共同記者会見や現場中継が行われ、マスコミによって犯人が「英雄」かのように扱われた事件
1968年2月20日夜、静岡県清水市のクラブで、在日韓国人二世の金嬉老(きんきろう、当時39歳)が、知人であった暴力団・稲川組組員の2人を射殺。そのまま逃亡した。金はその足で、寸又峡温泉の旅館「ふじみ屋旅館」に向かい、旅館の一家と客の計16名を人質にとり、篭城した事件。
金は「警察の民族差別発言の謝罪」や「暴力団員の悪の公表」を要求し、記者会見を何度も開いた。それによって、殺人事件は「差別の告発」という民族問題の告発へとすり替えられ、金は次第に自分の犯行を正当化するようになった。
各テレビ局のワイドショーは人質被害者の安否や被害者家族の意向などお構いなしにスタジオから「ふじみ屋旅館」に独自に生電話を入れて視聴率を稼いだ。一部のメディアは、銃を持って戸外を警戒している金嬉老に対し、「金嬉老さん、ライフルを空に向けて撃ってくれませんか」と要望を出し、金嬉老が空に向かって数発、ライフルを乱射しているところをカメラで写して演出までした。また、金嬉老の本国である韓国でも大大的に報道され、金嬉老は殺人および監禁犯であるにもかかわらず「差別と戦った民族の英雄」として祭り上げられた。
金嬉老は静岡刑務所未決監独房に身柄を移され殺人罪、逮捕監禁罪、爆発物取締罰則違反で起訴された。裁判では金嬉老の在日韓国人としての生い立ちがどれ程の影響を与えたかとかが主な争点となった。
その後、金嬉老の独房は施錠されておらず散歩や面会なども自由で脱獄手段に用いられる出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを持ち込んでいたなど、裁判中に刑務所内での金嬉老に対する特別待遇の実態が判明した。
犯行の経緯と動機
借金
1968年2月20日午後8時半ごろ、静岡県清水市旭町のクラブ「みんくす」の客席で、4人連れの1人の男が、他の2人に向けて、いきなりライフル銃を7、8発乱射した。男は逃げる途中、出口付近でさらに1発撃ち、店の前にとめてあったクリーム色の乗用車に乗って逃走した。
死亡したのは清水市の暴力団稲川組静岡大岩支部の土建業S(36歳)と、焼津市の同組準構成員(新聞報道では家具販売手伝い)のO(18歳)の2名だった。ひょっとこや唐獅子牡丹などの刺青に彩られたSの体には6発もの銃弾が打ち込まれ、うち1発は心臓に命中しており、即死状態だった。
同席しながら難を逃れた男性(当時22歳)の話から、逃げた男は「金岡安広」こと掛川市の金嬉老(当時39歳)ということがわかり、警察は各署に手配した。
クラブのホステスによると、金はよく仲間と連れ立って店に遊びに来ていたという。この日の午後7時すぎ、まず金を除く3人が、ステージから最も離れたロイヤルボックスに入った。
8時頃に金はやって来たのだが、「金を返せ」「待ってくれ」のやりとりがあったあと、金は「電話をかけてくる」と言って席をはずし、30分後に戻ってきた。そのとき、ライフル銃を持っており、フロントが注意すると、冗談のように「邪魔すると撃つぞ」と言って、席に戻り、2人めがけて発射した。
金が逃走に使った車両は、プリンススカイライン1500とわかった。ただ緊急手配の第一報では「いすゞのペレット」とされ、静岡市内で「ペレットが検問」という事件と無関係の情報が入るなど、検問情報が入り乱れた。
午後11時半、清水市新川の商事会社社長から、「金が立ち寄った」という有力情報が入る。これが金の足取りをつかむ最初の情報だった。
約1時間後の21日午前0時20分頃、清水署に金から電話が入った。金は同署刑事一課のN巡査部長を名指しで呼び出し、「手形のもつれからやってしまった。あなたにしか会いたくない」と話した。N巡査部長はなんとか電話を引き伸ばし、逆探知に成功。居場所が榛原郡中川根町(現・川根本町)付近であることをつきとめた。
同署はN巡査部長を中心に、30人の武装警官と県警本部特別機動隊のパトカーを出動させ、島田署からも警官10人を、大井川沿いに中川根町方面に出動させた。さらに電話で金本人の口から、本川根町の「ふじみ屋旅館」にいると伝えてきた。
