わずか「40秒」での失踪。瓜二つの青年が発見され話題に
1989年3月7日、徳島県貞光町の親戚宅にやって来ていた松岡伸矢くん(当時4歳)が親の目の離した40秒の間に忽然と姿を消した。目撃証言は全国各地から寄せられたが、未だに伸矢くんは見つかっていない。
事件の経緯
松岡伸矢くんの一家は茨城県牛久市に住んでいた。家族構成は父・正伸さんと妻・圭子さん、子供が長女、伸矢くん、次男(当時2歳)の5人暮らし。正伸さんはソフトウェア技術者として国産の電算機関関連会社に勤めていたが、牛久で家を買い、1989年はじめには外資系のコンピュータ会社に転職した。それまでは深夜残業・休日出勤ばかりで子供達と遊ぶ時間がままならなかったため、子供たちとの時間を作るためだった。
この年の3月5日、圭子さんの実母が急逝し、6日に一家は徳島県小松島市で営まれた葬儀に参列した。そのあと一家は車で1時間ほど離れた貞光町の圭子さんの親戚宅を訪れ、この日はここに泊まった。
翌7日午前8時頃、正伸さんは3人の兄弟と従兄弟の子供を連れて近所に散歩に出かけた。このあたりは標高200mほどの山間部の林道の終点近くにあり、公道から山の斜面に私道が延びて、その斜面に親戚宅は建てられていた。まわりに家はない。
40秒
正伸さんは朝食前だったので10分ほどで散歩を切り上げている。子供達ははしゃぎながら、正伸さんについてきていた。家の玄関までの10メートルほどの石段を登った玄関先まで伸矢くんがついてきていたことを正伸さんは記憶している。伸矢くんはこの時、もっと散歩したそうだったため、正伸さんは抱いていた次男を家の中にいた圭子さんに手渡し、玄関先に戻ってみると、伸矢くんの姿はなかった。この間、40秒ほどである。
伸矢くんの姿がみえないことに気づいた正伸さんは、すぐに周辺を捜したが、伸矢くんを見つけることが出来なかった。それから、家族・親類が近所を捜し回り、地元の消防団もこれに加わったが見つけることが出来ず、午前10時に警察に通報した。
当初は山で迷子になっているのではないかと思われ、この日のうちに山間部で大捜索が行われた。貞光署からは全署員30名の半数が駆けつけ、県警機動隊、消防署員、地元消防団員に一般市民を加えた100人近くの人を動員、翌8日には200人を動員、その後3ヶ月捜索を続けたが、ついに伸矢くんを見つけることはできなかった。
ちなみに伸矢 くんは4歳とは思えないくらい、しっかりしていた。自宅の住所も電話番号も年齢も家族の名前もみんな言えた。
現場は町道の終点付近で外部からの出入りはほとんどなく、失踪時は、100m離れた畑で農作業をしていた人は車を見かけなかった。松岡さん一家が親戚宅に到着したことや、伸矢くんがいたことは外部に知られておらず、周辺に交通事故の痕跡はなかった。
貞光署ではそれでも以上の理由から「事件にまきこまれたケースは考えにくい」と徹底した周辺捜索を行った。
「ナカハラマリコの母親」
その後、伸矢くんが失踪し、捜索が行われると同時に、誘拐の線も含めて、親戚宅の電話にテープレコーダーをとりつけた。正伸さん一家が牛久市に帰る前日の16日、一本の奇妙な電話がかかってきた。正伸さんが電話を取ると、「奥さんはいますか」という。語尾のあがる徳島弁独特のアクセントの女性の声がした。
圭子さんが電話を替わると、その女性は「ナカハラマリコの母親」だと名乗り、「成蹊幼稚園の月組の父兄です。幼稚園で見舞金を集めたのですが、どちらに送れば良いのでしょうか。もう帰ってくるんですか?」と尋ねた。成蹊幼稚園とは伸矢くんの姉が通っていた幼稚園だった。圭子さんは明日帰るという旨を伝えたが、その後ナカハラマリコの母親から連絡はなかった。
見舞金について、こちらから尋ねることもできず、しばらく黙っていたが、数日たって幼稚園に問い合わせてみたところ、見舞金を集めたという事実はなく、ナカハラマリコという名前の子供もいないことが判明した。
後から考えると、正伸さんから電話を替わる時に「誰かわからないけど、徳島弁だよ」と言っており、茨城県にいて松岡さんの親戚宅の電話番号を知っているのも不自然である。また徳島県にいて伸矢くんの幼稚園の名前まで知っているのはおかしかった。松岡さん一家の事情に内通している者の電話だと言えるが、これが手がかりとなることはなかった。
