事件・事故

名古屋アベック殺人事件

アベック(カップル)を襲って金品を強奪・暴行・強姦・殺害した少年グループ。

名古屋アベック殺人事件とは、1988年(昭和63年)2月23日から25日にかけ愛知県名古屋市緑区の大高緑地において発生した殺人・集団強姦事件。被害者2人が襲撃された場所の名前から「大高緑地(おおだかりょくち)公園アベック殺人事件」とも呼ばれる。

2人の命をもてあそび、長時間に渡る暴行の挙句、犯罪の発覚を恐れて殺害するという少年グループの犯行の残虐さが日本社会に衝撃を与え、少年への死刑適用問題や、ドロップアウトした少年たちの無軌道・非人間的な通り魔的「狂宴的犯罪」として、本事件や同年に発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件など、凶悪な少年犯罪が多発したことが大きな社会問題となった。

一部マスメディアが犯行当時20歳未満の未成年者である加害者少年らの実名報道に踏み切り、少年法の見直しをはじめとした少年犯罪への対応のあり方がクローズアップされるきっかけとなった。

事件の詳細

加害者(少年Aとその他少年少女5名)

この事件の加害者として逮捕・起訴され、刑事裁判で有罪判決が確定したのは以下の計6名(うち5名が犯行当時未成年者)である。

殺害実行犯・主犯格の少年A

犯行当時19歳、名古屋市港区在住のとび職。『新潮45』(新潮社)2003年10月号記事中では「石田滋」、2016年9月号では「中川政和」と仮名表記されている。1968年(昭和43年)8月20日に長野県東筑摩郡山形村で次男として生まれ、1975年(昭和50年)4月に名古屋市中川区内の小学校に入学、同校を卒業した1981年(昭和56年)4月に同区内の中学校に入学したが、中学校在学中の1983年(昭和58年)4月27日、同区内で原動機付自転車1台を盗んだ窃盗の非行で補導され、同年9月13日付で名古屋家庭裁判所にて少年審判不開始となった。さらに同年12月13日・14日にも同区内で原付3台を盗む窃盗事件を起こし、中学卒業後の1984年(昭和59年)3月26日、名古屋家裁で不処分となった。1984年4月、名古屋市北区内の職業訓練校に入校した。その約2か月後、同校で発生した不審火事件で、同級生に嫌疑が掛けられたことで同校教師と話し合うが、その態度が気に食わないとして憤慨し、暴行をふるったために退学した。その後は中川区内のうどん店で約1か月勤務し、同年9月頃には隣人の紹介で、三重県上野市内の個人経営の内装業者に就職したが、夜遊びが過ぎて体調を崩し、雇い主がAの健康管理に自信を失った上に、A自身もこの会社の給料が安いことなどから仕事に嫌気が差したため、1986年(昭和61年)9月に退職し、その後は港区内の居酒屋の手伝いをしていた。1986年11月、自身に加え、その弟・弟の友人が交通事故を起こし、その際に友人が広域暴力団山口組系暴力団弘道会内「薗田組」の名前を出したため、弟が薗田組事務所に連行され、弟を連れ戻そうと事務所に赴いたところ、同組組員から度胸を買われたことに加え、弟を解放する条件として組に入るよう求められたことからこれに応じ、薗田組組員になった。同年12月23日深夜、愛知県津島市内の食料品店に侵入し、窃盗未遂事件を起こして検挙され、翌1987年(昭和62年)1月13日付で、名古屋家裁から保護観察処分に処された。しかし、この保護観察期間中の同年2月12日には津島市内で現金などを盗む窃盗事件を起こし、同年3月20日には名古屋家裁から試験観察に付され、同県刈谷市内の運輸会社に補導委託され、この会社の寮に住み込みで勤務することとなった。家裁の処分決定後も同社に継続勤務することが決まり、同年7月20日には家裁より別件保護中の理由により不処分となったが、翌21日には会社寮を無断で退出し、会社も退職扱いとなった。やがてAは「暴力団に戻れば気楽に生活できる」と考え、中川区内の薗田組組員の集まる居宅に赴き、この家に居住するようになり、その際に組の後輩であるB・Cと知り合い、Cと交際していた共犯者のE子とも知り合い、E子を情婦としていた。

