日本で無罪の男性、再びLAで身柄拘束され自殺

1981年、アメリカ・ロサンゼルスで三浦和義の妻が殴打され負傷、同年に銃撃を受け、意識が戻らないまま翌年に死亡した。
2003年、三浦は日本で行われた裁判で無罪が確定したが、2008年、米国領土内において共謀罪でアメリカ警察当局に逮捕される。
ロサンゼルスに移送後、市警の留置施設にて、シャツで首を吊り自殺した。
犯行の経緯や動機
1981年8月31日、輸入雑貨商を経営する三浦和義は妻とロサンゼルスへ旅行中、宿泊していた部屋で一人になった妻が、上がり込んできたアジア系の女性に頭部を鈍器で殴打され、軽症を負う。
同年11月18日、ロサンゼルスに滞在中の三浦夫妻は、市内の駐車場で2人組の男に銃撃を受け、三浦は足を撃たれ負傷、妻は頭を撃たれ意識不明の重体になる。三浦は犯人がグリーンの車に乗っていたラテン系の2人組で、1人は長髪を束ねたサングラスの男であると主張する。
1982年1月、三浦は米軍の協力で妻を日本の病院に移送。神奈川県の東海大病院に入院したが、意識が戻らず11月30日に死亡。三浦は保険会社から1億5500万円の保険金を受け取った。
「疑惑の弾丸」報道
1984年、『週刊文春』が「疑惑の銃弾」のタイトルで、三浦が保険金目当てに仕組んだ事件だとする連載記事を掲載した。
この影響で日本のメディアは「三浦犯人説」を強調して報道するようになる。三浦の自宅前には連日、記者が押しかけた。
1985年、産経新聞に三浦の愛人が、三浦の妻の傷害事件の犯行を告白。
同年9月11日、警視庁は三浦を、妻が殴打された事件の殺人未遂容疑で逮捕。12日、三浦の愛人も同容疑で逮捕される。
判決とその後
三浦は13年間を拘置所で過ごし、1998年に釈放。三浦には懲役6年、愛人には懲役2年6ヶ月が確定した。
1988年10月20日、三浦夫妻銃撃事件で殺人共謀犯として三浦とともに実行犯とされたロサンゼルス在住の駐車場経営者Cが銃刀法違反で別件で逮捕、その後殺人容疑で再逮捕された。
銃撃事件の裁判では、Cは殺人罪について証拠不十分で無罪となり、銃刀法違反等では懲役1年6ヶ月の有罪となった。
三浦には、動機や状況証拠から、氏名不詳者と殺人の共謀をしたとして無期懲役の判決が下り控訴。
実行犯が特定できていないことから証拠不十分で逆転無罪となる。
検察側は最高裁に上告するが棄却され、無罪が確定した。
2008年2月22日、三浦は米国自治領のサイパン島において、ロサンゼルス市警に殺人容疑で逮捕された。
三浦側は日本での無罪判決を根拠に、米国捜査当局の身柄拘束を不当なものとして、ロサンゼルスへの身柄移送の中止と身柄の解放を訴え法廷で争った。
9月26日、裁判所は殺人罪については日本で判決が確定したため無効とした上で、殺人の共謀罪については日本で裁かれていないため有効とした。
三浦はロサンゼルスへの身柄移送に同意し、10月10日に身柄移送された。
同日、ロサンゼルス市警内の留置所で三浦が首を吊っているのを発見され、病院に搬送されるが死亡が確認された。
警察は自殺と発表したが、弁護側は他殺と主張した。