下宿の大学生が5人殺害、精神鑑定の結果不起訴へ
1982年10月6日、東京中野区の住宅街で、アパートに住む学生が家主の真弓正次郎さん(95歳)と次女の貞子さん(65歳)を包丁で刺殺した。
さらに近隣の森田家の主婦、朝子さん(44歳)とその子供である健君(10才)と聡君(4才)の計5人を殺害。
まもなく大学生のM(22歳)が逮捕されるが、不起訴となった。
犯行の経緯や動機
Mについて
家族は両親と姉の4人家族、実家は東京国立市にあった。Mの父親は中学教師を経て国立市議会の文教委員、共産党市議団長も務めており、母親も元教師で共産党系の組織に勤める熱狂的な活動家だった。Mは甘やかされて育っており、自分の思うようにならないとイライラする性格だった。
小学校の時のMは明るかったが、高校入試に失敗、ヘルニアが拍車をかけ、以後孤独の色を深めていった。
府中東高校を出た後、一浪して日大経済学部(二部)に進んだ直後、両親から民青(日本共産党傘下の青年組織)入りをオルグされ、姉と同様、これを拒絶している。以降、親子揃ってする「まともな会話」は一家から消える。
3年生になり、Mは自宅を離れて下宿生活を希望する。国立から日大経済学部のある千代田区三崎町までは電車で1時間ほどしかかからないのだが、家を出たかったのだろう、中野区に下宿先を見つけた。
二部から一部への編入を願ったままそれも叶わず卒業学年になってしまっていたためか、友達は一人もおらず、初めての単独生活では、わがまま、あるいは抑制のない奇行が周囲に目撃され始める。下宿の窓から、帰宅途中の小学生に向かって「うるさい黙れ」と怒鳴り、近所にも何度か「テレビを消せ」と苦情を言いに行っている。事件の前年夏には、隣室の下宿生に連日クレームをつけ、壁を叩いたり怒鳴ったりを繰り返し、ついに隣室を空き部屋にした。
二部学生である彼の1日の過ごし方は次のようなものだった。
午前中ごろごろ部屋で過ごし、午後に図書館に行って新聞や週刊誌を読み、夕方に学校に行く。学校が終わると、大抵まっすぐ家に帰り、あとは読書やステレオ鑑賞を楽しんで寝るという生活。
ここで重要なことはM自身も深夜にステレオをかけるなどして、平気で騒音を出していたということである。
Mの父親はそれまでの22年間、1度も息子を叱ったことがなかったという。
事件発生までの1年半の間、2度にわたって大家である真弓正次郎さん(95歳)とその次女・貞子さん(65歳)はM父子を呼び出し、これまでの行状を告げて「下宿を引き払って欲しい」と懇願している。しかし、Mは大家に向かって「くたばり損ない」「くそばばあ」などと罵倒した。それでも父親は息子を叱正せず、「卒業までなんとか置いてやってください」と頭を下げるだけだった。
凶刃
周囲の就職活動が本格化する中、彼は出遅れていた。父親の職業のせいにしたこともある。
1982年9月27日、Mは西武新宿線鷺ノ宮駅前の金物店で「復讐のため」刃渡り16.5cmの文化包丁を購入している。「プロが選んだ確かな切れ味」とそこには書かれていた。
10月6日、Mは大家・真弓さん宅に乗りこみ、真弓正次郎さんを包丁で一刺しし、その次女・貞子さんを10ヶ所以上刺した。続いてMは隣家の森田瑞男さん(当時43歳)方に押し入り、食事中の朝子さん(44歳)を24ヶ所、子供の健君(10歳)を18ヶ所、聡君が10ヶ所刺している。この時、近隣の人は子供の「いやだ、いやだー」という声を聞いている。
朝子さんの通報を受けて、野方署員が駆けつけたが、全員血まみれで死亡していた。この通報の電話によると、電話がつながった直後に女性の声(朝子さん)で「キャー」と言って途切れた、その後「(中野区)白鷺1の1…ごめんなさい!もうしませんから」と一瞬聞こえて切れた。健君が電話の傍で倒れていたことから、この声の主は健君と思われる。朝子さんは手などにも傷があり、深手を負いながらも子供をかばうため、Mに向かっていったものと見られている。
Mは犯行後、自室に戻って返り血のついた服を着替え、いつものように平然と外出していた。そして阿佐ヶ谷北4丁目の路上で無灯火で自転車を走らせていたところ、警察官に職務質問され、あっさり犯行を認めて逮捕された。
判決とその後
逮捕後、Mは次のように供述した。
「今日、本当は会社訪問の日なんですよ。やっぱり行けませんよねえ」
「静かにしてくれと言ったのに無視された。自分に嫌がらせをしていると思い、いつか復讐してやろうと思った。事件の時も、就職の準備のため大学から帰るとAさんの家からテレビの音がした。その音を聞いて、やってしまおうと思った」
「今、考えてみるとバカみたいなことをした。相手に対し、気の毒なことをした」
Mは事件前に森田さん一家に対して何度も苦情を言っており、1度は子供の胸ぐらをつかんで殴りかかり文句を言ったこともあるという。
1963年の初当選以来、5期連続で国立市議を務めていたMの父親は事件後、「息子は学生の身分です。親の社会的責任は当然と考えます」と市議を辞職した。
Mは精神鑑定の結果、統合失調症と診断。心神喪失状態にあり責任能力を問えないとして、1983年3月24日、東京地検によって不起訴処分が言い渡された。
尚、類似の事件として、母子3名を殺害した神奈川ピアノ騒音殺人事件があるが、こちらは死刑となっている。
1983年3月24日、Mは都立松沢病院に措置入院となるが、入院初日から幻覚や妄想は一切なく、同病院では精神分裂病の診断は下されなかった。7ヶ月後の10月31日に措置解除となったが、Mの家族の希望でその後も継続して入院した。
Mは院内でも殴打事件を3度起こし、その度にやられた方が悪い、自分は被害者といった態度を繰り返していたという。