金嬉老について
1928年、朝鮮生まれ。戦中に静岡県清水市にいた後、掛川市に移った。日本名は近藤安広、また金岡、清水とも名乗った。本名は権嬉老(クォン・ヒロ)。計7つの名前があったという。
父親は丹那トンネル工事にも従事した人夫頭だったが、1931年(昭和6年)に港の荷役作業中に事故死、母と再婚した飯場小頭の男と一緒になる。生活は苦しく、金は小学校を5年で中退して丁稚奉公に出る。
1943年に窃盗で捕まり、朝鮮人少年だけの少年院で敗戦を迎えた。その時、悔しがって泣いた。「泣いて放送している天皇がかわいそうでなりませんでした」と手記で述べている。この頃、特攻隊の制服で、白い絹のマフラーを巻いて歩き回っていたという。
戦後は窃盗、詐欺、強盗などで刑務所を出たり入ったりし、20年間で15年以上は服役期間だった。事件までに前科7犯。獄中で勉強し、自動車整備士免許をとったが、出所すると敬遠され、就職はうまくいかなかった。
1948年ごろ、服役中に恋人が警察官と結婚していることを知り、失意の自殺を図る。
掛川で飲み屋を経営。店は妻に任せてぶらぶらすることが多かった。精神病患者だった実父は事件前年の6月に自殺、金自身もこの年の末に離婚した。妻は日本人であり、朝鮮人であることを知られたことがその理由とされたが、女性問題のことなどもあったようだ。
事件前、金は手形を担保にして知人から18万円を借金した。この借金は中古車で弁償したが、手形は金の元には戻らず、ある暴力団幹部の手に渡った。これが射殺されたSである。これ以後、金はSから脅され続けた。
まずSたちは手形をたてに、金から35万円を取り立てようと図る。金は九州から青森まで逃げ回ったが、横浜にいるところをS一派に発見される。そこで金はSに「返済」を約束し、8月20日に「みんくす」でおちあうことにした。
事件当日、まずSと他2人が「みんくす」に到着、続いて金も訪れた。金はここでSに「朝公がちょうたれたことをこくな」と罵られ、そのSと子分Oの2人をライフル銃で撃った。
籠城
1968年2月21日、金は大井川の上流、南アルプス南端の寸又峡温泉にある「ふじみや旅館」(榛原郡本川根町 現・川根本町)に押しかけ、旅館の家族と宿泊客計16人を人質にとり、たてこもった。
当時、寸又峡温泉には15軒の旅館が散在していた。そのなかで金が「たまたま目についたのが、ふじみ屋旅館だった」(供述より)という。
この旅館には経営者(当時34歳)の一家6人と、発電所工事などで愛知や横浜から出張していた客10人がいた。
「私は今、清水でもって暴力団と問題があってそれを殺してきた。それで来る途中(ラジオニュースで)いま1人の人間が病院で息をひきとったということも聞いた。これからどうしても警察相手にしたいことがあるから、あなた方には危害は絶対加えないから、協力してもらいたい」
金はこう言って客たちを叩き起こしたあと、全員を集合させ、次のように話を続けた。
「準備を終わってからみなさんの前へ土下座をして、私がなぜ関係もないみなさんに対してこんなことをしなきゃならないのか、申し訳ないと思う。申し訳ないではすまないと思う。したがってその責任は、私は結果的には自ら死をもって謝罪します。私は子どもの時から、朝鮮人だ、朝鮮人だ、といって日本の人たちからずいぶん惨めな思いをさせられ、自分の感じやすい気持ちを傷つけられ、自分の母や兄弟、自分の同胞たちのいろんな面を見てきております。だからそういう面について、それが要するにこういう事件に大きな動機としてつながっているんだ、ということをその人たち全部に言っております」
その後、自ら警察に居場所を通報し、警察が民族差別について謝罪する事を人質解放の条件とした。
英雄
出動した警官は旅館街へのルートを閉鎖し、遠巻きにして警戒したが、金はスコープ付ライフル銃(M1カービン用の30発弾倉を取り付けた「m300」)、実弾1200発、それからダイナマイト13本を持っていたため、うかつに近寄れなかった。近隣の住民にも避難警告を出した。
