社会問題

池袋・母子「餓死日記」事件

「私は、本当に、生まれが、悪く、生きてゆく事が、苦しい。死にたい」助けを求める声、届かず。

1996年4月27日、東京・豊島区池袋のアパートの一室で、この部屋に住む無職・A子さん(当時77歳)と寝たきりの長男・Bさん(当時41歳)が亡くなっているのが発見された。

死後約20日ほど経過しており、死因は餓死であった。

親子は、1985年にこのアパートに越して来たが、1992年3月にA子さんの夫が病死しており、部屋には食料も現金もほとんどなかった。

唯一、部屋にはA6判のノートに記された、A子さんがこの年の3月11日までつけていた日記10冊が残されていた。

日記には天気、その日に買ったもの、支払った公共料金、夫へのお供え物のことなどが細かく書かれていたことから、律儀かつ几帳面な人物だったことがうかがえた。

1993年~1994年頃はそうした事柄が淡々と書かれているだけの日もあったが、後半には現状の苦しさや、将来への不安などのことで長文になっている。

当初、「プライバシー保護」を理由に日記の公表を拒否し続けていた豊島区であったが、6月14日、「餓死した背景を明らかにする社会的意義がある」ということから、豊島区は「豊島区情報公開条例」に基づいてこの日記を公開した。

以下に、この公開された日記の内容を引用しておく。

母親の残した日記(区の発表したもののみ抜粋)

1993年12月31日
「ただ心配なのは、来年、私しと、子供はどうなるのでせうか。後少しのお金で、一年持つか、持たないかの不安と、同時に、其の後は、どんな生活に、成るのでせうか」「相談する人もないし、役所などに相談した所で、最後は、自分で、決めねばならない。子供が、病人である丈に、非常に、心配で、たまら無い。私が、働けるとよいけれど、今の所、全身が悪いのでどうする事も出来ない」

1994年1月1日
「後、少しのお金を、やりくりして使っても、外に収入が無いので、この先、どんな生活を、するのでせうか、お正月、早、早、すみませんが、今後の私共の行くべき道を、お教え下さい、毎日が、どうしてよいかわかりません」

1994年1月8日
「私は、毎日、毎日、全身がきつくて、動くのが、大変苦しい」

1994年1月15日
「昨年十二月から、今年にかけて、寒さがきびしく、冷えがひどい、暖房がないので、手など、たまらない程冷える」

1994年2月26日
「私は全身のきついのが、どうしても、良くならない。かえって、悪るく日増にひどくなり、耳なりなどはめちゃくちゃに、両耳に、あらゆる音の雑音で、気がくるいそうにひどすぎる。鼻の中のカサ、水分不足などで、痛いのと、苦しい、家の中で一寸動いても、きついので、外を歩くのはたまらない程苦痛がひどい。良い所は、一つも無く、すべてが、悪いので、どうしようもない。何時までこの苦痛の毎日は、つづくのだろうか。早くこの世を去りたい」

1994年3月4日
「毎日、毎日、こんな風で今後は、どう成るのだろうか、家の中でも、立ったり、すわったりに、一ぺん、一ぺん、痛い苦しいと、うめき通しで、子供が病人丈に、手伝しても、もらえ無い所か、私が、仕手やる方が多くて、苦しいのをガマンして、子供に、いろいろと、仕手やっているが、この状態で、どう成るのだろうか、どうしたらよいのか、今は、ぜんぜん分から無い」

1994年3月7日
「食後に、子供が、足の爪を切ってくれと言って、その後、今後は、ヒゲを切ってくれと次々させられたが~(中略)、不安な毎日で、自分の身体をもてあましている上に、子供の病人の世話で、つかれきっている」

