事件・事故

島田事件

放浪青年が「幼女殺人犯」に。権力による悪質なでっち上げの実態。

島田事件とは1945年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが、1989年に再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件のひとつ。日本弁護士連合会が支援していた。

犯行の経緯

1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。

静岡県警の司法鑑定医師の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。

被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、務めの人に見える若い男だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。

1954年5月24日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼市で静岡県警が重要参考人としていた赤堀 政夫(あかほり まさお、当時25歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。

警察は赤堀を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、赤堀に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

判決とその後

死刑判決

1954年7月2日に初公判が開かれたが、裁判では赤堀は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある赤堀が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。

1958年5月23日、静岡地方裁判所は赤堀に死刑判決を言い渡し、1960年2月17日、東京高等裁判所は第一審・死刑判決を支持して被告人・赤堀の控訴を棄却する判決を言い渡した。さらに、1960年12月5日に最高裁判所は被告人・赤堀の上告を棄却する判決を言い渡し、12月26日付で赤堀の死刑判決が確定した。

死刑囚となった赤堀は1961年8月17日に第一次再審請求を行ったが、1962年2月28日付で棄却された。1964年6月6日に第二次再審請求したが、1966年2月8日付で棄却された。これを受け同年4月14日に第三次再審請求を行ったが、1969年5月9日付で棄却された。

再審、無罪判決へ

1969年5月9日に行った第四次再審請求も1977年3月11日付で静岡地裁が棄却を決定したが、赤堀および弁護人は3月14日付で即時抗告を申し立て、これを審理した東京高裁は1983年5月23日付で静岡地裁の原決定を取り消し、審理を地裁に差し戻すことを決定した。その後、静岡地裁は1986年5月30日付で検察側・弁護人側から提出された双方の鑑定結果を吟味した上で「死刑囚・赤堀の自白は被害者の遺体胸部の傷の状況から信用性・真実性に疑問がある」などの理由から再審開始・死刑の執行停止を決定した。検察側は同決定を不服として東京高裁に即時抗告したが、東京高裁は1987年3月25日付で即時抗告棄却を決定。検察側が最高裁に特別抗告しなかったために再審開始が確定した。

静岡地裁で1987年10月19日に再審初公判が開かれ、計12回の再審公判でも検察側・弁護人側の双方がそれぞれ法医学者を証人尋問したほか、21点の証拠が提出され、改めて「自白の信用性・被害者の傷」などについて証拠調べが行われた。1988年8月8日に静岡地裁刑事第1部で再審論告求刑公判が開かれ、静岡地検が再び赤堀に死刑を求刑した一方、翌9日には弁護人が最終弁論で無罪を主張し、被告人・赤堀も最終意見陳述で改めて無実を訴え結審した。

そして1989年1月31日10時21分から再審判決公判が開かれ、静岡地裁刑事第1部は被告人・赤堀に無罪判決を言い渡した。赤堀は逮捕以来34年8か月ぶりに釈放された。検察側は控訴を断念することを決定したため、赤堀の無罪が確定した。

再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木完夫医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。

被告人のその後

赤堀は1989年1月31日に釈放され、名古屋市に居を定めたが、釈放当初は健康状態が悪化しており、実社会への適応も困難であったため、1974年9月に結成された「全国『精神病』者集団」による赤堀の支援活動に加わっていた大野萌子が介護者として日常生活を手助けすることになり、以後現在まで共同生活を営んでいる。

赤堀はしばらく病院への入退院を繰り返すなどしたものの、徐々に平穏な暮らしが営めるようになった。大野や他の支援者とともに死刑廃止運動や代用監獄廃止運動の集会等に参加するなど、積極的な活動を行っている。自ら見解を述べたり、シンポジウムにて発言するなどしており、様々な事件の確定死刑囚に対する支援を訴えている。

また、赤堀は法律の知識のないものが裁判に参加するべきではないとして、裁判員制度に疑念を抱いていたが、2012年、自身がその裁判員の候補者に指名されるという事態を迎えた。しかし、裁判員法では70歳以上の高齢者は裁判員選任を辞退できる旨定められていることから、赤堀は当該規定に基づき辞退した。

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