事件・事故

朝倉泉事件

学者一家、自称エリートの朝倉泉という16歳の少年が祖母を殺して自殺した事件

1979年1月14日正午頃、東京・世田谷区砧の自宅で、私立早稲田大学高等学院1年の朝倉泉(16歳)が祖母(67歳)を殺害。自身も2kmほど離れた14階建てのビルから飛び降りて自殺した。

朝倉一家が学者一家であったことや、自身を「エリート」とし、「劣等生」「大衆」を見下す内容の遺書が衝撃的だった。

事件の経緯と動機

1979年1月14日正午頃、東京・世田谷区砧の自宅で、フランス文学者の祖父が隣りの部屋から悲鳴を聞いて行ってみると、妻(67歳)が血だらけで倒れていた。すぐに病院に運んだが、半日後に出血多量で死亡している。金槌で殴打され、キリで刺され、ナイフで何度も切りつけられるというひどい有り様だった。

殺害された女性の孫にあたる早稲田高等学院1年・朝倉泉(16歳)も午後12時過ぎに、自宅から2kmほど離れた小田急線経堂駅北口ビルの14階から飛び降りて自殺。泉の部屋には大学ノートに書かれた大量の遺書があり、泉が祖母を殺害し、飛び降り自殺したものとわかった。

朝倉一家について

泉はお茶の水大学教授の父(事件当時48歳)、津田塾大卒の脚本家の母(事件当時42歳)の間に生まれた。兄弟は5歳下の妹(事件当時11歳)がいる。さらに母方の祖父母と同居という三世帯家族だった。

祖父は東大卒のフランス文学者。NHKのフランス語講座の講師を長年務めるという有名教授だった。元々、父親は東大時代に祖父の教え子であったが、この頃に母親と出会い、結婚を求めるが、母親はこれを断った。

すると父親は自殺未遂騒ぎを起こして、母親は仕方なく一緒になっている。結婚後は父親は義父の家の敷地内で暮らし始めるが、婿養子になったというわけではない。

1962年7月19日、泉、誕生。女の子2人をもうけた祖母にとっては、初孫というより、初めての男の子だったので、大変かわいがるようになった。何かにつけて、泉に構うようになる。母親の仕事が軌道に乗り始めたことや、妹が生まれたこともあって、それは「べったり」という表現がぴったりはまるほどになった。

反対に祖父と父は書斎にこもっていることが多いため、泉と話しこむといったようなことは少なかったのではないかという。泉も祖父などには尊敬と畏れのようなものがあって、あまり近づくことがなかった。

こうした家族に対して、泉は「母が死んだ時しか泣かない」と母親だけに対して、特別な親しみを持っていた。

ごぼうちゃん

母親は36歳でシナリオの勉強を始め、脚本家に。「太陽にほえろ」「ガラスの仮面」「オヨネコぶーにゃん」「魔法使いサリー」などのシナリオに関わる。また50歳で日本語教師となり、アメリカに単身渡り、後日滞在記も出版している。

泉が小学校高学年の時、家を改築。それまで別棟に住んでいた祖父母と一緒に暮らすようになった。祖母と泉の部屋はつながっており、母親は「年頃の男の子なので」と2人を離すことも考えていた。

77年10月、両親が離婚。父親が家を出ていった。

79年1月、事件発生。

80年10月、母親は死んだ息子に宛てた書簡集「還らぬ息子 泉へ」を発表。


朝倉泉少年について

1962年誕生。母親の後をついてまわる、静かな子どもだった。

1967年、妹誕生。母親は妹に付ききりとなり、泉は祖母に面倒を見られる。

小学校6年の時、「塾に行ってないの僕と、××君だけだよ」と自分から塾通いをせがみ、1年間通った。学校ではできる方だったが、最初の塾の算数テストでは5点しかとれずショックを受けたが、その後は勉強を頑張り成績はめきめき伸びた。

私立桐朋中学受験に失敗、区立中学校へ。中学1年時はよく勉強し、通知表では体育以外は「5」が並んだ。そして、家ではおとなしい子どもだったが、学校では明るい人気者という、逆内弁慶タイプだった。

