ドブに捨てられた切断遺体。はじめて「バラバラ」と表現された事件
1932年3月7日、玉ノ井の通称「お歯黒ドブ」と呼ばれる売春宿の下水溝で、ハトロン紙(薄茶色の丈夫な西洋紙。クラフト紙)に包まれた男のバラバラ遺体が発見された。
包みの中身は推定30歳くらいの男の首、乳首から上の胴体、へそから下の腰部であった。
この事件については当初、「コマきれ殺人」、「八つ切り殺人」など、さまざまな表現があったが、東京朝日新聞(現在の朝日新聞)が用いた「バラバラ殺人事件」という表現に統一され、以後の同様の事件報道において定着することになった。
事件の経緯
1か月たっても被害者の身元は不明のままであったが、水上署の巡査が3年前に尋問した浮浪者Aさん(27)に似ていることを思い出した。
捜査の結果、Aさんは長谷川市太郎(39)宅で家族と同居していたが、行方不明となっていたことがわかった。
市太郎を追及した結果、弟の長太郎(23)と妹のとみ(30)と共謀して、Aさんを殺害したことを自供した。
供述から被害者の両手足は弟の勤務先の東京帝国大学の印刷所の空室の床下から、胴体中央部は王子の陸軍火薬庫裏のどぶ川から発見された。
Aさんは資産家と偽って長谷川兄弟を騙しており、謝礼を払うからと嘘をついて家に居座っていた。
追い出そうとすると「(市太郎は春画を描いて生計を立てていたため)警察に訴える」と一家の弱みに付け込んで脅迫を行い、働かず兄妹に暴力を振るうようになったため、一家は次第にAに殺意を抱くようになっていった。
市太郎と長太郎はAの殺害を決意し、スパナとバットを準備して機会を伺っていた。
ちょうどこの時期、とみの赤ん坊が死亡したことから、長太郎も印刷所を休み、葬式などを行っていた。
これが一段落した2月11日、とみが赤ん坊の位牌に合掌していたところ、Aが「あてつけがましい」といって殴りかかった。
止めに入った市太郎と長太郎がスパナでAを殴って殺害した。
Aの遺体を2日間にわたって兄弟2人でバラバラに切断した後、24日の午後7時頃、まず市太郎が腹の部分を風呂敷に包んで持ち出し、王子で遺棄した。
首と胸と腰の3つについては、3月6日午後8時頃、行李(こうり。竹や柳、籐などを編んでつくられた葛籠の一種。直方体の容器でかぶせ蓋となっている。)につめて妹の手荷物を装い、タクシーで玉ノ井に運んで遺棄した。
手足については3月8日朝6時ごろ、前夜から宿直していた長太郎のところに持ち込んだものであった。
遺棄した時間帯が夕刻であったにもかかわらず、堂々と遺体を持ち運びして遺棄するといった大胆な行動の目撃者は皆無だった。
関東大震災後の道路整備により、市太郎宅からタクシーに乗ればスムーズに玉ノ井まで来られたことや、凶作で地方から多くの女性が柳行李ひとつ持って仕事を求める姿が日常茶飯事であったからである。
大きな荷物を持ってタクシーに乗っても、運転手にも周囲の者にも怪しまれなかった。
バラバラにした動機は猟奇的指向ではなく、単に遺体の運搬をしやすくするためであったといえる。
当初市太郎は弟妹をかばうべく、自分の単独犯行であると主張した。
そしてAの遺体をバラバラにした心理を「この足で母を蹴った、この手で妹を殴り、弟を殴った。こうしてやるぞ、こうしてやるぞと歯軋りしながらやった」と供述した。
判決
市太郎に懲役12年、長太郎に懲役6年、とみに懲役6か月・執行猶予3年の判決が下った。