事件・事故

隣人訴訟(児童溜め池溺死事故・昭和を代表する誹謗中傷事件)

1977年5月8日、三重県鈴鹿市において、会社員方で預かっていた近所の人の子供が溜め池に落ちて水死するという事故が発生した。亡くなった子供の両親はこの会社員、国、県、市などを相手取って損害賠償請求をおこした。

昭和を代表する誹謗中傷事件の全容

三重県鈴鹿市稲生町に住む電気工事請負業経営Aさん(当時41歳)は、妻のB子さん(当時37歳)、長女、長男C君(当時3歳)の4人家族。1974年の夏にこの新興住宅街に引っ越してきた。

同じ頃に引っ越してきたのが二軒おいた隣の会社員Xさん(当時51歳)一家である。AさんB子さんからすれば、それぞれ10歳ほど上のXさん・妻Y子さん(当時47歳)夫婦であるが、同じ時期に越してきて、さらに揃って町内会の役員になったことから付き合いが始まり、Xさん方の三男Z君(当時4歳)がC君と同じ幼稚園に通っていて仲が良かったため、親しい間柄となった。両家では合同でクリスマスパーティーを開いたり、一緒にぶどう狩りに出かけたりするようになった。

1977年5月8日、汗ばむような陽気の中、C君とZ君の2人は幼児用自転車に乗るなどして遊んでいた。途中午後2時過ぎにいったん2人はXさんの家に戻り、アイスをもらって玄関口で食べたりしていた。そこへB子さんが訪れ、C君を買い物に誘った。遊びに夢中だったC君はこれを拒否し、Xさんの口添えもあって、B子さんはC君をこの家に預けてY子さんに宜しくと言って出かけていった。これまでも両家は子供を預け合う間柄だったので、これは何でもない日常の一コマだった。

この日は日曜日。Xさんの家では大掃除で忙しく、子供2人だけで遊ばせていた。B子さんが買い物に出かけてから10~15分ほどのあいだ、Y子さんは大掃除の合間に子供の様子を見ていた。そのうち子ども達は「裏の空き地に行きたい」と言い出した。掃除の途中だったため、Y子さんは一瞬迷った。しかしこれまでも子供だけで遊ばせて何か問題を起こしたことがあったわけではなかったし、「まあ大丈夫だろう」と思い、自転車に乗った子ども達を送り出した。

両家の対立

子供2人が遊びに出かけた空き地には通称「祓川池」という灌漑用の溜め池があった。

面積約10万㎡、深さ2.5mと立派な溜め池で、急勾配の池であったが侵入防止のための柵ももうけられていなかった。この溜め池の水際まで新興住宅が並んでおり、普段から近所の子供たちの遊び場となっていた。

家に戻ってきたZ君が「Cが泳ぐと言って池に潜り戻ってこない」とXさんに告げると、Xさんは現場の池に駆けつけ、近所の人達が捜索した結果、池に沈んだC君を発見、救急車で運ばれたが、すでに死亡していた。

買い物から帰ってきたB子さんは、C君の死を聞かされると、

「どうして子供を見ておいてくれなかったんですか」

とXさんらに問いつめたが、Xさん夫妻は「大掃除で忙しかった」と答え、その後告別式などでお悔やみの言葉は口にしても、謝罪の言葉は一言も言わなかった。X家からすれば、「あの時好意で子供を預かるんじゃなかった」「B子さんがC君を買い物に連れて行っていれば、こんなことにはならなかった」という想いがあったかもしれないが、ここで謝罪をしていれば結果は間違いなく違ったものになっただろう。

Aさん側からすれば、Xさんが「子供を預かる」と言ったのだから、まだ幼く、何をするかわからない子供達から目を離すべきではなかったと責め、謝罪を求めようとするのは自然なことである。

Xさん側にしてみると、事故は予見できないもので、B子さんは自分たちが大掃除をしていたのを知っていたのに子供から目を離したことを責めるなど、「子供を預かる」と言った好意を裏切られたことに対する不満があったものと見られる。こうして距離にして約160mほどの両家は対立することになった。

事故から7ヶ月後、AさんはXさん、溜め池の管理者として国、三重県、鈴鹿市、そして砂利採取業者を相手取って子供の監督責任を問うための損害賠償請求の訴えを三重県津地裁に起こす。