中学2年の2学期あたりから勉強をしなくなり、成績が極端に落ちる。授業中の態度も悪くなった。また小説を読んだり、簡易な小説を書いたりすることも多くなった。

中学3年時、修学旅行を休む。休んだのは病気の生徒1人と泉だけだった。泉はある教師の名を挙げて、「○○死んでしまえ」といったようなことを壁に書いていたので、母親は渋々休むことを了承した。

77年3月、中3になる直前から進学塾に通い始めている。泉は上級コースに合格した。

この塾は進学を全面的にバックアップする「熱心」な塾で、塾の点数表に「○○点以上は不合格。○○点以下は根本からやり直せ!点数が半分しか取れなかった者は日本人をやめろ」というようなことが印刷されていた。また、講師は生徒を叱るような時に「お前は東北の百姓か」といった言い方をした。行き過ぎた指導に母親は「熱心」ではなく「熱狂」を感じていた。

一方の泉はこの塾に影響を受けたのか、「○○学園(塾)バンザイ! ××中学(通っている区立中学)クタバレ」と自室の部屋に書いている。

中3の10月、両親が離婚。父親と別れる。

同じ頃、壮絶な家庭内暴力が元で父親が息子を殺害した開成高校生殺害事件が起こった後、泉は「うっかりするとママに殺される」といったことを漏らすようになったという。また被害者の少年には強く共感を覚えていた。

開成高校生殺害事件 家庭内暴力を苦にし、父親が息子を殺害 1977年10月30日未明、東京都北区に住む飲食店経営のA(当時47歳)が、進学校...

ある日、高校受験間近だというのに、泉は映画雑誌や小説ばかり読んでいた。ある日、母親が泉の部屋に入ると、やはり筒井康隆の本を読んでいたので、「高校受験は失敗すると行くところがないんだから、そんな本を読むのはやめなさい」と注意した。泉は「わかった」と返事をしたが、母親が再び部屋に入るとまだ本を読んでいたので、母親は本を取り上げ、その場で破り捨てた。あんなに母親と親しかった泉が、よそよそしい態度をとるようになったのはその時からだった。

高校受験の前、泉は将来について、「サラリーマンや国家公務員になる」と母親に話していた。脚本の仕事をしている母親が「そんなのつまらない。好きなことを仕事にした方がいいよ」と話しても、泉の考えは変わらなかった。「好きなことをやって貧乏するくらいなら、サラリーマンの方がいい」というのが、泉の考えだった。

泉は結局、都立高校を断念し、私立の慶応、早稲田高等学院高校を受験した。慶応高校は失敗。

78年3月、区立中学卒業。卒業文集に「みんな死んでしまえ。建物は壊れてしまえ」と書く。

4月、早稲田高等学院に入学。

同校は第2外国語の専修科目によってクラス分けされていたのだが、泉は仏語を選んだ。また、同学年の独語クラスにはオウム真理教の上祐史浩がいた。

1学期は猛烈とも言えるほど勉強し、成績も素晴らしいものだった。

5月、河合塾の入塾テストを受ける。「東大で現役合格の可能性あり」という好結果。

78年12月、泉は母親に筒井康隆の新作が掲載されている雑誌を読んでみるようにと勧めた。この「大いなる助走」という作品は、文学賞の選考委員たちの汚いやり方に怒る主人公が、復讐のため猟銃で彼らを次々と殺し、パトカーに激突して死ぬという話だった。

79年正月、泉は祖母に金槌を見せて「これ、学校の工作用に買ったカナヅチなの。やかましいから、おじいちゃんのいないときにやらないと」と話す。

1月14日。日曜日だったこの日の昼、母や妹と食事をとった泉は2階にあがり、部屋にいた祖母の頭部に金槌を振り落とし、キリや果物ナイフでメッタ刺しにした。

遺書

大学ノート40ページにわたって、ぎっしり認められた遺書は6章仕立てなっており、「大衆・劣等生のいやらしさ」「祖母」のことを中心に書いている。

遺書はコピーされ、朝日、毎日、読売といった大手新聞社にも送られていた。

事件当時、新聞・雑誌に発表されたのは、警察が原文から抜粋されたもので、量的には三分の一ぐらいであった。

遺書は、黒のボールペンによって整った字体で書かれており、誤字・脱字もほとんどなかった。部屋からは下書きも発見された。量的には、大学ノートに41あるいは42ページ(400字詰め原稿用紙にすると94枚、文字にすると1万5000字)だった。

