事件・事故

栃木・矢板市実父殺し事件

実父に犯され続け、中絶・出産を繰り返させられた女性が父親を殺害。「尊属殺人」に違憲の判断。


1968年10月5日、栃木県の雑貨商の家に「父親を殺した」と言って、相沢チヨ(当時29歳)が駆け込んできた。

すぐに警察に通報され、チヨはすぐに逮捕されたが、動機が判明すると、事件の様相は一転した。

実は、チヨは14歳の頃から父親に強姦されており、その後15年間にわたって、夫婦同然の生活を強いられていたのだった。

チヨはその間に、父親との子どもを5人産んでおり、また、5回の中絶をさせられていた。

29歳になったチヨは、工員の男性と恋に落ちたが、それを知った父親が逆上、「家を出ていくなら子どもを殺してやる」と脅迫して、チヨを自宅に監禁・虐待した。

口論となった10日後、精神に限界を迎えたチヨは、股引きの紐で父親を絞殺した。発作的な犯行だった。

当時の法律では、親殺しは「尊属殺人」として、一般の殺人事件よりも刑が重く設定されており「無期懲役または死刑」と定められていた。

この事件をきっかけに、この法律「尊属殺人」の是非が問われる議論となり、その結果、最高裁で「違憲」との判決が下された。

チヨには懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の判決が下された。

事件の経緯と動機

「お父ちゃんが私のところへ来て変なことする…」

栃木県佐久山町にXという男がいた。

Tは農業のかたわら町役場の吏員として勤め、また、青年学級の指導員もしていた。妻とのあいだに長女のチヨさんをはじめ、二男四女をもうけた大家族だった。

チヨさんは1939年生まれ。父母が24歳の時の子どもである。

昭和28年、農業を嫌ったXは、宇都宮に移り味噌・雑貨を扱う商売を始めた。木造平屋の二間に9人が暮らした。商売はうまくいかず、貧しい生活が続いた。

中学2年の三学期頃、チヨさん(当時14歳)が四畳半で寝ているところ、酒臭い父親が布団にもぐりこんできて体を触られた。他の兄弟が折り重なるように寝ていたので、チヨさんは、家族を起こすまいとそのあいだ声を出すことはできなかった。

そしてそのまま父親に犯されたのである。以後、母親の目を盗んでは、1週間に1度程の頻度で強姦が日常的に繰り返されるようになった。

「お父ちゃんが私のところへ来て変なことする…」

中学3年になったチヨさんは、泣きながら母親にこのことを打ち明けた。しかし、母は「どうりで私のところにこなくなった。おかしいとは思っていた」と言うだけで、ショックを受けたようでも、怒っている様子でもなかったという。

娘の目にはそう見えた母親であったが、子ども達のいない時に「チヨに何すんだ!」とXに怒りをあらわにしていた。しかし、Xは逆に包丁をつきつけて「ガタガタぬかすと、殺すぞ」と脅し返した。

そのため、Xを恐れた母親は、チヨや他の子ども達を連れて逃げ出すことを計画。Xはそれまでは心優しい夫であったとされるが、チヨとのことがあってからは、乱暴な男に変わっていたという。

結局、母親は子どもの半分を連れて知人のいる北海道に家出した。残念なことにこのとき、チヨは家に残され、チヨが母親代わりとなって、弟妹の面倒を見るようになった。

そして、Xは母親の目を気にすることもなくなったので、日に何度もA子を求めるようになった。

妊娠、中絶、出産

チヨが17歳の時、母親が戻ってきた。

母は実家の母屋の傍に掘立小屋を作り、一家はそこに住むようになった。母は父Xを監視して、チヨの寝ている方に行こうとすると止めに入ったが、そのたびに喧嘩となった。

それでもXの欲望は治まることはなく、酒を飲んでは娘の体を求め続けた。そしてこの頃、チヨは父親の子どもを身ごもった。

身重のチヨは、田植えの時に知り合った男性(当時28歳)と駆け落ちした。チヨの方から「私と逃げてください」と哀願したのだった。男性は同情して、2人は黒磯まで行ったのだが、父に追いつかれて引き離された。

