「殺せばいつまでも友達でいられる」
1987年3月27日午前8時頃、高槻中学校・高校の運動用具倉庫とフェンスの間で、この春同校を卒業したばかりのK君(18歳)が遺体で発見された。
殺したのはK君の親友であるA(当時18歳)だった。2人は中学校入学時から仲が良く、4月からそれぞれ別の大学に進学する予定だったが、それが「つらかった」とAは供述した。
事件の経緯と動機
Aは父親は開業医で、3人兄弟の長男。同級生などの話によると、在学中は目立たず、おとなしい性格。友人はごく限られていた。この春の大学受験では私立大学に合格していた。
一方のK君はクラスの人気者。この春の大学受験では、立命館大学経営学部や龍谷大学に合格。卒業式の日に「国立も受けるけど、立命館行く」と友人に話していた。
2人は中学入学時以来からの親友だった。クラスの人気者のK君とAは傍目から見て、性格が正反対だったという。人気のない場所で話し込んでいるところも多く目撃されており、学校近くの丘陵地や事件現場の校庭などにもよく出入りしていた。2人は読書や音楽の趣味が共通しており、受験勉強の疲れをいたすために普段から誘い合って映画やボウリング、サイクリングなどに出かけていたという。
事件の直前、2人の間に一悶着が起こっている。Aは大阪の国立大学を受験するが失敗。しかし19日にAはK君に「合格した」と話した。その後、K君は別の友人の前で「Aは嘘つきや。国立大に通るはずないやないか」と話していたという。このことがAを殺害に走らせたひとつのきっかけになったのかもしれない。
犯行当日以降
1987年3月26日午前1時ごろ、AはK君に「遊びに行こう」と電話をかけ、高槻中学・高校の近くの24時間営業のスーパーで落ち合った。やがて、同校南側のフェンスにあいていた穴から、校庭に侵入した。直後、Aは隠し持っていたハンマー二本で、K君の頭や顔を殴り、死亡させた。Aはその後、K君の遺体を5mほど引きずって、倉庫とフェンスの間に隠して逃げた。
午前8時頃、同校の野球部員がK君の遺体を発見した。
逮捕後Aは、
「殺せばいつまでも友達でいられる」
「ずっと同じ学校だったK君と大学で別々になるのが辛かった」と供述した。
この少年について大阪地方検察庁は、性格に多少のゆがみは見られるものの責任能力に問題はないとして、刑事処分相当の意見書を付けて、1987年4月16日、身柄を大阪家庭裁判所に送った。
その後、犯行の動機についてこの少年は「一番の親友が別の友達と親しくなっていくのに悩み、受験勉強の邪魔になると思い殺意を抱いた」とも供述していることが明らかになった。
調べに対してこの少年は、犯行の動機について「ことしは希望に反して私立の文科系の大学へ合格したが、医学部へ進学するため大学へ通学しながら受験勉強を続けるつもりだった。しかし無二の親友が別の友達と親しくなって自分から離れていくことにしっとを感じて悩むようになり、このままでは受験勉強の邪魔になると思い込み、親友がいなくなれば悩みが解消すると思い続けていた」と述べたという。
そして卒業後の3月中旬、親友と別の友達が「大学へ行ったらいっしょに運転免許を取ろう」と目の前で楽しそうに話しているのを見て決定的な殺意を抱いたと供述。
この少年はその後も開業医の父親のあとを継いで医者にならなければならないと思い込んでおり、取り調べの合い間などに物理や化学の参考書を読んで受験勉強を続けたという。
本事件について大阪大学で教育心理学を専攻している中西信男(ノブオ)教授は「医学部に進めなかったという進路問題をめぐる要求不満から攻撃的になっているところに、思春期に特有な同性愛にも近い感情を抱いている親友が離れていくというさびしさが加わったとき、殺意が芽生えたのだろう。今度の事件はいくつかの不幸な要因が重なったことが原因だが、同じような要因を抱えている少年たちは少なくないわけで、その意味で特異なケースではなく、目先の受験指導とは違う本当の進路指導が徹底されることが学校や親に望まれると思う」と指摘している。