在日朝鮮人の少年が殺人、減刑を求める嘆願書多く寄せられる
1958年、東京都江戸川区の定時制高校に通う太田芳江さん(16歳)が行方不明になり、屋上で腐乱死体が発見された。
同校に通う李珍宇(18歳)が逮捕され、死刑が確定した。
1962年11月26日に刑が執行されている。
犯行の経緯や動機
犯人の李と被害者の太田さんは両者とも東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通っていた。
李は東京都江東区出身の在日朝鮮人であった。また図書館から大量の書籍を窃盗した他、現金や自転車の窃盗を行い保護観察処分を受けた経歴がある。
就職の際には朝鮮人であることを理由に拒否され、兄の勤める鉄工所で働き始めるも体調を崩し退社、1956年にプレス工見習いとなり、1958年4月に小松川高校定時制に入学する。
1958年4月21日、李は工場賄い婦の田中せつ子さん(24歳)を強姦ののち殺害、死姦した。
同年8月17日、李がプールで泳ぐため同校に来たところ、屋上で読書をしている太田さんを発見。強姦をしようとナイフで脅したところ、太田さんが大声を出したため殺害の後に死姦。
太田さんの遺体を屋上に隠した李は同月20日、読売新聞社に遺体遺棄現場を知らせる電話を掛けた。
しかし警視庁小松川警察署の捜査員が付近を捜索しても見つからず、イタズラ電話と判断された。
翌21日に李は小松川署に更に詳細に遺体遺棄現場を知らせる電話を掛け、捜査員により腐乱した太田さんの遺体が発見された。
その後、李は太田さんの自宅や警察に太田さんの遺品である櫛や手鏡を郵送。その上で公衆電話から読売新聞社に30分以上に渡る電話を掛けたことで警察は逆探知に成功、逮捕には至らなかったものの電話ボックスから出てきた李の目撃情報を得る。
その際に録音された電話音声が8月29日にラジオで全国に放送されたことで情報が集まり、李が捜査線上に浮かび上がった。
9月1日、李は小松川署に逮捕された。
判決とその後
李は殺人と強姦致死の罪に問われ、一審は1959年2月27日に東京地裁で死刑判決が下された。二審もこれを支持し死刑となり、上告するが1961年8月17日に棄却され刑が確定した。
事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があるとして文化人や朝鮮人による助命請願運動が起き、1960年9月には「李少年を助けるためのお願い」という声明が出された。
また太田さんの遺族は日本人が朝鮮人にしてきた大きな罪を考えると恨む筋合いはない、減刑になり出所したら自分の会社で引き取ると申し出ていた。
1962年11月26日、宮城刑務所にて死刑が執行された。享年22歳であった。