死体や解剖に興味、殺人欲求を抱いた女が、「イライラして」自転車に乗り女性を襲う
2003年3月30日、名古屋市内の路上で、看護師・菅谷悦子さん(当時22歳)が、自転車に乗った女に刺され死亡。
4月1日にも、店員の女性A子さん(当時23歳)が同じく女に刺されるという事件が発生。
二つの事件の犯人が、どちらも赤い自転車に乗っていたことなど、特徴が酷似していたため、警察が同一犯とみて現場となった北区と千種区を中心にパトロールを強化していた。
8月28日、名古屋市守山区の民家から通報があり、警察官が駆け付けると、近所に住むの無職・伊田和世(当時38歳)が窃盗を働いていたため、現行犯逮捕された。
伊田宅の家宅捜索をしたところ、A子さんのバッグや財布、血痕のついた包丁などが発見されたため、9月17日、A子さんに対する強盗殺人未遂容疑で再逮捕し、さらに10月17日には、菅谷さんに対する強盗殺人容疑で逮捕した。
事件の経緯と動機
2003年3月30日午後7時50分ごろ、名古屋市北区東水切町の路上で、市内の看護師・菅谷悦子さん(当時22歳)が自転車に乗った中年の女にいきなり腹を刺された。女は菅谷さんの友人の手提げバッグを奪って逃走した。
菅谷さんは中村区内のリハビリ病院に勤務しており、「青年海外協力隊に参加して、世界の人々の助けになりたい」と考える、若いながらも立派な女性だった。
菅谷さん自身も自分が刺される理由には全く心当たりはなかったと思われ、救急車で運ばれる際には父親に「どうして私が、みんなの前から消えなくてはならないの・・・」と話していたという。父親が「ごめんな」と声をかけると、菅谷さんはまもなく意識を失った。
菅谷さんが亡くなったのは、一緒にいた友人の入社式の日だった。
続く4月1日、千種区の路上で、店員・A子さん(当時23歳)が刺され、重傷を負った。遠藤さんも中年の女に刺されており、バッグを奪われていた。
通り魔事件は、過去の数々の事件記録を見ても、男による犯行というイメージが強いが、菅谷さんの事件後に作成された犯人の似顔絵は、茶色のヘアバンドをつけて、目のぱっちりとした女だった。
A子さんのケースでは、よく目立つ赤い割烹着に、眼鏡をかけて髪をしばった女であったが、ともに30~50代に見え、また、どちらも赤い自転車に乗っての犯行という事もあり、警察は同一犯とみて、現場となった北区と千種区を中心にパトロールを強化していた。
8月28日、名古屋市守山区の民家から通報があり、警察官が駆け付けると、近所に住むの無職・伊田和世(当時38歳)が窃盗を働いていたため、現行犯逮捕された。
そしてその後、伊田宅の家宅捜索をしたところ、A子さんのバッグや財布、血痕のついた包丁などが発見されたため、9月17日、A子さんに対する強盗殺人未遂容疑で再逮捕し、さらに10月17日には、菅谷さんに対する強盗殺人容疑で逮捕した。
「ヒラヒラさん」こと、伊田和世について
1964年11月5日、伊田は名古屋市中区で生まれた。父親は水道修理業を営み、母親と4歳年上の姉との一家4人。決して裕福とは言えない暮らし振りで、伊田がまだ幼い時に父親は家を出ていた。母親は一家を支えるために働き、家にはほとんどいなかった。
伊田は小中学校ではほとんど学校に行かない不登校生徒だったが、たまに登校しては、奇抜な服装で級友を驚かせたという。
仲の良い一部の友達を除いて、伊田はクラスメートと口をきかなかった。内気なゆえ、というよりは同級生に対する軽蔑や反発からのことだったとみられている。勉強にもまったく無関心で、授業態度などで教師に注意されると、そっぽを向いてしまうこともあった。
その分、伊田はおしゃれに異常な関心を示していた。ただ、伊田のファッションは流行のものというより、独特なものだったという。
中学を卒業した伊田は進学も就職もせずに、17歳頃からスナックやクラブのホステスのアルバイトを始めた。客からは人気があったというが、その後、店を転々とした。23歳頃からはホステスに見きりをつけ、ソープ嬢として働き始めた。その後、25歳のときに毎月17万円の援助をしてくれる男性を見つけると、伊田はソープを辞め、まったくの無職となった。この男性は伊田より20歳以上も年上の自営業者で、月に数回会っていたという。
さらに伊田が幼い頃、家を出て霊媒師に仕事を変えた実父からも毎月30万円の仕送りが送られるようになった。伊田は1ヶ月に47万円もの金を受け取っており、何不自由ない生活を送るようになっていた。
1993年、可愛がっていた飼い犬が亡くなったことにショックを受け、1995年には精神神経科で「抑鬱状態」と診断された。その後、ずっと投薬治療を続けていた。姉は既に結婚しており、守山区の自宅で母親と2人で暮らしていた伊田は、窓ガラスを素手で割るなどして母親を驚かせ、区内の借家で1人暮らしをするようになった。
しかし、近隣住民とのトラブルが絶えなかった。ちなみに、伊田はいつもヒラヒラした奇抜な服装を着ていたので、「ヒラヒラさん」と呼ばれていたという。
当時、離れて暮らす父親に愛人ができており、「愛人のせいで父親に甘えられない」と嫉妬し、2002年8月頃にこの愛人の衣類を燃やす騒ぎを起こした。さらに、実姉ともささいなことから口論が絶えない関係となり、唯一彼女を守ってくれるはずだった家族の中でも次第に孤立していった。
毎月50万円近い収入があって生活は困っていないはずの伊田だったが、アンティーク人形やアンティーク家具のコレクションに凝るあまり、生活費にも窮するようになった。うまくいかない家族関係に加え、この惨めな生活に、伊田の心にイライラが募り始めた。
そんな中、偶然立ち寄った書店で、伊田は死体や解剖についての本を見つけた。また、刺殺体が出てくるビデオを観て、「人を刺して見たい」と殺人願望を持つようになった。
事件当日である3月30日、伊田は自転車に乗って、ターゲットの物色を始めた。菅谷さんを狙ったのは、「どうせ刺すなら、苦労知らずのお嬢様っぽい女の子がいい。相手が幸せな生活から不幸のどん底に落ちれば、スッキリする」からだったという。
友人と一緒にいた菅谷さんに「ニシオオゾネはどこですか?」と声をかけると、いきなり腹部を刺し、友人の持っていたバッグを奪って逃走した。
菅谷さんを刺した伊田は、「意外に手応えがなく、血も出なかった」とこれを不満に思い、2日後にもう一度女性を凶刃で襲った。刺されたM子さんはブランド物のバッグを所持しており、「この娘は金を持っている」と思って目をつけたという。
逮捕後には動機について、「イライラした気持ちを晴らしたかった」と供述した。
判決とその後
名古屋地裁での公判でも、飼い猫の世話をめぐって弁護士を解任するなど、異常な一面を見せた。
精神鑑定では「反社会性の人格傷害などは見られるが、責任能力に問題はない」という結果が出た。
2005年11月18日、名古屋地裁で、検察側から無期懲役が求刑された。
2006年2月24日、名古屋地裁・伊藤新一郎裁判長は伊田に対し「短絡的で身勝手な犯行」として、求刑通り無期懲役を言い渡し、そのまま刑が確定した。