行方不明のその後
捜索の時間を少しでも持てるようにするため、正伸さんは会社勤めを辞め、自営業に切り替えた。50回を超えるテレビ出演で情報提供を求め、自宅の電話番号も公表した。目撃証言は多くよせられ、信憑性の高いものもあった。それらは全国津々浦々で目撃されていた。目撃証言がどれだけ寄せられようと、伸矢くんが見つかることはなかった。
寄せられた目撃証言
「市内で伸矢くんを見た。まず間違いない」
この連絡は正伸さんの家に直接入り、すぐにその人物と会って、その後、徳島県警本部に証言に出ていた子供の人物特定を依頼した。しかし、そのあと本部から連絡はなく、正伸さんが電話を入れると、担当の警部は「私の父が亡くなり、ばたばたしていましたので・・・」と言った。その後、手がかりなし。
「山形米沢市にあるデパートの前で、テレビで見た伸矢くんとそっくりの男の子をみた」この証言を聞き、正伸さんは米沢市に向かい、デパート周辺でビラ配りをしたところ、「この子なら上杉公園で見た」という情報を得ることができた。この証言の主婦によると、公園内の売店にいたということだが、その先はわからなかった。
「四国霊場88ヶ所の第21番目の「太竜寺」で白装束に身を包んだ5~6歳の少年を連れた親子連れを目撃した。子供に付き添っていた男女は普通の身なりで、子供の両親にしては年が離れすぎていた」 圭子さんがこの証言を聞いて、87、8番目の寺でその3人の姿を待ちつづけたが、とうとう現れなかった。
「伸矢くんと名乗る子供を内地(本州)からもらってきたという人を知っている」これも決め手にはならなかった。
「横浜の地下鉄で見た」
この証言によれば、帰宅途中のOLが、電車の横に坐った少年が「鳥肌のたつほど、正伸さんに似ていた」と言い、少年については「苦労しているようで、身なりも良くなく、手首に巻いてある包帯から傷が見えたので気になった」という。心配になったOLは少年に声をかけ「おじさんにいじめられる」という話を聞いている。OLは「困ったことがあったら、お姉さんに電話して」と電話番号を渡し、その後1度だけ電話があったが、手がかりにはならなかった。
「手首に傷のある男の子で、現在の伸矢くんの想像写真にそっくりの少年が、『タイタニック』のポスターを買っていった。少年は店の出入り口付近で、まるで監視しているかのように立っているヤクザ風の男に『タイタニック』のポストカードを見せ、”これでいいの?”といった感じで確認した後、レジに来た」
応対した店員はすぐに店長に報告、店長は表通りに2人の姿を捜しに走って行ったが、すでにその姿はなく、警察に通報したという。その後の手がかりはなし。
「伸矢くん失踪の翌月、徳島県の日和佐の海岸で伸矢くんらしき男の子を見た。30代後半の男が子供を抱いているのだが、親子にしては不自然な感じを受けた。親なら子供に何かしら話しかけたりするものだが、まったく言葉をかけたりしなかった。男の子の顔も伸矢くんによく似ていた」
目撃者は徳島育ちで、伸矢くんが行方不明になっていたことを当時から知っていたので、男の子の顔を覗き込んで確認しようとすると、男は子供を隠すように姿勢を変え、その場から白い乗用車に乗って立ち去ったと言う。
和田竜人さんの発見
2018年1月31日、見知らぬおじさんに17年間も軟禁されていた和田竜人さん(仮名 / 自称25歳)が、1989年3月7日に徳島県貞光町の親戚の家から忽然と消えた松岡伸矢くん(当時4歳)にそっくりであることが判明。和田竜人さんが記憶喪失ということもあり、すぐさま警察がDNA検査をすると報じられた。
警察は突如「DNA検査を見送る」として、検査が中止となったことが徳島新聞により報じられた。DNA検査により、和田竜人さんの軟禁事件と、松岡伸矢くんの行方不明事件の双方が一度に解決すると思われていたため、世間の人たちが激怒。警察に対して強いバッシングが発生していた。
DNA検査中止という報道が広まり、和田竜人さんと松岡伸矢くんの双方の情報提供をしていた元歯科助手もTwitterで不快感をあらわにしていた。
同一人物ではないかと噂されたが、結局DNAは一致せず、伸矢くんの生存は未だわからない。