同じく殺害実行犯・準主犯格の少年B

犯行当時17歳、名古屋市中川区在住のとび職。『新潮45』2003年10月号記事中では「西山照久」と仮名表記されている。1971年(昭和46年)2月5日に名古屋市熱田区で長男として生まれ、1977年(昭和52年)4月に中川区内の小学校に入学した。しかし、当時父親の仕事が不振で、一家が経済的に困窮しており、学校に給食費を支払うことができなかったなどの理由で、クラスメイトからいじめに遭っていた。家庭内では父親から「売られた喧嘩は買え。喧嘩をするなら負けるな」と言われ、多少の問題行動については放任する傾向の中で育てられ、小学校3年生の時にクラスメイトに暴力をふるい、1981年(昭和56年)4月には中川区内の別の小学校に転校したが、そこでもクラスメイトに暴力をふるう傾向が見られた。1983年4月に中川区内の中学校に入学したが、1984年6月頃には病欠のため、授業についていけなくなり、女子生徒に交際を申し込むも断られたことで精神的に落ち込み、勉学に対する意欲を失っていった。そのことから、やがて不良生徒と交友してシンナーを吸引するようになり、同年8月16日に同級生と原付バイクを窃盗して警察署で注意された。同年10月3日には同区内でトラックの荷台からシンナー入り一斗缶を盗み、11月10日には海部郡弥富町内で空き巣未遂事件を起こして児童相談所に通告され、さらには翌1985年(昭和60年)2月2日・8日にも菓子などを盗み、児童福祉司による指導措置を受けたが、1986年初旬からは、同級の女子生徒と交際を開始したことから、生活態度が落ち着き、同年3月14日に中学校を卒業、翌15日に指導措置も解除された。同年4月、中川区内の鉄工所に就職したが、他の従業員との交流が乏しいとの理由で、同年8月に退職し、約1か月後に港区内の建設会社に土木作業員として勤務した。この頃、中学卒業直前から交際中の少女との結婚を真剣に考えるようになっていたが、同年10月に少女が高等学校を中退すると、少女に暴力をふるったことから仲に亀裂が生じ、1987年7月頃には交際を解消した。これにより、生活意欲を失い、再びシンナーを吸引するなどの非行に走っていた同年8月頃、中学校時代の友人から「やくざになれば女はすぐできるし、金も手に入る」と誘いを受け、薗田組の構成員になり、中川区内の組員が集まる住宅に寝泊まりするようになったところ、A・C・E子の3人と知り合った。

(唯一犯行当時成人の)男C

犯行当時20歳、名古屋市中村区本陣通在住の弘道会薗田組組員。『中日新聞』記事中及び『新潮45』2003年10月号では実名表記されている。1968年1月27日に鹿児島県薩摩郡東郷町(現・薩摩川内市)で長男として生まれたが、翌1969年(昭和44年)に両親が離婚したため、愛知県一宮市在住の父方の祖母宅に預けられた。祖母の養育下で、1974年(昭和49年)4月に一宮市内の小学校に入学したが、小学校3年生のころから不登校になり、店舗から玩具を窃取する窃盗事件を起こした。これに加え、祖母が高齢なことから養育が困難になったこともあり、1977年(昭和52年)11月22日から、同県半田市内の情緒障害児短期治療施設「ならわ学園」に収容され、同施設内の小学校に転校した。同校卒業後の1980年(昭和55年)3月24日からは一宮市内の児童養護施設「仲好寮」に収容され、同年4月に同市内の中学校に入学、1983年3月に同校を卒業、同月15日に同県蒲郡市内の製鋼会社に採用され、同社での勤務を開始した。1984年8月に母親がCの姉を伴ってCを訪ね、以来数回にわたって母親と面会した結果、同年12月30日付で同社を退職し、名古屋市北区内で母親・姉と同居を始めた。間もなく母親が再婚したため、再婚相手である義父とも同居を開始し、義父が勤務する同区内の電気会社に勤務するようになったが、母親が毎晩のように飲酒しては、元夫(Cの実父)のことでCに当たり散らす上、義父とも折り合いが悪かったため、翌1985年7月に母親の家を出て、神奈川県川崎市武蔵小杉所在の新聞店に住み込み、新聞配達・集金の仕事をするようになった。1986年4月に新聞店を退職して名古屋市に戻り、自動車運転免許を取得し、同年9月頃からは布団販売会社に就職して出張販売に携わるようになったが、この会社がいわゆる「催眠商法」だったことから嫌気が差すようになった。そのため、同年10月26日に出張先の栃木県足利市で仕事から逃げ出したが、たちまち所持金に困り、通行中の女性から現金2000円入りのハンドバッグをひったくり、検挙され、同年12月1日に名古屋家裁で試験観察に付された。名古屋市守山区内の財団法人「立正園」に収容され、同園から同区内の土木会社に出社して道路舗装工事に従事し、さらに同園園長の紹介で、同区内の運輸会社に就職し、1987年5月7日に同社社員寮に入寮し、同月19日付で名古屋家裁から保護観察処分に付された。しかし、その約10日後に配達先でたまたま義父と出会い、喧嘩になったことで会社を解雇され、社員寮を飛び出して付近を徘徊していたところ、その間に義父が社員寮に残されたCの荷物を無断で質屋に入れてしまい、母・義父の態度に失望した。それ以降、名古屋市中区内のセントラルパーク付近で不良少年集団と交際し、シンナーを吸引するなどしていた。そしてこの頃にDと知り合い、さらに同年7月頃、知人の紹介で薗田組の組員になり、中川区内の組構成員の集合する居宅に住むようになり、既に構成員になっていたAと知り合った。また、E子が組員らの出入りするスナックバーでホステスの仕事をしていたことから、E子とも知り合い、同年10月頃まで交際した。さらに同年8月頃、新たに組構成員になったBとも知り合い、1988年1月5日頃からは弘道会会長の用心棒となり、中村区本陣通の賃貸マンションに居住するようになった。なお、Aより年上ではあったが、組内部での序列はAの方が上だった。