第一章 総括 (2枚)
第二章 大衆・劣等生のいやらしさ (46枚)
第三章 祖母 (27枚)
第三章 母 (12枚)
第四章 妹 (2枚)
第五章 最近増え始めた青少年の自殺について(2枚)
第六章 むすび (1枚)
あとがき (2枚)

()内は原稿用紙換算枚数 

私の今度の事件を起した契機をまとめておく。

1 エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大衆・劣等生どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を1人でも減らすため。

2 1の動機を大衆・劣等生に知らせて少しでも不愉快にさせるため。

3 父親に殺されたあの開成高生に対して低能大衆がエリート憎さのあまりおこなったエリート批判に対するエリートからの報復攻撃。

※第1章より

祖母のみにくさは筆筆につくしがたい。そのみにくさは私への異常な愛情から来ている。
つまり私をあまりに愛しているがゆえに私が精神的に独立し、これまでの幼児期のように自分の言うままにならず自分の影響範囲から離れていってしまうのがいやなのである。ここまではただいやらしいだけだが、祖母が私の精神的独立を妨害し、自分の支配下におこうとするための、さまざまな工作は、もういやらしいなどという段階を越えている。私を自分のところにつなぎとめておこうとして祖母が使う小道具のほんの一部をあげてみよう。

①薬
 祖母は私に薬の入った瓶を与え、毎日、私に「薬は飲んだかい」と聞きにくる。そして、もし私が飲んでいないなどと言うと異常なまでに怒る。最近では瓶の中の錠剤の数を数えて、私が薬を飲んでいるかどうか確かめ始めた。(以下略)

②夜食
 夜食を祖母は持ってくる。これも私と祖母とのつながりを自分で確認して満足し、また私にそれを押しつけようとした結果である。さらに、祖母はこの夜食を必要以上に他の家族(母・妹)に秘密にしようとする。(略)二人だけの特別な世界を作り上げて、二人のつながりの深さを自分で確認して満足し、私にもそれを認めさせようというのが本音というわけだ。「秘密を共有するくらおまえとアタシとは仲がイインダヨ」と言いたいのだ。(以下略)

③夜のふとんかけ
 夜、私の寝室にしのび込み眠っている私にわざと、起すような大声でこう言いながらふとんをなおす。
「こら、泉ったら駄目だねえ。ふとんをぬいで」また次の日にこう言う。「きのうまたふとんをはいでたよ。早く大人になってそれぐらい一人でできるようにならなきゃ駄目じゃないか」つまり私にこういった言葉を言ってみせることによって「おまえはまだ子供なんだよ、ふとん一つかけられない。だからアタシが世話をしてやらなきゃダメなのさ」と私にほのめかしてみて、また自分でも私がまだ子供で、自分の影響下から離れられないのだと、自分自信に思いこませて安心しようとしているのだ。(以下略)

④部屋のあらさがし
 私が学校に行っている間に私の部屋の中をいろいろと探しまわり、人に見られてはまずいようなノートを見つけ出しその内容をじっくりと読む。(以下略)

