事件・事故

白鳥由栄(しらとりよしえ)事件

青森県東津軽郡で起こった強盗殺人事件で逮捕された白鳥由栄は、1936年に青森刑務所を脱獄。

その後も秋田刑務所、網走刑務所、札幌刑務所の脱獄に成功し、「稀代の脱獄魔」と呼ばれた。

「昭和の脱獄王」白鳥由栄について 26年間の服役中4回もの脱獄を成功させた「昭和の脱獄王」 白鳥 由栄(しらとり よしえ、1907年7月31日 – 197...

事件の経緯と動機

白鳥由栄について

白鳥由栄は、青森県東津軽郡荒川村筒井に生まれる。

3歳の時、父親が病死。その3ヶ月後には生活苦に耐えられず、母親はまだ幼い由栄の弟だけを連れて、秋田の農家に再婚していった。

白鳥と3つ年上の姉は青森市内で豆腐屋を営む叔母に引き取られた。子供のうちから豆腐屋の仕事を姉とともにこなしていた白鳥は18歳の時に函館港からカムチャッカに出港する蟹工船の漁夫となる。この船の上での仕事も過酷なものだった。

22歳になると、白鳥は嫁をもらって魚屋をはじめる。だがこの当時、国内では不況の嵐が吹いていた。商売は順調にいかず、平穏な生活を送ることもできず、何度か商売替えをし、やがて蟹工船で覚えた賭博にのめりこむようになった。さらに青森市内で何度も窃盗をはたらく。青森署の留置場に入れられても、何事もないようにそこを抜け出した。

雑貨商宅強盗殺人事件

1933年(昭和8年)4月9日午前2時頃、覆面をした2人組の賊が東津軽郡筒井村の雑貨商Kさん(当時67歳)方に侵入、同家の養子Tさん(35歳)に発見された。Tさんは店舗から10mほど2人組を追いかけ、そのうちの1人に追いついて組み伏せた。そこへ逃げていたもう1人が戻ってきて、Tさんの背中を日本刀で斬りつけると、組み伏せられていた方も下から短刀で刺した。2人組は「火事だ!火事だ!」と叫びながら逃げて行った。

Tさんは近くの青森陸軍病院に運ばれたが、15日に「仇を討ってくれ」と言う言葉を残して死亡した。Tさんは賊を目撃した唯一の人物で、亡くなる前には重傷を負いながらも、「組み伏せたのは年配の男、日本刀で背中を斬りつけたのは大柄な若い男で、合羽を着ていた」と証言していた。

現場付近からは血のついた短刀が発見され、2人組の足跡が荒川村の青森刑務所の方向に点々と続いていた。足跡の消えている地点には前科14犯の男A(当時61歳)の家があり、青森署はただちにAの取り調べを始めた。

Aは別の強盗については自供したが、Tさん殺しについては否認、これと結びつける物的証拠もなく、別件で有罪判決を言い渡された。

青森署の捜査はその後も続けられ、当時豆腐製造業をしていた白鳥と、荒川村のS(当時42歳)の取り調べも行われている。だがこの2人もアリバイが成立していたため、釈放された。

1935年2月、青森署では異動があり、これを機に「未検挙事件の解決」が重点目標として掲げられた。未検挙事件のひとつであるTさん殺しについても、当時調べられ釈放されていた白鳥に再び疑いの目が向けられることとなった。

ちょうどこの頃、白鳥は土蔵破りの犯人として盛岡署に逮捕されていた。やがて岩手県警から青森県警へ身柄が引き渡された。取り調べのなかで白鳥は12件の土蔵破りについては自供したが、2年前のTさん殺しについては否認した。

まもなく白鳥はTさん殺しを自供、そしてその内容から共犯者はSと判明した。日本刀で斬りつけたのが白鳥で、短刀を持っていたのがSだった。

当初、捜査本部は白鳥の共犯は当時横浜刑務所に入っていたAであるとにらんでいた。白鳥があっさりと自供したのは、取調室の前の廊下でこのAを見て、Aが逃げる自分達を目撃しておりそれを自供したものだと思い込んで、観念したからだった。