1994年3月23日
「現状の様子では、今年が、最後に成るのではないかと、不安で、たまらない、後少しのお金で、毎日の生活も、はら、はら、だけれど、来年はまた(アパートの)再契約をしなければ、おられないし、収入が無いので、私しの少しの年金では食べて行く事さえ出来ない。再契約すると、一時出すお金だけでも、三十万以上は入るのに、どうして今後、子供と、私は生活して行くのだろうか、外に家を借りるお金もない。第一、貸してもくれないだろう」

1994年8月18日
「私は、本当に、生まれが、悪く、生きてゆく事が、苦しい。死にたい」

1994年11月18日
「どこもだけど、特に、私共の周囲には、強い因縁をもった人が多くて、(間違った事)(自分本位の事)(人に迷惑をかけても、平気な人)悪の世の中で、結構な生活をして、楽しみ、金使いもあらく、つまらぬ者を、みくだし、こちらから、アイサツしても、知らぬふるどころか、カタキの様な態度を取られたり、人間の道はずれても人々から、ちやほやされるなど、どうしても、私には腑におちないが」
「子供は、二十年ばかり、外出した事なく、世間の事は何一つ分からないし、自分のおる所さえ、知らないので、私は、子供を守ってやらぬと可哀想で、子供は欲が無いし、悪が無いので、人をうたがったり、けいかいしないから、人を信じて、だまされは仕無いかと、何時も、頭から片時も、不安が取れない」

1995年1月26日
「私は、一月一七日(火)より、十日にもなるのに、具合の悪いのが、一向に良くならない。ふらつき、頭痛、熱、心臓と、どうも、こうも全身がきついし、水でひやしても熱が一向に取れない、一寸動いても、たまらない程の苦しさで、身体がふら、ふらして、真すぐに歩けない。何だろうか、わけがわからない、どうしたらよいのだろうか。家も三月までしかおられないし、心配である」

1995年2月21日
「私と子供は、来月三月までで、一応、期限が来るけれども、行く先もないし、又、再契約すれば、大金が入り、家賃も上り、いくら、無理しても、夏頃までしか、お金が、つづかなくて、その後の事が又心配である。それに、子供の年金を、おさめると、生活が出来ないし、免じょの手続きを出しても、受付けてはくれないだろうし、あれも、これもと、心配が多くて、今後のこと、どうしたらよいか、毎日、その事で、不安が一ぱいである」

1995年2月25日
「お陰様で、三月分まで、無事、家賃を、すまさせて頂きまして、有難うございました。外に家が無いので、無理でも、しばらく、おらせて貰うために、再契約を、たずねたところ、家賃は、今まで通りでよいとの事で、契約更新料一ヶ月分と、不動産の手数料が、半月分で、42500円、家賃85000円、更新料85000円、手数料42500円、合計212500円の由、五年にもらった契約書を、もって行く由」

1995年3月16日
「(長男の国民年金督促を受け)朝9時10分頃、国民年金課に電話して、免除の用紙をたのんだ。無事にきます様に、お願します」

1995年3月29日
「朝、年金係の人からの手紙が入っていた、昨日来たのだろう、うちが、お金に困り、後、暫くしか、ここにおれないのを読まれて、相談する様にと、区役所と、西福祉事務所など、教えて、かいてあるが、私共はここが、最後と言って有るし、自分で、家さがしも出来ないし、家に入らないとも言ってあるので、それに、良い人が、世話されると、よいが、悪い人に、あたったら大変と、聞いているので、今は、最後まで、ガマンする」

1995年4月29日
「私と、子供は、お金が無くて、家賃を、払えないので、八月か九月までしかおられない。少しでも長くと、節約しているけれども、家賃が高いので。少しでは足りない、お金がさえあれば、後二年は、おられるけれども、後、私共は、どこに行くのだろうか。不安である」

1995年8月11日
「子供の平成七年四月から平成八年三月までの間の免除の通知書がきた」

1995年8月25日
「家賃は、おさめさせて頂きましたが、生活費がありませんし、来月も、家賃をおさめたら、後、生活費がないので、不動産のかえりに、質屋をさがして、たずねたが、何でもは出来ない、電気品丈と、言われたが、うちのは十年以上の品で、お金にはならないし、今後どうやって、生活したらよいか、毎日、不安で、何時まで、ここに、おられるのだろうか」

