1954年4月19日、東京文京区本郷の元町小学校の正面玄関右側のトイレ内で、授業時間中に2年生の細田鏡子ちゃん(7歳)が殺されているのが発見された。
5月5日になって別件で逮捕されていた坂巻脩吉(当時20歳)が鏡子ちゃん殺しを自供。1956年10月、死刑が確定した。
事件の経緯と動機
1954年4月19日昼頃、東京文京区本郷の区立元町小学校2年A組では2時間目に国語の授業が行なわれていた。絵日記を早々と書き上げたこのクラスの細田鏡子ちゃん(7歳)は、他の児童らよりも早く校庭に出ていたが、まもなく遊び時間になり、友達に「お便所に行ってくるわ」とトイレに行った。
3時間目の理科の授業が始まったが、鏡子ちゃんはいつまでたっても教室に帰ってこない。当初、担任の女性教師(当時40歳)はさほど気に留めていなかった。鏡子ちゃんの家は学校のすぐ前にあったので、「忘れ物でも家に取りに行ったのだろう」と思っていた。だが2時間が経ち、あまりに遅いことから教職員と級友らが校内を探す。偶然学校の前を通りかかった母親も騒ぎを知り、捜索に加わっていた。
するとまもなく正面ホールの横にあるトイレ内で、閉まりきっている個室があり、すりガラスごしに鏡子ちゃんが着ていたカーディガンの色が映っていた。いくら呼びかけても返事はない。鍵も内側からかけられていた。なんとか鍵を壊してドアは開いたが、母親らが見たのは鏡子ちゃんが強姦されたうえ首を絞められ殺されている姿だった。
その後の捜査で、掘り起こした便所の土管からイニシャル入りのがハンカチを発見。また、小学校の近くに住む男性から情報があった。なんでも友人の坂巻脩吉(当時20歳)という男が事件のあった日に家に訪ねてきたらしいのだが、たまたま不在だったため帰っていった。坂巻は別の友人宅を訪れたが、様子がおかしく、手洗いでしきりに手を洗っていたという。
坂巻修吉について
坂巻は比較的裕福な家で生まれ育った。父親は青果問屋を経営しており、一見幸せな家庭に見えた。ところが派手好きな母親は愛人をつくるなど、両親の争いが絶えずあった。こうしたことから坂巻は母親を激しく憎むようになる。
中学に進んでからは学童疎開し、敗戦の後に帰ってきた頃にはすでに勉強に対する意欲を失っていた。次第に不良たちのグループに顔を出すようになる。こうした息子を心配した父親は栃木県の中学校に転校させたりしたが、この下宿先にも愛人を連れた母親がやって来るようになり、彼の憎しみはますます増幅していった。荒れた坂巻はこの地で障害、暴行事件を起こして、保護観察処分を受けている。
この後、両親はついに離婚。父親は後妻をもらったが、坂巻は新しい母親になじもうとはしなかった。好奇心からヒロポンにも手を出し、やめられなくなっていた。
事件当時、坂巻は入所していた静岡県の結核療養所を抜け出して、東京に戻っていた。この日、坂巻は友人のところに金の無心に行ったが、不在だったためぶらぶらしていたところ、元町小学校の前を通り、尿意をもよおしたため学校のトイレを使った。この辺りは以前に住んでいたことがあり、よく利用していたためトイレの位置も知っていた。
用を足した坂巻がなにげなく横を見てみると、反対側の便所に戸を少し開けてお尻を出している鏡子ちゃんが見えた。これに欲情し、近づいていたずらしたところ、鏡子ちゃんは泣き出した。坂巻は剥ぎ取った下着を鏡子ちゃんの口に詰め、首を絞めた。
学校の対応
小学校で授業中、児童が殺された。しかも、犯人はトイレを使いに来た外来者だった。このことは衝撃を与えた。当時、学校のトイレが公衆便所の代用になっているところもあり、部外者がいきなり現れることがよくあった。
5月6日、東京都教育庁は都内の小・中・高の校長宛てに「新管理方針」を通達する旨を公表した。
・学校長は男女のトイレは別にすること
・トイレに入った時は必ず戸をしめるように学童に注意する。
・来賓と学童のトイレは別にすること。
・授業のない教職員は小使とともに校内を巡視すること。
・外来者の出入りは必ず教職員、小使が見られる通路を通るようにすること。
・学校の垣根や柵を厳重にし、無闇に外来者が出入りできないようにすること。
判決とその後
1955年4月15日、東京地裁で死刑判決。裁判所から戻ってきた坂巻は「先生、俺死刑になっちゃったよ」と他人事のように刑務官に話した。
1956年10月25日、最高裁、上告棄却。公判が始まってわずか1年半の死刑確定だった。
1957年6月22日、宮城刑務所で死刑執行。坂巻、享年22。