無職少年D

犯行当時19歳、名古屋市港区在住。『新潮45』2003年10月号記事中では「菅原義夫」と仮名表記されている。1969年(昭和44年)4月26日、名古屋市瑞穂区で長男として生まれた。1975年11月4日に両親が協議離婚し、以降は母親に養育され、翌1976年4月に同市天白区内の小学校に入学した。1981年に同市名東区内の小学校に転校したのを経て、翌1982年(昭和57年)4月に同市内の中学校に入学し、1985年3月に卒業した。この間、父親不在の家庭の中で、長男として家庭の中心にならねばとの意識を持ち続け、家庭内では自分の気持ちを抑えつつ、母親からの期待に沿った行動をとっていた。その結果、母親はDのこの態度に安心し、自ら家計を支えなければならなかったために、Dを監督する余裕がなかったこともあり、放任する傾向だったが、Dは中学校で不良生徒と交遊するようになっていった。1982年6月頃、早朝にバッティングセンターで金品を物色していたところ、警察に検挙されて警察署で注意を受けた。翌1983年9月7日には同区内で、小学生から現金入りの財布を恐喝し、翌1984年1月19日に名古屋家裁で不処分となった。1985年3月下旬より、名古屋市東区内の理容店で働き始めたが、翌1986年頃には店主から「理容師に向いていない」との指摘を受けて退職し、その後は愛知県小牧市内のすし店、同県三好町(現・みよし市)内の炉端焼き店、名古屋市港区内のすし店と、勤務先を転々とし、1987年4月頃からは港区内の自動車学校に通い始めたが、そこで顔見知りになった人物に誘われて、暴走族「栄噴水族」の幹部メンバーになり、夜間にセントラルパークに出向いて不良仲間とシンナーを吸引したり、自動車で暴走するなどするようになった。やがてA・B・C・E子らと知り合い、1988年1月25日頃、前述の人物から山口組系暴力団弘道会内「高山組」幹部組員を紹介され、「暴力団組員になれば住居と食事が確保できる」と考えたことから、この組員の舎弟として雑役に従事するようになり、同年2月18日頃にはこの組員に命じられて同市港区内の「南汐止荘」に入居した。