1995年10月6日
「又、何時まで、ここに、おられるのか、家賃を上げたら、生活費がありませんので、食べて行けないし、二ヶ月に一ぺん(85650円)年金を頂いても、全部家賃に出して仕舞って、又、二ヶ月だから、毎月の家賃が、払えません。今年一ぱいも、おられるかどうか、不安で、毎日、毎日、心配しております」

1995年10月14日
「子供は、今月10月1日(日)よりきついてと言って朝、一回食事に起きた後は、すぐにフトンに、やすんでいるが、一寸起きては、すぐに、フトンにやすみ通しで、どこが悪いのか、ただきつい丈言ってはっきりしない、ひどい病気にならぬとよいけれども」

1995年11月30日
「いよいよ今年も終わりの月になりました。私と、子供は、今後、どんなにして、生活してゆくでのせうか、毎日、生活費がたりなくて、ハラ、ハラして使っておりますが、いよ、いよ、十二月で生活費は、もう年金からは、入りませんし、一月家賃分丈でも、おさめられたらよい方ですが。家賃は上げても、生活費がありません。十二月分の生活費でも、十分ありません中から、無理に、少し残して、一月の始丈でも、何んとか、食べて行かれる様に、しようと頭を、いためておりますが。それも、ほとんど、あてにならぬ程の、お金ですから、それが、一銭も、無い様になくなってしまったら、後は、のまず食はずで、どんなにしたらよいのでせうか、役所などに頼むようにと、おしえられましたが、私共は、普通と違う丈に、一般の人、同様には、してもらえないでせう。今後どうして生きて行くのでせうか早く、死なせて下さい。子供と私を一緒に死なさせて下さい。外に方法がありません。子供は病気で何一つ出来ません、まして私は腰から下の激痛で、毎日、毎日苦しんでいる状態で、家の内でも満足に歩いたり、動けない上に、外出して歩くのが全然できません」

1995年12月7日
「朝9時半すぎに、電話を買ってもらうために、日本電話通信センター株式会社に電話して、5万5千円で買取ると言われ、先に電話を電話局に、止めてもらう様にして、書類がきたら、印かん証明も取りよせて又、電話してくれと言われたので、すぐに電話局に、(一一六番)にかけたところ、すぐに止めるけれど、書類は、来週か次の週になるだろうと言われ、電話器を取りに、来週月曜日の夕方、五時頃来るからと言われた」

1995年12月18日
「今日、私は、七十七才の誕生日を、迎えさせて頂きまして、有難うございます」

1995年12月24日
「明日は、無事に、来年一月分の家賃を、おさめさせて下さい、これが、最後の家賃になりました。私共は後、どこに行き、どんなになるのでせうか、家賃どころか、生活費も有りません。電話は、連絡先がないから買っては、くれないでせう。後は、今少し丈のお金で、一月はお金が無く生活できません。こんな風で、子供も、毎日、食事が足りなく、お腹をすかしており、私もお腹がすきどうしですが、もうこれ以上はのぞめません。一日も早く、死なせて下さい、もう食事もあまり出来ませんから」

1996年1月11日
「私は、入院しながらのこの家に、転宅して来たが、ここに来たのと同時に、三人共、病気、病気でお掃除どころではなく、毎日病院通いを、主人と私はするし、子供は来た日から、寝込んで、動けないし、その後は主人が、六年間寝たぎりになられた後、亡くなられるし、私は、二人の看病と、自分の病気を、無理してきた結果、具合は、ひどくなるし、腰は、動けなく、買い物に歩くのに、大変な苦痛をガマンして来た結果、今年一月二日から又、又、腰は、ぜんぜん、動かなくなって、フトンは敷どうし、何一つ出来なく、家の中はホコリだらけで、子供もきつい、ふらつくとて、一日中毎日休んでいるし、台所に、立てないので、少しづつ、お菓子等ご飯がわりに、二人とも食べているが、おかずも、果物もないし、本当に苦しい」

