっかけで職場を辞めている。
  3. 多くの人間関係にてトラブルがある
    加藤智大の例:職場での人間関係からくる無断欠勤など。
  4. 人の感情や感覚を認識できない
    加藤智大の例:自分の目的のためなら、他人の事なんてどうでもいい。結果、多くの人を傷付ける犯行に及んでしまう。

自己愛性パーソナリティ障害の特徴は他にもまだありますが、加藤智大が特に目立っていたのは上記の特徴です。

母親からの謝罪はあっても、幼少期の出来事がきっかけで形成されてしまった「自己愛」は、本人にも制御できなかったのでしょう。

加藤智大が殺人鬼になってしまった2つの理由

ここで誤解しないでほしいのは、「自己愛性パーソナリティ障害=犯罪者」につながるわけではないという事です。

では、加藤智大はなぜ事件を起こしてしまったのか。

それには2つの理由があります。

1つ目は、「加藤の理解者となってくれる友がいなかった」です。

加藤には学生時代の友人や職場の同僚など交友関係はありましたが、クセの強い彼の性格もあってか、本当の意味で彼の理解者となってくれる友はいませんでした。

2つ目は、「破滅的な喪失が起きてしまった」です。

加藤にとって唯一の居場所だった掲示板も、最後はなりすまし事件によって滅茶苦茶にされてしまいます。

孤独の彼が最も大事にしていた場所を奪われるということは、とどめを刺されたようなもの。

それが破滅的な喪失です。

結果、彼が今まで抱え込んでいた不満は山が噴火したかのように大爆発してしまい、彼を殺人鬼へと変えてしまいました。

もし、加藤智大の誤った考えに対し真剣に向き合ってくれる人がいて、破滅的な喪失が無かった場合、事件は起きていなかったのかも知れません。

そう考えると、悔やまれるばかりです。

加藤智大の残した言葉

「ちょっとしたことでキレる」 幸せな人がよう言う。 ギリギリいっぱいだから、ちょっとしたことが引き金になるんだろ。

「死ぬ気になればなんでもできるだろ」 死ぬ気にならなくても何でもできちゃう人のセリフですね。

「誰でもよかった」 なんかわかる気がする。

考え方が変わったって顔は変わらない。

顔が良くても性格が悪かったら長続きしない? その通りだよ。 不細工は始まりすらしないんだよ。

いいよな。 イケメンは不幸話をすればみんなが同情してくれるもんね。

また長い一日が始まる。 ただただ苦痛なだけ。まだ始まってないけど、終わりでいいや。

「無事故で帰ろう。あなたを待ってる人がいる」 安全標語だそうで。 バカにされてる気分です。 待ってる人なんか居ない。 俺が死ぬのを待ってる人はたくさんいるけど。

俺にとってたった一人の大事な友達でも、相手にとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね。その意識のズレは不幸な結末になるだけ。

人を救うのは人。 救ってくれる人を得るには金がいる。 結局、人を救うのは金。

第二の悲劇を生み出さないためにも

今回は秋葉原無差別殺傷事件の実行犯、加藤智大の生い立ちについて解説いたしました。

また、今回は加藤智大の生い立ちを中心に解説しましたが、似たような理由で犯行におよんでしまった事例は他にも複数あります。

ただ、辛い過去があったにしろ人を殺害していい理由にはなりませんし、犯人を擁護する理由にもなりません。

被害者遺族の事を考えると、犯人への怒りが込み上げるのは当然の事だと思います。

しかし、仮に私達が加藤智大と同じ人生を過ごしていたらどうなっていたのか。

そう考えると、彼を責めきれないのではないでしょうか。

亡くなった方達の事を思えるからこそ、犯人への怒りが込み上げるからこそ。

私達は犯人を憎むよりも、同じ悲劇が二度と繰り返されないように努めていく必要があるのではないでしょうか。

私やあなたの身近に大きな悩みを抱えていたり孤独に悩まされていたりする人が居たとするのであれば…。

そういった人達に手を差し伸べることが、私達のこれからの課題であり、第二の加藤智大を生み出さないための最善な手段と言えるのではないでしょうか。

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