声をかけたが無視され激昂し殺害。犯人は被害者の月命日に自殺。
1997年5月4日午後、奈良県添上郡月ヶ瀬村(現・奈良市月ヶ瀬)にて、村内に住む中学2年生・浦久保充代さん(当時13歳)が卓球大会からの帰宅途中に行方不明となった。
7月23日、同村に住む丘崎誠人(当時25歳)が逮捕された。丘崎は車から下校途中の保充代さんに「乗っていくか?」声をかけたところ、無視され激昂し、殺害していた。
事件の経緯と動機
両親と兄弟は姉が3人、妹が1人。両親はともに日本人と朝鮮人のハーフ。内縁関係の夫婦で、土木の仕事に就いていた。父は無口、母親は気性の激しい性格だったが2人とも働き者で通っていた。長姉は村に一軒しかない居酒屋で賄いをしていた。
集落には茶積み農家しかなく、丘崎一家は浮いていた存在だった。封建的な村社会の中、朝鮮人の血が入っていることから丘崎一家を「朝鮮が!」と見下す者もいたという。家は藪に囲まれたあばら屋のような借家であり、この家を借りることができたのは民生委員であった充代さんの祖父の計らいによるものだった。家賃は月々1万円程度。一家は30年以上、村に住みながら「区入り」(村の一員に加えること)を認められていなかった。
丘崎が小学3年の頃、嵩の公民館で放火事件が起こる。村人は誰もが丘崎の仕業だと思った。
本人に問い詰めることはしなかったが、この事件を境に村人の丘崎に対する目は一変する。親達の中には丘崎を避けるように子供に言い含める者もいた。以来、ビニールハウスが燃えたり、祭りで現金が紛失したりすると、まず丘崎が疑われることになった。この事件後、丘崎もガラッと変わり、誰とも遊ばずに家にいることが多くなった。
中学2年になってからは学校にほとんど来なくなった。登校しても、廊下でぽつんと1人立っていたりして友人はいなかった。家にこもっている時はなにか気に入らないことがあると母親を怒鳴ったりと、家庭内暴力の影も見えてくるようになった。卒業証書を同級生が家に届けに来てくれたが、丘崎は破り捨て燃やした。また卒業生1人1ページずつ綴る卒業文集には彼のページはなかった。不登校の原因については「教師からの体罰であった」と丘崎は主張している。
卒業後、測量のアルバイトをはじめた。
1988年(丘崎16歳)、大阪、そして東京に調理師として住みこみで働いたが、性に合わず村に戻ってきた。以後、土木作業員や警備員、左官業などを務めたがどれも半年も続かなかった。TVゲームなどを夜遅くまでして、朝起きられないからだと言う。
事件当時、すでに二女と三女は独立し、両親と四女、長姉とその子供3人の8人で暮らしていた。丘崎はあいかわらず無職で、地域住民との摩擦が耐えなかった。TVゲーム、ビデオ、車にばかりのめりこむ。3月に三菱ストラーダを購入したばかりで、カーステレオでドリカムやチャゲ&飛鳥の曲を聴くのが好きだった。滋賀県・雄琴の風俗街へはたびたび遊びに行っており、犯行前日にも行っている。
5月4日、充代さんを殺害。犯行後は車を修理・売却するなど隠蔽工作を行ったり、村民1000人を動員した捜索にも何食わぬ顔で参加した。
まもなく疑惑の人物として丘崎の存在がクローズアップされるが、報道陣を前に怒鳴り散らし、潔白を主張。逮捕前日、マスコミとの間で自動車の接触事故を起こした。
逮捕後、丘崎は次のように供述した。
「断り方も知らない奴や。”もうすぐ家やからいいです”、くらいの言い方あるやろう」
「俺をよそ者やと思ってるから無視しよる。返事もしやがらん。嵩の者は俺を嫌っている。この女も一緒や」
「許さん、車を当てて連れ去ってやろう。これまでの恨みを晴らすええ機会や」
「てんご(いたずら)するつもりだった」
「俺や家族をよそ者扱いする村の人間、風習、しきたりがすべて嫌いだった」
「幼少の頃から貧しい家に育ち、嵩地区の他の家と同様のレベルの生活をすることができなかったことに加え、母親が文盲で、しかも父母の姓が異なっていたことなど、他人とは異なるという認識を持っていた」
判決とその後
2000年6月、大阪高裁は一審判決を破棄。無期懲役を宣告した。上告を勧める弁護団に対し、丘崎は訴えの取りさげを希望。刑が確定した。
2001年9月4日午後8時頃、大分刑務所の独居房で丘崎が首を吊り自殺。享年29。遺書はなかった。4日は充代さんの月命日だった。