このあいだ、金は新聞社に電話をしたり、金は「木島則夫モーニングショー」(NET系)に電話出演していた。(6分間の生放送)
「私が死ぬのは時間の問題だ。世間を騒がせたことに対し自分で死刑を執行することだ。今度の事件の裏には。子どものころからの心の中にひっかかっていた朝鮮人という差別の問題がある。ごく最近のことだが、ある刑事から朝鮮人じゃないかとけなすような言葉を直接いわれ、心が煮えくり返った。このことをマスコミを通じて釈明してもらわないうちは死なない。罪のない旅館の人たちに迷惑をかけたことは申し訳ない。この責任は死んで償う。私の起こしたことをみて、若い世代の人が悪の道に染まって、ひきずられないようにしてほしい」
早朝、N巡査部長ら2人が、金と面会。金は「小泉巡査の朝鮮人差別発言を謝罪しろ」「静岡新聞とNHKの記者に会見させろ」という2つの要求を出した。
この要求により、NHK・村上記者と静岡新聞・大石記者が金と会見。「警察はS一派の悪を公表しろ」「小泉巡査は差別発言を謝罪しろ」という2つの要求を示した。金は2人の記者に「遺書」と称した日記帳を手渡した。
遺書
「清水署の小泉!お前が昨年秋にいった『てめい等、朝鮮人が日本え来てろくな事をしない』とか大きく恥しめ言葉をはいて俺がお前に電話をしたのを覚えているか。返礼する時が遂にやって来たようだ。俺は自分の言葉に代えてお前の取った態度に答えてやろう」
「13歳位からどれだけ清水署にいたみつけられて来た事か知れない。俺はあのひでい刑事等のつらを想うと血がにえたぎってくる。今は家も妻も総て失い敢えてそうなった俺は死があるのみだ」
「夕暮れに小鳥さえずる声聞けば我れ帰りたや母待つ家に」
「ふまえて枯るる我が身には明日の墓標も立つ事なし」
本人自筆ママ
正午ごろ、人質のうち2人が隙を見て脱出。午後0時40分とその5分後、金は2度にわたりダイナマイトを1本ずつ爆発させた。さらに空に向けて10発を乱射したり、畳をかさねて防御壁を作ったりしていた。
一方、警察側も説得工作に報道を利用した。午後3時、ニュースで清水署長が次のように訴えかけた。
「金さん、あなたの言い分もあるでしょう。警察も悪い点があったと思います。しかし、今はこれ以上みなさんに迷惑をかけないことが第一です。早く自首してください」
午後5時ごろ、警察庁の要請で、愛知県警の装甲車が出動した。
英雄
22日未明、金は暗闇の中、少しでも動くものがあればライフルを浴びせた。
5時半頃、旅館主から警察に電話が入る。それによると、階下10畳の間にいた妻子4人を2階6畳間に移し、金もその部屋にいて、火鉢のすぐそばにダイナマイトの束を置き、ライフルも常に手にしたままだという。
「警察さえ向かってこなければ、人質には迷惑はかけない」と言っているが、旅館の玄関にはダイナマイトを接続した電気コードを置いていて、傍のソケットに差し込めば、すぐに爆発できるようにしてた。また部屋の壁には「罪のない家族に迷惑をかけて申訳ない。死んで罪を償う」「お母さん、不幸を許してください」と墨で書いた。
朝7時、高松静岡県警本部長が、テレビで自首を呼びかける。
「昨年7月、清水署の事件の取り扱いについて、君には不満な点があると聞いているが、われわれにも直すべき点があると思う。この事が原因で罪のない子ども、関係のない人を傷つけることは、君にとっても、世の中にとっても、一番まずいことだ。男らしく出てきて、君の不満をぶちまけてはどうだろうか。われわれにもそれを聞く用意が十分ある。それが君のため、世の中のために、一番良い方法だと、よく考えて欲しい」
金を「朝鮮人は日本へ来てろくな事をしない」「朝鮮野郎」と軽蔑した清水署の小泉刑事も謝罪放送したが、金は納得しなかった。小泉刑事の謝罪放送は10時にも録画再放送された。
8時20分、金は朝のNHKのニュースで、自身の日記が公表されたことに気をよくし、人質のうち旅館主人の妻英子さんと子どもの4人を解放。だが英子さんは「旅館のお客さんに悪い」と言って、自分で旅館に戻って行った(この時点で人質の人数は13人)。