青森破り

1936年6月、白鳥は青森刑務所に移監された。そして早くも第一回目の脱獄を成功させている。

白鳥が汚物を捨てるために房から出た時、看守の目を盗んで針金を拾った。これを折り曲げて鍵にした。房の扉には食事を出し入れする小窓があった。白鳥がこの小窓から腕を出してみたところ、十分に鍵穴に届く。風呂上りの手のひらを鍵穴に押し当ててみて、形をうつしてとっていた。

脱獄への準備は着々と進んでいたが、白鳥はすぐには実行に移さなかった。一度失敗すれば、これまでの用意もすべて無に帰してしまうので慎重になった。

まず看守の巡視の癖を覚えた。足跡をじっと聞いて、真夜中の交代時間に隙が出来ることに気づいた。空白の15分だった。

6月18日午前0時過ぎ、白鳥は脱獄に成功する。針金の鍵は房の扉だけでなく建物や裏門の鍵まで開けた。房内の布団をふくらませて出たため、発覚も遅れた。

白鳥がいないということがわかったのは午前5時半頃のことだが、刑務所では落ち度を隠蔽するために「早朝に脱獄した」と警察に報告している。

あざやかな脱獄劇であったが、2日後の午前5時半頃に近くの村の共同墓地にいたところを五所川原署員に逮捕されている。

この逃走中には捜索に約1200人の警官、3346人の消防団員、1703人の青年団員、在郷軍人その他3086人、県内外の警察が参加していた。

逮捕後にはこの脱獄犯を一目見ようと青森署の前に野次馬が集まり、大変な騒ぎとなった。
 
白鳥は脱獄の理由について

「刑罰が恐ろしいのではなく、未決があんまり長くて、勾留生活に飽きたからだ」

と答えている。

その後白鳥は8月に青森地裁で無期懲役判決を受けた(共犯Sは懲役10年)。白鳥は不服としてこれを控訴したが、11月に宮城控訴院で一審通りの判決が言い渡され、無期懲役が確定した。

1937年4月、白鳥は青森刑務所から宮城刑務所へと移され、1940年4月には東京小菅刑務所に身柄を移された。小菅刑務所では平穏に過ごしていた。

秋田破り

1941年10月20日、小菅刑務所の長期囚は宮城、秋田、網走などへ移されることとなった。東京の治安を守るためというのがその理由だった。

すでに脱獄の実績のあった白鳥は「鎮静房」という特殊な部屋に入れられることになった。この部屋は壁三面および床がコンクリートで固められ、壁には銅板が張られ、扉も角材をななめに打ち付けて補強してあるという、脱獄に対しては万全の備えをした空間だった。天井には小さな採光窓があったが、北国ということもあって大変冷えた。しかし仮に脱獄が成功しても、一面の雪のなかではどうしようもないとうこともあって、白鳥はしばらく耐え続けていた。

3月頃、白鳥は脱獄の準備を始めた。コンクリートの壁と銅板はどうしようもない。消去法で考えて残るのは高さ3mのところについた天窓であった。ここが唯一の攻めどころと白鳥は見た。

直角にまじわる壁と壁の間、ここで壁に背中をつけて両手、両足を伸ばしてふんばれば、徐々に上へとのぼっていけるような気がした。

実際にやってみると上れた。無論これには元々の白鳥の身体能力と、日頃のトレーニングが必要だった。

白鳥は上まで上がると天窓の窓枠についていたブリキ片と釘を取ってみた。このブリキ片に釘を刺して、簡易のノコギリを作ることに成功している。ノコギリで枠を徐々に切っていくと、頭を押し上げて窓を開けることができそうだった。