無職少女E子

犯行当時17歳、名古屋市港区在住。『新潮45』2003年10月号記事中では「井田由紀」と仮名表記されている。1971年1月20日に名古屋市千種区で長女として生まれ、1977年4月に同市守山区内の小学校に入学したが、1981年1月22日に両親が協議離婚し、父親の下に引き取られた。その後は家事手伝いなどをし、1983年4月に同区内の中学校に入学したが、1984年5月頃、父親と交際し妊娠中だった当時17歳の女性と同居を開始し、その後の同年9月7日に父親がこの女性と再婚したが、E子はわずか4,5歳年上の義母に馴染めず、積極的に会話をしなかったことから、義母から「嫌われている」と受け取られ、やがて折り合いが悪くなった。父親は妊娠中の妻を気遣い、同年7月頃にE子を中川区内の父方の伯母宅に預け、これに伴いE子は同年9月に同区内の中学校に転校したが、ここでも伯母と折り合わなかったため、同年12月に同市昭和区内の児童養護施設に入所措置が取られ、同時に同区内の中学校に転校し、1986年3月に同校を卒業した。同年4月、同市南区内の美容室に就職したが、親しかった同僚が退職したことから、同年9月に退職した。この頃、セントラルパークに赴いて不良仲間と交友を開始するとともに、シンナーを吸引するようになり、その後は知人宅を転々として、同年11月頃に中村区内の美容室に就職したが、ここも約1か月で退職した。1987年7月頃から約1カ月間、同市中区内のスナックバーでホステスとして勤務し、この店に客として来店していたCと知り合って交際するようになった。その後、Cについて行って薗田組事務所に出入りするうちに、A・B両名とも知り合った。同年10月頃には薗田組幹部の紹介で、中川区内のスナックに就職したが、勤務状態が悪かったために約2週間後に解雇された。1987年11月頃までにはAの情婦になり、Aの実家で一時期暮らしており、逮捕直後もAとの結婚に拘泥していた。

無職少女F子

犯行当時18歳、愛知県海部郡甚目寺町在住。『新潮45』2003年10月号記事中では「寺前恵美」と仮名表記されている。1986年10月8日に母親と口論になって家出し、その直後にDと知り合い、別の暴力団組員と同棲していた。

事件の経緯

事件で殺害された理容師見習い女性Y子(当時20歳)は、1988年2月22日午後10時頃にいったん勤め先から帰宅し「女友達のところへ行くかもしれない」と家族に言い残し、父親所有の車トヨタ・チェイサーで外出した。しかしY子はその女友達の家には立ち寄っておらず、同じ理容店に勤務する交際相手の理容師男性X(当時19歳)とともに愛知県営大高緑地公園にドライブに出かけた。Xは23日午前零時過ぎ、同室の同僚に「デートしてくる」と話して外出していた。

2月23日午前4時30分頃、県営大高緑地公園の第一駐車場でX・Yの男女2人が乗ったチェイサーを、Aを中心とする男女6人の不良少年グループが襲撃した。6人はAが所有する茶色の日産・グロリアと、Dが暴力団組員から借りたもう一台の茶色いグロリアの計2台で、駐車中のチェイサーを挟み撃ちするように停車した。その直後、車外から木刀で窓ガラスを割るなどして襲ったところ、逃げようとしたチェイサーがいきなりバックし、Dの車に衝突した。

これに6人は逆上し、チェイサーの屋根の上に乗ったり、X・Y子両名を車外に引きずり出して木刀や鉄パイプなどで2人の頭や顔を殴り、現金1万円余りを奪った。Aらは当初金を奪おうと襲ったが、その仕打ちはどんどんエスカレートしていった。Xは気絶するまで全身をめった打ちにされ、Yは素っ裸にされ輪姦および全身にタバコの火を押し付けられたあげく、最後は陰部にシンナーをかけられそこに火を押し付けられるなどした。2人が激しいリンチの末にぐったり倒れ込んでしまい、夜が明け周りが明るくなったため、放置すればすぐ見つかって大ごとになると恐れ、2台のグロリアに連れ込んだ。そのまま、X・Y子の両名をグロリア2台の車内に拉致・監禁した上で名古屋市内などを丸一日走り回りつつ、その途中で「顔も見られている。もう殺してしまえ」と相談した。Aらは暗くなるのを待つために名古屋市内のカーホテルに2人を監禁し、Cのグロリアはチェイサーに衝突された際にかなり損傷したために修理に出した。

24日午前4時30分頃、愛知県愛知郡長久手町(現・長久手市)長湫卯塚の墓苑「卯塚緑地公園」(東名高速道路名古屋インターチェンジ南西約1.5km)にある、弘道会の本家墓前で、AとBが、車外に連れ出したXの首にビニールロープを巻き付けて両側から綱引きの要領で徐々に引っ張るかたちで絞殺した。Xの殺害現場となったこの墓地は弘道会内の組員らが清掃に来ていたほか、元弘道会薗田組組員のAやCも来たことがあった。