それ以後も客の食事の世話をするために、母屋と宿を往復した。解放された小学1年の長男(当時6歳)は「そんなにこわくなかった」と語っている。
山越えしてきた十数人の記者団が寸又峡温泉に駆けつけてきはじめた朝、金は記者団を招き、「小泉刑事が謝れば人質を返す」という。カメラマンには「こっちから良い写真がとれる」と得意顔で指示した。ある新聞記者には「この世でもっとも価値があるものは母性愛だと思う」という手記を手渡した。
これ以後、こうした共同記者会見はたびたび行われるようになる。金は注射をして目を覚ましながら会見をした。ちなみに記者団のなかには、当時朝日新聞記者で、後に首相となる細川護煕氏もいた。
記者たちの多くは「自首しないんですか」と、警察と同じようなことを聞いたが、この事件は全国的にも反響が高く、説得志願を申し出た人が全国に100人以上いたという。「自殺するな」「ともに闘おう」「金さん、もっと頑張って」という人も相当いた。
アラビアからは、石油輸送の東燃タンカー所属の初島丸からも清水署気付で「金さんは日本人の1人だと思っています」とう電報が届いた。
午後3時、金は小林前掛川署長との話し合いで、次のように人質解放の条件を出し、23日正午までの期限をつけた。
1:射殺された2人の罪状を公表せよ。
2:小泉刑事のテレビでの謝罪は不十分。
「生きるのにはもう嫌気がさしている。この2つの要求さえ聞いてくれれば、死をもって、騒動を起こした責任をとる」
午後5時過ぎ、人質3人を解放。さらに旅館の主人を「翌朝7時までに戻る」との条件で妻の元に帰した。
夕方、旅館に到着した同胞3人と、朝鮮料理を楽しむ。夜には東京から山根二郎弁護士、作家・金達寿ら5人が「金さんへ」という文化人からの録音テープを持って訪れた。
「私たちは今回のあなたの行動を通じて日本人の民族的偏見にかかわる痛烈な告発を知りました。もしあなたが生きる道を選ばれた場合には、法廷闘争をはじめあらゆる運動を通じて、あなたの行為を無駄にしないよう努力するつもりです。あなたに生き続けて訴えて欲しいと思います」
金はこの日、ライフルを約40発撃ち、警官とのにらみあいを続けた。
会見
2月23日、金は報道陣を手招きして、記者会見を開いた。前警察署長を名指しで呼び、横になって話し込んだりもした。コタツに入っている人質の中に加わり、雑談もした。ライフルを傍に置いて、入浴すらしていた。
4日目ということで、ずいぶん油断しているようにも見えたが、金はほとんど眠っていなかった。警察側も人質を救出するメドがたたず、ダイナマイトの脅威もあるため、動きはなかった。
金は「ライフルを撃ってくれ」という記者の要望にも愛想良く応え、空に向かって数発乱射して見せた。
終結と同情
24日午後3時過ぎ、金は旅館の玄関前で、ポケットに両手をつっこみ、顔だけだして「記者の皆さん、今から1人出すので道を明けてください」と記者団に呼びかけ、後ろをふりむいて「さあこっちへいらっしゃい」と人質の1人柴田さんを手招きして呼んだ。
記者団の方へ解放された柴田さんの後姿を見送って、再び部屋に戻ろうと階段の上がり口に向かったその時、記者団の中から「それっ」というひと声がして、9人の男が金にとびかかった。記者に紛れ込んでいた捜査本部の刑事であった。
さらに傍にいた数十人の記者も折り重なるように飛びかかり、手足をおさえつけた。金はその時、異様な悲鳴をあげた。そして自分の舌を噛み、自殺を図ったが、刑事の1人が口をこじあけ、警察手帳をねじこんだ。このことについては「軽傷」と報じられたが、実際は体内の20%の血液を失う重傷であった。マスコミを信頼し、有効に利用してきた金の、意外な逮捕劇だった。
こうして、88時間に渡った籠城は終結した。
この日の夜、掛川駅前に屋台を出していた金の母親(当時60歳)は、一升瓶を飲んで酔いつぶれていた。
解決を受けて、佐藤栄作首相は「うん、よくやった」と一言。竹山静岡県知事は、29日に取り押さえた警官9人を知事室に呼び、県無形文化財の金剛石目塗りの花瓶を贈って表彰した。この9人は22日に、「記者に見える、35歳までで、柔剣道の達人」ばかりが選ばれた。