1996年1月28日
「二月分の家賃を、すぐには、おさめられません。これが、どんな風になるのでせうか、やかましく言ってこられて、追出されるのでせうか、それが心配です。それに、三月分からは、家賃も、生活費もありません。どんなに、私と子供は、なるのでせうか、行く所もありませんし、区役所に、たのんでも、私と子供は、生活できませんでせう、運命がちがうので、共同生活も出来ませんし、今後私と子供は、どんなになるのでせうか、不安でたまりません、私も子供も、病人ですし、どうしたらよいのでせうか、何卒お助け下さい、お願いたします」

1996年2月7日
「私も子供も気分が悪く、長い事、同じお菓子ばかりで食事をしてきたが、どうもいけなくて、何か変わったものをほしくて仕方がない。ミカンを初めて食べた」

1996年2月24日
「今日は、主人の命日だけど、十一月から、とうとう、別のお台に、お供えが出来なくなって、毎日の私共と一緒の、お供えになってしまってすみません。私は、すべて、出来なくなってしまいました」

1996年3月8日
「私共は、もう長い間、まともな食事を、していない上に、子供も、私も、一寸丈のお菓子で、一日を、過ごしているが、無理に、日数をのばしているので、いよ、いよ、明日か、明後日が、私共の食事の終わりになる。毎日、毎日、子供も、何かほしい、も少しほしいと言うのを、ガマンさせてはいるが、私自身も、子供より、大分少なく食べているので、その苦しさは、たまらない。きれいに、食べ物が、なくなった後は、お茶丈で、毎日何も食べられないが、そのお茶も、後少し丈になってしまった。(28円)丈、残しているが、これでは、何一つ買えない。子供が、すいじゃくして、死ぬのではないかと、それが心配である」
「区役所等に、たのんでも、私共は、まともには、世話してもらえないし、どんな所に、やられて、共同生活をしなければ、出来ないかを考えると、子供も私も病気で苦しんでも、だれも、分かってもらえそうにないので、今の自由のきく生活のままで、二人とも死なせて頂きたい、ただ、子供一人丈先に死んだら、どうしようかと、それが、心配である。二人共一緒に死なせて下さい」

1996年3月9日
「何も、良い目を受けたいとか、特別に成りたいとか、子供も、私も、望んではおりません、平凡な一生を送らせて頂けなかったのは、何か私共に、原因が、有りましたのでせう、最後に、不足ばかり、のべまして、申しわけございません」

1996年3月10日
「後、きれいに、なくなったら、気が狂うのではないかと、思う程、私は、毎日、毎日が、何んでもよい(食べたい)、(食べたい)と、言う気持ちで、何時も、頭から食べ物の事が、はなれなくて困る、なぜ、こんなになったのだろうか、20才の頃は、三年間、ほとんど、私は、食事はしなかったが、ぜんぜん、どうもなかったのに」

1996年3月11日(最後の日記)
「とうとう、今朝までで、私共は、食事が終った。明日からは、何一つ、口にする物がない、少し丈、お茶の残りがあるが、ただ、お茶丈を毎日、のみつづけられるだろうか」
「もう長い間、昨年1月17日からの病気が、直らない上に、次、次と、病気、病気が、その都度、新しくおこって、私は(ふらつき)が、どうしても、取れない、夜、フトンに、休んでからは、一寸横を向いても、ふらつくので苦しい」
「私は、今朝、夢の中で(歯が、全部ぬけた夢)を見ているが、これは身内に死人がある知らせと、聞いているので、子供が、先に、死ぬのではないかと、心配である。一緒に、死なせて頂きたい。後に残った者が、不幸だから」

ちなみに、全文は書籍化されており、2016年7月1日にピンクの装丁の初版、2017年12月20日に赤い装丁の新装版が発刊されているので、そちらでお読みいただけたらと思う。

