事件・事故

大阪市西成区・餓死遺体放置事件(日本一の親不孝事件、魔の家事件)

1927年(昭和2年)7月21日、大阪市西成区千本通の空き家で、前にこの家に住んでいた大丸百貨店勤務・Kさん(64歳)が死んでいるのが発見された。

まもなく、行方をくらませていたこの家の家族が、食事も与えず死亡させたKさんの遺体を放置したまま1年間生活していたことがわかった。

事件の経緯と詳細


1927年(昭和2年)7月21日夕、大阪市西成区千本通の空き家2階で、前にこの家に住んでいた大丸百貨店勤務・Kさん(64歳)が死んでいるのを家の所有者が発見した。

遺体は蚊帳の中にあり、すでにミイラ化していた。布団や畳は変色し、ウジ虫の抜け殻が遺体を埋めるという悲惨な状態だった。その隣りの部屋にはなぜか新聞紙に包まれた大便が積み上げられていた。

Kさんは妻(当時56歳)と3人の子どもがいて、再三の家賃の催促で、数日前に立ち退いていた。まもなく家族が発見されると、意外な事件の真相が明らかになった。 

家族は中風だったKさんの介抱もせず、食事もろくに与えず餓死させ、遺体を放置していたことがわかった。中心的だったのは長女・S子(当時27歳)で、Kさんの妻や他の2人の息子も黙認していた。

当時の新聞は、この事件を「日本一の親不孝事件」「魔の家事件」などと書いた。

孤立の父

Kさんは京都の豪農の家に生まれたが、1890年(明治23年)に結婚した頃には先代の借金に苦しむようになった。

仕事は小学校の教員や、税務署長をしていたが、定年して恩給をもらうようになっても、3人の子どもはまだ学生だった。Kさんは自身が学歴を持たないことから、3人の子どもには高等教育を受けさせていた。このためKさんは1人で朝鮮に渡り、自身の酒やタバコを節約しながら、学費を送金していた。

結局、長男(事件当時36歳)は京都帝国大学法学部、次男は京都府立美術工芸学校、長女・S子は京都府立第一女学校を卒業させるなど、Kさんはなんとか子ども達を育て上げた。

子ども達は学校は出たたものの、一家の生活は貧しいものだった。特に女子であったS子はみじめな思いをしたという。学校に着ていくものにも困り、学校の遠足は必ず欠席するなど、クラスでは特別扱いされていた。S子が着物を欲しがると、Kさんは「着物を欲しがるなど、娼婦に等しい」と突き放したという。

こうした些細なことで家族の間で喧嘩が絶えず、仲の良い一家とはとても言えなかったという。

長男が大学を出てサラリーマンとなった頃、S子は兄から小遣いを貰うようになった。その頃はKさんは失業していたので、ある日の夕飯、S子は魚の頭部分を兄のところに、尾の方を父親に持っていった。これにKさんは激怒する。

「俺が失業して金が取れんといって、手の裏を返すように、兄にオベンチャラをするのは女郎根性だ。そんなやつの顔は見たくない。どっかにすっこんでろ!」

S子はこの後、父親の元へ食事を持っていっても文句を言われたため、父親には食事を出さないようになった。Kさんも食事が運ばれてこないと、1人で食べに出かけた。

屍のある暮らし

Kさんは大阪市内の大丸百貨店に勤め始めた。広告や掲示値段札などを書く仕事である。

しかし1926年(大正15年)2月14日、仕事中に倒れた。しかし、なぜか家族は誰も駆けつけてこず、Kさんは店の事務室で1週間横になっていた後、解雇された。

Kさんが1日じゅう家にいるようになると、家族はさらにとげとげしくなった。失業してすぐ、Kさんは3日連続で食事がもらえないので、交番に助けを求めに行った事もあった。

やがてKさんは中風を患い、体の自由がきかなくなっていった。それまでの一家の収入はKさんの恩給と大丸での給与のみであり、長男は職を転々と変え、次男は就職口もなくぶらぶらしていたので、一家は生活に窮するようになった。一家は家の物を次々と売り払いながら生活するようになり、そうして作った20円で、次男を家から追い出したが、次男はそれを大阪でぶらぶらしているうちに全部使ってしまった。

S子は自分が嫁にいけないのは父親のせいだと考えるようになった。大学出の男性に嫁ぎたくて、綺麗な身なりで、音楽会や観劇会などの交際の場所に出ていきたかったが、貧乏や父親がそれを許さなかったからだ。

S子は以前にも増して、父親を憎み、食事を運ばないようになった。兄や母は見かねて、食べ物や飲み物を運ぼうとしたが、S子に見つかると、泣き喚いて捨ててしまうので、こっそりやっていた。ちなみに食事と言っても、一杯の飯、一皿の野菜、ヤカンに入れた水だけであった。 

大小便の世話は母親がやっていたが、1926年6月以後は放りっぱなしとしていた。Kさんは小便は便器を使い、大便は新聞紙に包んで積み重ねていた。Kさんは日に日に衰弱していった。
 
同年8月30日未明、Kさんは妻に「お粥が食べたい」と言ったが、それが出来上がらないうちに死亡していた。死因は餓死と見られる。

それから一家は医者にも見せず、死亡届も出さず、Kさんの遺体を家に放置したまま1年間生活した。医者に見せれば、食事を与えなかったことがばれるからである。匂いが漏れるのを恐れて戸を閉め切りにし、誰も家に上げなかった。

そのうち家賃が35円から45円に値上がりした。このため家族は家賃が支払えなくなった。売り払えるようなものもすでにない。家の所有者から立ち退きを迫られることになった。

1927年7月初め、一家はこっそりと家を出た。S子と母親が遺体を残してきた家の方を振り返った時、2人とも体が震えたという。

判決

1928年9月13日、大阪地裁、死体遺棄罪でKさんの妻に懲役7年、S子に懲役15年の判決を下した。

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