1935年(昭和10年)11月、東京・浅草の喫茶店で日本初の青酸カリを使った殺人事件が発生した。
事件の経緯と動機
1935年(昭和10年)11月21日午前11時前、東京・浅草の雷門前にある明治製菓売店喫茶部に、中年の紳士が風呂敷包みをかかえて入って来た。
待っていた男がこの紳士に合図をすると、紳士はこの男の前に座った。男はあらかじめ2つの紅茶を注文しており、さも親しげに紳士にこれをすすめた。そして紳士がこの紅茶を飲むと、すぐに「これはまずい」と言って立ち上がり、店員の方を振り返ってみるようにしてから仰向けに倒れた。
男は駆け寄って来た店員に、「この紅茶はまずいそうだ。捨ててくれ」と言って中身を捨てさせ、倒れた男性を介抱した。
店員には倒れた紳士に見覚えがあった。時々この喫茶部に来る柳北小学校の増子菊善校長(48歳)だった。まもなく医師が駆けつけてきて、強心剤の注射などをしたが、増子校長は息絶えてしまった。一緒にいた男は、店員が医者を呼びに行っている間、風呂敷包みを持ってどこかへ行ってしまっていた。
出回る青酸カリ
増子校長が持っていた風呂敷包みには、教職員49名に支払う今月の給料3335円48銭が入っていたことがわかった。当時としてはかなりの大金である。犯人は当日に校長が区役所で給料を受け取ることを知っており、毒殺してこれを奪おうと考えた計画的な犯行だとされた。
喫茶店で親しげにしていたことから、犯人は増子校長の顔なじみの人間であるということははっきりしていた。この男は27、8歳で、絣(かすり)の袷(あわせ)の着物と同じ羽織を着ていた。そして頭髪には櫛目が入っていなかった。
午後になって、遺体の解剖から犯行に使われた毒は、当時は珍しかった青酸カリだと判明した。
この年は軍需景気により町工場までもが景気が良かった。メッキ工場や製鉄工場などで使われるため、青酸カリが各所に出回った時期であり、これが猛毒を持つということも使用者の間では知られていた。なお日本ではこの事件が、青酸カリ殺人第一号だった。
逮捕・死刑執行
犯人はすぐ逮捕された。刑事が学校で、こういう人相の人間はいないかと聞くと、学校に出入りする足袋屋の若主人・鵜野洲武義(当時27歳)が浮上したのである。
鵜野洲は大金を奪うと、浅草・千束町の待合で、なじみの芸者”藤豆”と遊ぼうとして、藤豆を待ちながら酒を飲んでいた。逮捕されたのは当日の午後11時ごろで、あっさり犯行を自供した。青酸カリは、知り合いの工員が犯罪に使用されるとは知らないで2グラム10銭で買い与えたものだった。
今の時代と違い、当時は庶民が女遊びをするのには大金がかかった。芸者と遊んで一晩寝るとなると、浅草では20円ぐらいは必要で、この金額は町工場の少年工の月収にあたる。
また洋服を着る人が増える一方、和服を着ても足袋を履く人は少しずつ減っており、鵜野洲の商売も昔よりは繁盛しなくなっていた。遊ぶ金に困り、学校の給料に目をつけたのである。
翌年8月3日、死刑が確定。1937年10月26日に処刑された。