その後

日記や報道から浮かび上がった母子の生活状況

11日の日記を最後に、3月12日から、亡くなられたとみられる4月の初めまで、おそらく日記も書けない状態になり、歩くこともできず、横になっていたのだろうと思われる。

ちなみに、最後のノートには「69番」という番号がつけられており、かなり昔から日記をつけ続けていたのものと思われるが、死後に発見されたのは夫が亡くなった後に書かれた「60番」から「69番」までの10冊のみだった。

日記は誰かに報告するような感じで書かれているが、これは死後、世に公表されることを見越していたとは考えづらく、「有難うございました」というような言葉の多用については、おそらくは信仰する神のようなものに対して報告していたものだと思われる。

ちなみに、母子が「何年も風呂に入っていない」という記述がみられるが、アパートに風呂はあった。しかし、「指の病気で料理ができない」という記述から、入浴にも何か支障があった可能性がある。

また、テレビもあったが、封をしてまったく見ていなかった。これは光熱費を節約するためとも考えられるが、その一方で、新聞だけは直前までとりつづけていた。購読料は月3000円以上しており、1995年8月以降、きりつめて数百円のお菓子を食べ続けなくてはならなくなっていた母子の経済生活からすれば、かなりの出費に思われる。

池袋という街ゆえに家賃の85000円というのが高く、母子の家計には非常にネックになっていた。2年に一度と思われる更新料も合わせて20万を超えていた。

当初報道されたように、A子さんが受け取っていた老齢年金が月十万円という金額でも、このアパートで暮らし続けるにはかなり厳しいが、実際には1995年10月6日の日記にあるように、二ヶ月に一度86560円を受け取っていただけである。

これだけでは毎月の家賃にも足りず、蓄えを切り崩しながら生活をしていたと思われる。他の家賃の安い住宅に移るという方法がもっとも現実的に思えるが、誰にも相談せず、また、病気のA子さん一人で家探しをするのも難しい状況で、自分たちだけで引越し作業をしなければならなくなる、ということにも厳しさがあったのだろう。

「病気の子供」とされる息子のBさんは、生まれながらに病弱で、また、20年間外出していないと日記にあるため、その症状を知る人はほとんどいないが、寝たきりであったことは日記から読み取れる。ところが、障害者手帳などの申請はされておらず、生活保護という手段も考えられただろうが、この選択がとられることはなかった。

A子さんのそれまでの人生については、日記を除いてほとんど情報がない(報じられていない)。

日記には、買い物をしたお菓子などのことは詳しく書いており、また、外出時の服装なども西武や東武百貨店の○○のカーディガンなど細かく書いてあったとされるが、A子さんやその家族の実態については、日記からはほとんどわからない。

A子さんにとっての日記は、あくまで「覚書」であったとみられるため、過去の思い出話をわざわざ書かなかったのかもしれないが、それにしても膨大な文章であるにも関わらず、A子さん自身に関する記述がほとんどないことは不思議に感じられる。

ただ、夫に先立たれ、病気寝たきりの子どもを抱え、A子さん自身も病魔にさいなまされていくという状況のなかで、だんだんと孤立していったのではないかということは、推測できるだろう。

区の対応と、世間の反応

1996年6月14日、「プライバシー保護」を理由に日記の公表を拒否し続けていた豊島区であったが、一転、「餓死した背景を明らかにする社会的意義がある」ということから、「豊島区情報公開条例」に基づいてこの日記を公開した。

日記を分析した区は「生活保護の申請など社会に訴える考えはなかったようで、母親が抱いていた世界観で自ら死を選んだ」との結論をくだしたが、しかし、事件が報道されると区への批判が殺到した。

さらに、区側による「プライバシーの侵害の恐れのある日記の内容公開」や、それについて「都議に虚偽の受け答えをしていた」ことから、区長ら幹部5人が、減給などの処分を受けた。

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