言論の自由で論争、右翼少年が殺傷
1960年11月上旬に「中央公論」で発表された小説「風流夢譚」が天皇等へ対する不敬であるとして右翼の抗議活動が発生した。
1961年2月1日に右翼団体大日本愛国党に所属する少年K(17才)が中央公論社の社長宅に侵入して家政婦(50歳)と社長夫人を殺傷、自ら出頭して逮捕された。
犯行の経緯や動機
小説「風流夢譚」は深沢七郎によって書かれた短編小説であり、「中央公論」1960年12月号に掲載された。
内容として皇室の人々の斬首や生首、罵倒し合う描写等があった。世間からは露骨だという批判や皇族の人権が侵害されているとの意見があった。
一方では作品として賞賛する評論家らの声もあり賛否両論であった。
11月28日には右翼団体である大日本愛国党に所属する8人が中央公論社に押し掛けて謝罪を要求。翌29日には宮内庁から作品への抗議が発表され、閣議では皇室に代わり民事訴訟する案も出たが訴訟には至らなかった。
その翌日に中央公論社の編集長が社を代表して宮内庁へ謝罪、宮内庁も訴訟を取りやめた。
しかし右翼団体は中央公論社への糾弾を続け、他の右翼団体らが中央公論の編集部へ乱暴を働く事態も発生した。
少年Kは高校を中退して家出、1961年1月3日に大日本愛国党に仮入党した。また当事件の前日に党を離れている。
1961年2月1日、少年Kは新宿区市谷砂土原町にある中央公論社社長の嶋中鵬二さん宅へ忍び込み、応接間で滞在していた。
21時15分頃、同家の家政婦2名が本を置くため応接間に入ってきたところで少年Kはナイフを2人に突きつけ社長との面会を要求。恐怖を覚えた家政婦2人が居間付近まで後ずさったところ、長女といた社長夫人が駆けつけて少年Kと鉢合わせる。
少年Kは自らを右翼の者と名乗り、社長との面会を要求。当時社長は不在であり、社長夫人がその旨を伝えるが少年Kは信じずに夫人の大腿部をナイフで突き刺した。また夫人を守るため家政婦(50歳)が少年Kと揉み合いなり左脇腹を刺される。少年Kは逃亡。
もう1人の家政婦が隣家の電話を借りて警察に通報。2階にいた長男が長女から事件を聞き駆けつけるが少年Kの姿はなかった。
夫人は全治2週間の負傷。家政婦は台所まで移動して力尽きており、救急搬送されるも死亡が確認された。
翌朝に少年Kは浅草の派出所前で職務質問を受け逮捕。自首しに来たと供述した。
動機について、小説「風流夢譚」の作者も悪いが、それで金儲けをする社長は尚悪いと供述した。
判決とその後
1962年に東京地裁で少年Kに対して懲役15年の判決が下された。少年Kは刑を受けること自体が不当として無罪を主張。控訴するも棄却され、1964年11月9日に刑が確定した。
大日本愛国党の総裁も殺人教唆や殺人未遂教唆等の罪で1961年2月21日に逮捕されたが、証拠不十分で不起訴となった。