⑤私が怒った時
 (1)わざとうすら笑いを浮べてみせる。これは私が感情を爆発させ真剣になっている時に、自分は余裕のある態度を示すことによって、自分の心の中の脅えを隠すだけでないく、逆に自分が私を相手にしていないというようなムードをただよわそうとしてこういう態度をとるのである。私が何を言っても耳をかさず、おまえみたいな子供は相手にできないというような態度をとる。これによって私の論理的追及を逃れるだけでなく、私を見下すようなムードも作れるのである。
 (2)(1)のあとも私がしつこく論理的追及を続けると。突然態度をひるがえして怒りだす。この変化がいやらしい。(略)祖母が怒るとどうなるか
 ①「おばあちゃまはあなたのためを思って~」などと言う。(略)
 ②「じゃあ、おじいちゃまのところへ行こう」最後には必ずこれがとびでる。祖父は一家の長老格で、私が恐れているということ知った上で、これを言うのである。全然「じゃあ」ではない。突然、全く関係のない祖父を持ち出すのだ。(以下略)
 ⑥「さむい」「あつい」
 祖母は必ず毎晩、私の部屋へ来て夏なら、「明日は暑いから薄着にしなさい」冬なら「明日は寒いから厚着なさい」と言う。(以下略)
 ⑦私の読書に対しての祖母の反応
 私をことさらに子供として扱い、まだ半人前だと思い込みたい祖母は私の愛読書までもけなすのである。祖母は私が、読書に祖母が入れない独自の世界を持っているのが気にくわないのである。そこで私の愛読書をむきになってけなす。むきになったかと思うと今度は急に、その本を軽んじた馬鹿にしたような態度をとったりする。なんとかして私の本を否定しようという心理がみえみえである。(以下略)
 ⑧性
 思春期になれば第二次性徴が起こるという事を祖母は当然知っている。祖母はこれが気に入らないのである。子供だ、子供だと思い込もうとしているのに、私が少なくとも体は一人前の男性になっていく。自分の手の届かない男性の世界へはいってしまう。祖母はこう考えて不安に身をよじる。こういう祖母が一体どういう行動に出るかというとこれはもはや狂気である。祖母は私の性の世界までも一緒について来ようとする。風呂場をのぞきにくるのだ!(以下略)
 ⑨私の暴力的発作に対する反応
 暴力的発作とは私が本を破ることである。なぜこんなことをするかというとさっき書いたような祖母の、本に対する憎悪のあまりの激しさ、みにくさに絶望し、やけになって本を破るのである。自分の大切な本をやぶるのは実につらく、悲しいことだ。だが、それを私にさせるほど祖母のいやらしさはすさまじかった。最初のうちは隠れて本を破いていのだが、そのうち祖母の目の前で破くようになった。この時の祖母の反応が実にいやらしい。全く私のこの行動を相手にしないで無視するのである。(以下略)
 ⑩昼食代
 私は昼食を高校の食堂でとる。私は一日五○○円の割合で昼食代をうけとっている。これもはじめは母からもらっていたのだが祖母がその役目を横取りしてしまったのである。祖母は私に金を払うという行為によって自分の優位を確認しようというのだ。昼食代は十日に五千円ずつもらうのだが祖母は支払いの日が来ても金を渡してくれない。一日は遅らせる。わざとである。夜食の場合と同じで私に「おあずけ」状態を味あわせ、自分の優位を誇示して満足したいのである。(以下略)
 ⑪その他
 (中略)祖母は私の一生を束縛しようとするに違いない。すでに早稲田大学の、どの学部に私が進学するかも祖母によってきめかけられている。私が就職する会社も祖母によって決められる。幼い頃から祖母に従わせられている私は祖母に反対できないのである。祖母のあまりのみにくさに圧倒され絶望してしまうのである。だがここまではともかくとしても私が結婚する時まであの祖母がハイエナのようにしつこく生き残ってたとしたらどうであろう。私に対して異常な変態的愛情を持っている祖母は私の妻をことあるごとに迫害しいじめぬくにちがいない。私にはそれがたまらない。未来の妻が可哀想で今から涙がでるほどである。(以下略)

※第3章より

この受験地獄、学歴地獄はまだまだ続く。永遠に続く。馬鹿の大衆め。おまえらはこれから受験地獄にさんざん苦しめられるのだ。ざまあみろ。エリートをねたんだ罰だ。さあ苦しめ!エリートを迫害した罪だ。さあ苦しめ!

※第6章より

また、遺書の他に「遺書を読んでから聞いて欲しい」という録音テープも残されていた。

まず、私がこの殺人の決意をしたというか、計画を立てたのは昨年の夏休みであります。
どういう計画かといいますと、私は早稲田大学の高等学院に在学しているわけで、希望する早稲田の学部に入れるのです。ですから、早稲田の理工学部に入って、物理や科学を一生懸命勉強して、爆薬の造り方を覚えて、それで大量殺人を行おうと思ったわけです。

※録音テープより

なお全文は、以下の書籍で確認することができる。



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