事件・事故

同僚殺害硫酸樽遺体損壊事件

致死量0.11mg、死、死・・・・ああ怖い・・・

1956年2月28日、東京足立区千住緑町の日本皮革会社(現・株式会社ニッピ)で、東大卒の技師K(当時28歳)が、同僚(35歳)を殺害。

遺体を硫酸ツボで溶かした。

事件の経緯と詳細

1956年3月2日朝、東京足立区千住緑町の日本皮革会社(現・株式会社ニッピ)試験工場2階で1人の技師が大いびきをかいて眠っているのを同僚が見つけた。机上には次の様な遺書があった。

「致死量0.11mg、死、死・・・・ああ怖い・・・あと、2分――」

さらに8枚の便箋に同僚殺害の様子や死体を処分する様子が丁寧に書かれてあった。それによると、この眠っている技師・K(当時28歳)は、同僚の技師・Sさん(35歳)を殺害し、工場内の研究室前にある原皮樽の中に入れて遺体を溶かしているのだという。

職員はすぐに通報。警視庁捜査一課の刑事達が同社に駆けつけた。眠る男の傍には白い粉の入ったカプセルが置かれており、これは自殺のための劇物と見られたが、なぜか男の様子に異常な点はなかった。

刑事たちが手錠をかけようとすると、Kは激しい抵抗を始め、暴れた。7分ほどしたところで、ようやく取り押さえられ逮捕された。

Kはすぐに足立病院に運ばれ、胃洗浄などをしたが、青酸反応はなく、泥酔しているだけだということがわかった。

一方、Sさんが入れられているという樽の中も調べられた。

樽は直径0.71m、高さ1.20mのもので、中身が見えない様に蓋をして縄で縛られてあった。中を覗いてみると、半透明程度のコバルト色の液体が6分目ほどまで入っているだけで、浮遊物はなかった。液体はきつい酸の匂いがして、樽の下の方に穴を開けると、人間の骨の一部と見られるものが液体とともに少し流れてきた。樽の底には10円玉硬貨5枚、プラスチック製のボタン、ビニールの名刺入れ、鞄の金具などがあるだけで、他のものはすべて溶けきっていたようだった。頭蓋骨も溶けて小さくなっていたが、左の後頭部に鈍器で殴られたような跡が3ヶ所あった。

技師の確執

日本皮革株式会社は当時最大の皮革会社で、足立工場はは4万ha、従業員は450人の大工場だった。

Kは両親と、9歳下の妹の4人家族。父親は大正大学の教授をしていた。K自身は明朗だが排他性が強く、親しい友人はいないようで、また研究者というイメージのわりにはバスケットやラグビーをやって鍛えており、体格の良い男だった。

Kは東大理学部化学科卒業後、日本皮革会社に技術研究員として採用された。同社には7人の技師がいて、いずれもエリートだったが、Kは特に期待されていたという。入社1年目にアメリカ、カナダなどに派遣され、遊学した。帰国後には、会社は彼の為に2階建ての試験工場を新築している。

そして皮革の世界的権威であるカナダのベル―ガン博士を招聘して、技術指導を受けたが、語学が堪能で遊学中に面識のあったKが博士を独占するようになった。当然、上司にあたる他の技師達は当然これを快くは思わず、Kは孤立しがちだった。

Sさんは東京物理学校卒業し、入社13年という中堅技師。温和な人柄で、よくKを誘って飲みに出かけたり、江戸川区の自宅に誘うということがあったが、Kには自分を嫌う先輩技師たちの急先鋒に見えた。

事件経過

以下はKの供述による。

2月28日、給料日だったこの日の午後4時頃、KはSさんのところに行って、「研究所で飲もう」と誘った。
午後5時15分頃、Kがウイスキーと二級酒、マグロ刺身を用意して待っていたところ、Sさんがやってきて2人で飲み始めた。

Kの供述によると、ずいぶん酔いもまわって雑談している時、Sさんは「お前が博士のデータを独占しているのは横暴だ」、「お前は若造のくせに生意気だ」などとからんできた。やがて掴み合いの喧嘩となり、Kは戸棚の中にあったハンマーを取り出して、Sさんの頭は2、3度殴りつけて殺害した。そしてそれは研究室前の樽の中に放りこんだのである。

Kはその後、出前で届けられた寿司を少し食べ、服についた返り血を洗い、溶けないSさんの眼鏡と靴を持って、午後6時50分頃に工場を出た。すでに自殺を決意し、一旦帰宅したが、家族の顔をみるうちに、自殺して迷惑をかけるより、証拠隠滅して犯行がバレないようにしようと考えを変えた。

Kはまず硫酸と塩酸の濃液を混合して、遺体を溶かしてしまおうと考えた。だが、樽も樽材で出来ているため溶けてしまう。そこで重クロム酸ソーダ液で樽が溶けないぎりぎりまで硫酸の濃度を下げることを考えた。幸い、研究所にはそうした薬品はいくらでもあったのである。その溶液で遺体を溶かし、第2段階として残った骨を塩酸と硫酸の混合液で完全溶解。そうすると、樽も破損するだろうから、「実験に失敗した」という理由で焼却処分しようと考えた。

翌午前1時30分頃、Kは「実験中で、どうしても工場に行かなくてはならないから」と家族に告げ、研究所に向かった。2時過ぎには会社に着いたが、守衛も怪しまなかった。

研究室でKは、重クロム酸ソーダと水を樽の中に入れ、続いて96%の濃硫酸を混ぜたが、白い煙が発生した。守衛があわてて飛んできたが、Kは「調合の失敗だ」と言って帰した。その後、朝まで室内の血痕を念入りに洗い落とした。

午前8時半頃、助手が出勤してきて、樽から噴出す白い煙を見て不思議がったが、Kは適当にごまかして、縄で樽を縛った。

続いてKは塩酸が手元になかったため、近くの商店に注文。

そこへ、Sさんの助手がやって来て、Sさんが家に帰っていないことを伝えてきたが、「昨晩は一緒に飲んだが、正門前で別れた」と答えた。

午後4時頃、塩酸が届くが、Kはなぜか証拠隠滅を断念して、自殺の決意をした。

午後5時20分頃にいつもどおり会社を出て、家族と家で夕食をした後、所持していた青酸カリを持って歩いて早稲田に行き、今度はそこからタクシーに乗って上野のホテルに向かった。そこでウイスキーを飲んで5通の遺書と、事件の経過書などを書いた。

翌朝、出勤。午前8時の汽笛を合図に自殺を図ろうと思って、普段はあまりいかない2階事務室を訪れたが、青酸カリを飲めないうちに眠ってしまったらしい。

その後

Kの供述には不審な点がいくつもあった。

まず殺害は酒を飲んでいるうちの衝動的なものだったと言うが、最初から殺害を狙ってSさんに酒を誘った可能性が強い。それは塩酸を注文したのが殺害後ではなく、殺害前である28日午後1時頃だったからである。

また証拠隠滅は一旦帰宅してから考えたとしているが、Sさんを殺害して会社を出る時になぜか、溶けない眼鏡などを持ち出している。

こうした点について、では殺害の動機はなんだったのか、ということになるが、詳しいことは判っていない。

公判ではKの弁護人は精神鑑定を要求したが、結果は「異常なし」だった。その後、世田谷区の松沢病院に移されたが、59年8月、東京地裁は懲役6年を言い渡している。

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