これら脱獄の準備を1回でやったわけではない。物音が気にならない日中の約10分のあいだに少しずつ進めていた。

17年6月15日午前0時過ぎ、脱獄。もっともそれ以前にも房から出ることは可能だっただろうが、この日は暴風雨で多少の物音は気づかれない。脱獄する身にとって都合の良いこの日を選んだ。

建物から出たところで、刑務所の周囲は高さ4.5mの塀がそびえ立つ。しかし丸木を立てかけて、なんなくこの障害は突破している。この脱獄もまた午前5時の起床時間まで看守にはバレなかった。

その後白鳥は8kmほど離れた農家の納屋にしのびこんで服を盗み、鉄道線路のそばの道を東京方向に進んだ。昼間は隠れ、夜中に2駅分ほどの行軍を続けたという。

歩くこと3ヶ月、白鳥は慕っている小菅刑務所の戒護主任のいる官舎へ自首した。最初からここへ自首しに来るための、まるで意味のないような脱獄だった。しかしそれは秋田刑務所で受けた処遇へのNOサインだったにちがいない。

網走破り

白鳥はかつて模範囚として遇された小菅刑務所で服役することを希望していたが、もちろんそんな願いはかなえられるはずもなかった。7人の護送看守に囲まれて網走刑務所へ送られたのは1943年4月23日のことだった。

白鳥は「四舎二十四房」という頑丈な独房に入れられた。早速ここで白鳥は手錠を壊すという技を見せている。さらに頑丈な手錠をかけられたが、それも壊している。そこで後ろ手に手錠、足錠もして、さらにナットで強く締めるという措置がとられた。

すでに「脱獄王」と呼んでさしつかえのない実績のある白鳥に対し、網走刑務所は「絶対阻止」の挑戦をしているようにも見えた。

手が自由に動かせないため、食事は食器に顔をつけて食べる。大小便もうまくはできない。体からウジがわいてくるほどだった。

さしもの白鳥もこれではいかんともしがたかった。おとなしくしている白鳥に対し、刑務所側は後ろ手の手錠を前にさせるという温情を示した。

それでも依然として脱獄は実現不可能にも思えた。手錠のナットが固くゆるまないのはもちろんとして、房自体も堅牢だった。房の扉には視察口がついている。この視察口には鉄枠(20cm×40cm)に鉄棒5本縦にはめこまれていた。鉄枠自体は扉にボルトでとめられていた。

白鳥が目をつけたのはこの鉄枠だった。

有名な「味噌汁」を使った脱獄である。白鳥は口に含んだ味噌汁を鉄枠に吐きかけた。すぐに鉄枠にサビができるわけではないが、何十日と同じことを続けているうちに、鉄枠に変化が見え始めた。鉄枠と扉のあいだに隙間ができてきたのである。やがて少し引っ張れば鉄枠を外せるような状態にまでなった。

8月26日午後9時過ぎ、手錠と足錠をはずした白鳥は、囚人服まで脱いで、ふんどし一枚で視察口をはずして通路へ飛び出た。視察口は小さすぎたため、肩の骨を外しての脱出だった。採光窓を破って屋上に出た後、いったん地上に降り、ストーブの煙突の支柱をはしごがわりにして塀を越えた。

後年、府中刑務所で服役していた白鳥は仲間たちに次のように話している。

「俺が、あの日本一警戒厳重な網走刑務所を脱獄したことについて、いろいろとやかましくマスコミが取り上げていたが、後ろ手枷と足枷をガッチリ噛まされた時は正直言って、もうこれで終わりだ、脱獄などは及びもつかないと九分通り諦めていたんだ。何せ馬の蹄鉄の倍も厚さのある金具を嵌められたんだからなあ。それでも1年後にようやく足枷を外された時には、ひょっとしたらあるいは逃げられるかもしれない、という予感はしたんだ。俺は自分の体の中で、一番強くて鋼のように丈夫で自信の持てるのは脚だったんだ。あれが逆に手枷が外されて、足枷をそのままにされていたら、脱獄は出来なかったし、その自信も無かったろうよ」