しかしこのことは意外なところに波紋を広げた。それまでAさん夫妻に同情的だった近所の人の見方が少々変わってきたからである。Aさんの長女もそれまで仲の良かった友達が遊んでくれなくなり、ひとりぼっちでいるというようなことが増えた。おそらくは「あの家(A家)とトラブルになったら裁判沙汰になる」というような評判が立ったものと推測できる。そしてAさんは事故から2年足らずで近くの街へ移った。

世論の風向き

1983年2月25日、津地裁はXさん夫婦の責任を認定し、526万6000円の損害賠償を命じる判決を下した。

判決では、Xさんらは子供が池の近くで自転車に乗って遊んでいるのを見ており、池に入るかもしれないということは予見できたはずで、Xさん夫婦には注意義務があり、それを怠ったことは全体の三割の責任があるとした。

判決では国、県、市の過失は認められなかった。A家ではこの裁判について「危険な溜め池を放置した責任追及であり、近所喧嘩を訴えたわけではない」と考えており、判決後「動機と違った結果が出た」と語った。そんな原告の想いとは裏腹に、判決のようにご近所さんの責任だけがクローズアップされていくことになった。

裁判の結果はテレビで放映され、

「隣人の行為にもつらい裁き」
「近所付き合いに冷水」
「隣人の行為にも責任」
「温かい心、失う心配も」
「親切があだになるとは」

などの見出しで、当事者の名前をそのままに報道した。

直後に状況は一変した。

Xさん夫妻に励ましなどの好意的な手紙が届くのに対し、Aさん夫妻には非難と罵倒の匿名の手紙や電話がひっきりなしにあったのである。電話の数は半月に300本に及んだ。

『あなたはそれでも人間か、日本人か、シベリアでも行って頭を冷やしてこい。この冷血漢、恥を知れ、このばか野郎』

『自分たちの不注意で死んだ子どもを、金もうけの資材になされ、それでも貴殿は人間ですか』

『生きた人間を預かってくれた恩人を訴えるとはお前等は鬼だ。馬鹿者!恥を知れ!中国孤児をみてみろ、てめえーの事ばかり考えて、相手の立場を少しも考えない。お前等37歳~41歳までの日本人の精神は占領政策によってゆがめられ、日教組はお前等に間違った民主主義を吹き込んだ』

『貴殿夫婦は心の鬼でしょうか。子のボダイを祈った方が良いと思う。社会愛・隣人愛、すべてが失われてしまいましたね。日本は急激な変化を遂げて人の心が、真心がなくなりました』

判決から2週間後、Aさん夫妻は訴えを取り下げる。

Aさんの経営する会社は電気工事の下請だったが、判決の翌日に元請から契約を打ち切られるということがあった。理由ははっきりしないが、裁判との関係は明白だった。

また、それだけではなく、小学5年生になっていた長女が学校や近所で裁判のことを何度も問いつめられて、泣きながら帰ってきたこともある。親類の商売にまで影響が出るほどだった。「何のためにここまで裁判で闘ってきたのか」という無念の心はあったに違いないが、日々の生活を取り戻すための取り下げだったと見られる。

ここでマスコミの論調が一転してA家に対して同情的なものになった。

「嫌がらせは暴力」
「裁判を受ける権利あり」
「判決は通説に沿った妥当なもの」

同様に世論の風向きも変わる。A家へのいやがらせ、非難の電話なども収束しつつあり、「子供を亡くした親の気持ちはよくわかります」というような内容に変わった。

一方、判決に納得せず控訴したXさん夫妻に「人殺し」「無責任」というような非難が集まり、Aさん取り下げ後もあくまで控訴するつもりであったX夫妻も取り下げに同意した。

結果、訴訟自体がなかったことになった。なんとも後味の悪い、両家の当事者が傷ついただけの結果となった。両家の人はその後の法務省の調査に対しても、「そっとしておいて下さい」と口を閉ざした。

この「隣人訴訟」事件では、裁判を受ける権利についての議論が国民のあいだで巻き起こったが、同年4月8日に法務省がこの権利について「国民の権利を保障するための有効で合理的な手段として近代諸国で等しく認められている最も重要な基本的人権である」と、国民の自覚を求める始末となった。

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