Xを殺害したことで一旦ひるんだAらは、Xの遺体をAのグロリアの後部トランクに詰め、Y子を生かしたまま乗せ、名古屋市内の6人組の1人の自宅に戻って一泊した。さらに翌25日にはY子を殺害するため、かつてAが勤めたことがある三重県上野市(現・伊賀市)付近に移動し、午前3時頃には三重県阿山郡大山田村(現・伊賀市)阿波の山林内でA・B両名がY子を同様に絞殺し、2人の遺体を近くに掘った穴に埋めた。2日間も車で連れ回され、X共々木刀で滅多打ちにされた挙句目の前でXを絞殺されたY子は、最後には「もう私を殺して」と訴えたほどやつれ果て、犯人たちはそんなY子をパンティー一枚の姿にするとXにしたのと同様の方法で平然とロープで絞殺し、「アベックだから、面白半分でそんな姿にした」(取り調べでの供述)という理由で、穴の中にXの遺体を仰向けで下に、その上に下着1枚のY子の遺体をうつぶせに乗せ、2人とも両腕で互いの体を抱き合っている姿にして埋めた。Aはかつて遺棄現場に近い上野市に住んでいたことがあり、大山田村の山中に遺棄するよう指示したという。

2人を殺害・遺棄した後、6人は名古屋市内のレストランでいったん別れ、昼には6人のたまり場だった名古屋市港区の市営南汐止荘にあるAの部屋に集結し、逃亡先を相談していたところを午後2時頃、特捜本部の捜査員に見つかり、27日に逮捕されるに至った。

グループらによる他のアベック襲撃事件

X・Y両名が拉致・殺害される直前にも連続して金城ふ頭でアベック襲撃事件が発生していた。これはAら6人がX・Yを拉致する前日の2月22日午後10時ごろ、名古屋市中区栄のセントラルパークで顔を合わせて遊んでいるうち、少年の1人が「小遣い稼ぎに行こう」と提案したために起きたものだった。この時は被害者の怪我も軽く、周囲も暗くて顔もはっきり見られなかったのでそのままセントラルパークに戻ったが「もっと金が欲しい」と、別のアベックのたまり場になっていた大高緑地に向かい、惨劇につながった。 2月23日午前2時30分頃、金城ふ頭82番岸壁に駐車中の、若いアベックが乗車した車が木刀を持った不良少年グループに襲撃され、車の後部ガラスなどを粉々に叩き割られた。この事件では被害者がすぐに車を発進させて逃げた。 約1時間後の3時25分頃、直近の81番岸壁で別のアベックが乗車した車が襲撃された。この事件ではアベックは車のガラスを割られ、グループに「カネを出せ」と脅され、現金8万6000円入りのセカンドバッグや腕時計などを奪われ、木刀などで殴られ、足腰にかなりの打撲傷を負った。名古屋水上署は強盗致傷事件として捜査した。

名古屋水上署によれば、襲撃グループは男6人、女2人の計8人組で、いずれも暴走族風で20歳前後であり、シンナー臭がしたという。グループは白いクラウンと茶色の日産・セドリックの2台に分乗しており、車のナンバープレートはガムテープで隠されていた。

判決とその後

1989年6月28日、名古屋地裁は少年Aに死刑判決を下し、他の仲間にも無期懲役などの刑を言い渡した。
だが後にAが控訴し、更生の可能性は残されているとして、無期懲役に減刑されている。

  1. 少年A 死刑求刑に対し第一審で死刑判決、控訴審で無期懲役判決(確定)。2015年にくも膜下出血で倒れるも大きな後遺症も無く2019年現在も岡山刑務所で服役中。
  2. 少年B 第一審で求刑通り無期懲役判決(控訴せず確定)が言い渡され、刑務所に服役中。
  3. 男C 無期懲役求刑に対し第一審で懲役17年、控訴審で懲役13年判決(確定)が言い渡され、刑務所に服役後、2003年8月までに出所した。
  4. 少年D 懲役15年求刑に対し懲役13年判決(控訴せず確定)が言い渡され、岡山刑務所に服役後、2000年頃に出所した。
  5. 少女E子 第一審で求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)が言い渡され、笠松刑務所に服役後、1996年5月までに出所した。
  6. 少女F子 第一審で求刑通り懲役5年以上10年以下の不定期刑の判決(確定)が言い渡され、刑務所に服役後、1996年4月までに出所した。
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