また直前に釈放された柴田さんも次のように語っている。
「あのぐらい、力のある、頭のいい人はそういない。金さん流に言えば、もし朝鮮人でなかったら、もっと日の当たる場所に出ていられただろう。もちろん、こんな事件も起こさなかったろうにと思った。しかし、金さんの場合、ああいう事件を通してしか、訴える場所がなかったともいえる」
金が篭城していた間、人質の行動は比較的自由だったという。報道陣も、人質らとともに泊まり込んだりした。人質が金に同情したりもした。解放されたにもかかわらず、旅館に居続け、連絡、運転役まで引き受けはじめた。
これがこの事件の特異なところで、人質をとったたてこもり事件というより、”奇妙な同居生活”と言ってしまっても差し支えないほどである。
金は逮捕の前、訪問者が差し入れてくれた現金や腕時計を、旅館の主人に迷惑料として渡したりした。
それから事件の舞台となった鄙びた温泉地も、全国的に知られるようになった。「ふじみや旅館」は営業を続けたが、2011年2月に宿泊受付を終了し、廃業した。2010年、館内に設置した事件資料館の運営を今後どうするかは未定で、女将(2012年2月当時)の望月英子さん(2012年当時73歳)は「私にとって事件は怖かった記憶なので、よい思い出ではない。語り継ぎたいものではない」と複雑な心境を語っている。
裁判とその後
1968年3月、静岡地検は金を殺人罪で起訴。さらに監禁等7つの罪名で追起訴した。
同年6月25日、静岡地裁で初公判。主任弁護人は山根二郎氏。裁判の争点は、金の在日朝鮮人としての生い立ちがどれほどの影響を与えたか、という部分になった。
1969年2月26日、検察官の冒頭陳述。
「自己が朝鮮人であることと本件殺人を関連させ、又清水警察署の暴力犯刑事(中略)から朝鮮人を罵倒されたとしてこのことを世間に訴えることを考え付き――」と断じた。
同年5月21日、弁護団は次のような冒頭陳述を行う。
「日本政府は講和条約発動と同時に、在日朝鮮人に日本国籍を離脱させ、『出入国管理令』『外国人登録法』と在日朝鮮人の在留措置を決めた法律126号2条6項は『(在日朝鮮人の)在留資格および在留期間が決定されるまでの間、ひきつづき在留資格を有することなく、本邦に在留することができる』とされた。つまり、金嬉老はじめ在日朝鮮人の大多数は、今日も法的保障なしに、単に事実として在留しているきわめて不安定な存在なのである」
1970年4月、脱獄にも使える出刃包丁、ヤスリ、ライターなどを何者かが差し入れていたことが発覚。彼の独房は施錠されておらず、散歩・面会なども自由に出来るのど、所内での特別待遇も明るみに出た。独房内には、機嫌をとるために看守が渡したわいせつ写真すらあった。これは金が自殺をほのめかしたりして、規則違反がエスカレートしたものだった。
この問題で、衆議院法務委員会でも責任追求が行われ。法務省矯正局長以下13名、また専従職員13名が停職・減給・戒告・訓告などの処分を受けた。そして包丁を差し入れたとされる看守が殺虫剤を飲み自殺している。
1972年2月16日、静岡地裁で、「殺意を持った計画的犯行で、その冷酷無残さは同情の余地がない。またダイナマイトなどを持って13人を監禁し、地元住民まで恐怖におとしいれ、社会的に大きな不安を与えた罪は絶対に許せない」として死刑が求刑された。同年6月、静岡地裁は無期懲役の判決を下す。
1974年6月、東京高裁、控訴棄却。
1975年11月4日、最高裁、上告棄却。無期懲役が確定。
1979年、獄中結婚した女性としばらく同居。
1999年9月7日、韓国渡航を条件に仮出所。
2000年9月3日、韓国・釜山市で、金が不倫相手宅に手製の竹槍を持って押しかけ、この家の夫(当時46歳)と50分間も乱闘し、殺人未遂容疑で逮捕された(当時71歳)。
2000年10月に予定されていたミュージカル「朝鮮人・権禧老」も公演中止となった。この一件で「英雄」の名も地に落ちることとなった。その後、2度目の獄中結婚。2003年の出所後は、釜山郊外で陶芸に打ち込む日々を過ごした。
2010年3月26日、釜山の病院にて病没。享年81歳だった。