脱獄した白鳥は山中で過ごした。1946年5月、国民学校で盗んだ新聞によって日本の敗戦を知った。8月9日には歩いて札幌へ向かったが、砂川付近で野荒し警戒中の青年と出会い、短刀で刺殺した。滝川署員に逮捕されたのはその3日後のことだった。

死刑判決と札幌破り

砂川の殺しについて、白鳥は正当防衛、または傷害致死を主張していたが、12月16日に死刑判決が出た。

この公判で判事が「白鳥、お前はこれまで三度の脱獄を犯しているが、三度とも逮捕されている。何度逃げても、しょせん逃げ通せるものではない、今度で諦めて、静かに刑期を全うしてはどうか」と尋ねると、白鳥は「いや、俺は諦めない。今度の殺人だって俺には殺意はなかった。あのままでいたら逆に俺の方が殺されていたんだ。だからあれは正当防衛である。刑には服するが、もし今後、俺に対して過酷な扱いをするようなら、俺は何度でも脱獄してみせるぞ」と豪語した。

1947年2月27日、白鳥の身柄は札幌刑務所へ移されたが、ここも例によって頑丈な部屋だった。もともと凶暴な囚人を入れるために作られた部屋だったが、白鳥が入るにあたってさらに補強されている。これまでのように壁、天井を破ることは出来そうになかった。扉についても、2組4人の専任看守が常に見張っている。

白鳥は床を注意深く見てみた。するとわずかの隙間があるのに気づいた。この隙間にゴザの芯を抜いてたらしてみると、土がついていた。

調べ室に連行されるとき、ドアの釘を見つけ、よろけるふりをしてそれを抜き取っていた。さらに便器の鉄板を取り、またもや手製のノコギリを作り上げた。あとは貧乏ゆすりをしているように見せて、床をひたすら削った。

3月31日午後7時ごろ、白鳥は脱獄を開始する。食器や指で土を掘っていった。この時も布団を膨らませていたため、すぐには発覚していない。

指先から血を流しながら2時間ほど掘って、ようやく外に出ることができた。中塀があったが、雪が積もっていたため容易に飛び越えた。刑務所が白鳥4度目の脱獄を知ったのは翌午前2時頃のことである。

しばらく札幌郊外の円山、手稲の山にひそんでいた。食料など必要なものは、時々山を降りて店から盗んでいた。10月頃までここで過ごしたが、冬の間は網走脱獄後に過ごした中佐呂間で過ごそうと考えて向かう。ところが雪のため断念、再び手稲を目指した。

1月19日午後4時ごろ、琴似までやって来た白鳥は、なぜか普段は通らない市街地を通っていた。ここで2人の警官の職務質問にあった。白鳥はいくつか質問に答えた後、「たばこをくれませんか」と言ってみたら、警官の1人は当時貴重品だった「ひかり」を半分本を出して、マッチで火をつけてくれた。白鳥はうまそうにそのタバコを吸い、「札幌刑務所を脱獄した白鳥です」と名乗った。

この頃にはマスコミが白鳥について「稀代の脱獄魔」とある種の英雄扱いをして、子供たちのあいだでも「白鳥ごっこ」という遊びが流行するほどだった。

札幌高裁で懲役20年。1948年7月、東京の府中刑務所へ移送されている。

当時の府中刑務所の所長は、白鳥が小菅にいたときお世話になり、心酔していた鈴木英三郎氏だった。移送されてきた白鳥の手錠は外され、彼の房も施錠されなかった。こうなっては白鳥に脱獄をする理由がなくなってしまい、彼はここで真面目に刑に服している。

1961年12月、白鳥は仮釈放された。その後は再び法にふれることもなく、ひっそりと暮らし続けた。

1979年2月24日、三井記念病院で心筋梗塞のため死去。享年71。当初遺体の引取人はなく、葛飾区の某寺に無縁仏として葬られそうになったが、仮出所後に仲良くなった女性が引き取っている。

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