この一件があって、Xは妻の留守中に矢板市に間借りして、長女とその妹のA子とで暮らし始めた。この矢板市の家は一部屋で、ここでは毎晩夫婦のように父と1つの布団で眠るしかなかった。Xはこの頃、植木職人をしていた。

そして、11月24日、チヨが長女を出産した。

初恋

1968年、チヨは29歳となっていた。

すでに四女と五女も産んでいたが、生後まもなく死亡した。

5度の出産以外にも、5度の中絶をしており、昭和42年8月、大田原市の産婦人科では「このように中絶していると体が持たないから、手術して妊娠しないようにしたほうがいい」と言われたという。

チヨは父親に相談し、父もそれに賛成したので、8月25日に矢板市内で不妊手術を受けた。供述によると、この手術以来、A子は不感症となり、父とのセックスは苦痛以外の何者でもなくなったという。

チヨは家計を助けるために、1965年から近所の印刷所に働きに出ていたのだが、ここで年下のYさん(当時22歳)という男性と知り合った。

チヨはYさんに好意を持ったが、積極的に仕事を手伝うぐらいで、それを口にしたことはなかった。以前、駆け落ちした男性は嫌いではなかったが、父の元を離れたいという想いの方が強く、恋とは言えなかった。だから、チヨにとってはYさんが「初恋」の相手であった。

8月の終わり頃、仕事を終えて帰宅中のチヨに、Yさんが「工場をやめようかな」と言った。その理由については言わなかったが、その翌朝、Yさんはチヨに告白した。

Yさんは「あんたが悪いんだ。あんたが会社に入ってこなければよかった。あんたが好きになってしまった」と話したという。

チヨさんは父からの束縛のため、遠出がほとんどできなかったので、同僚が「恋人と~に行ってきた」と話すのがうらやましくて仕方なかった。だからこそ、Yさんと仕事帰りに喫茶店でおしゃべりをしたり、東武デパートで買い物をしたり、花屋敷で映画を見たりできたことは、彼女にとって初めての幸福な時間であった。

そして、Yさんは他の従業員からチヨさんに子どもがいるのを聞いており、また子どもが出来ないことも知っていたが、結婚を申し込んだ。

チヨさんは、寝床で父親に「結婚したい人がいる」と打ち明けた。

「お前が幸せになれるんなら良い。相手はいくつだ」
「22歳」
「そんなに若いんじゃ向うでお前をからかっているんだ。子どもはどうするんだ」
「お母さんに頼む」
「何を言う!俺の立場がなくなる。そんなことができるか。お前の子どもなんだぞ」

そう言うと父親は、焼酎を一気に飲んで「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」とわめいた。チヨさんは「勤めをやめて家にいるから、Yさんのところには行かないで!」と懇願し、ようやく納得させた。

翌朝、チヨさんは工場に電話を入れ「夕べ、お父さんに話したが駄目だった。今から矢板駅に行くから来てほしい」とYさんに伝えた。Yさんはすぐに駅に行ったが、結局、チヨさんは姿を現さなかった。

その頃、チヨさんは、よそ行きの服を持ち出して、近所の家で着替えていた。

しかし、父親に見つけられ、ブラウスを剥がれ、下着まで破られた。悲鳴を聞いた近くの人が父を押さえているあいだに、チヨさんはバス停に向かったが、バスが来ぬ間に父親に連れ戻されてしまった。

叶わなかった初恋、父親の殺害

9月20日、チヨさんは父から逃れるために東京に出ようと決心した。その前に1度だけYさんと会ってお別れを言いたかったのだが、彼の自宅でも工場でも、電話は取り次いではもらえなかった。

Yさんは工場長からチヨさんが父親と関係を持っていることを聞かされていた。また、「深入りしないように」とも言われていた。チヨさんも工場を辞めてしまっていたので、もう忘れようとしていたのだった。

チヨさんの上京は、父親が仕事を休んでまで監視ししていたため、不可能になっていた。

10月5日、この日も父はチヨさんを監視するため、仕事を昼までで切り上げ、さらに泥酔していた。

「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるんなら行ってみろ。一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかまえてやる」

そして、夜8時すぎ、いつものようにXがチヨさんの体を求めた。

「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、苦労に苦労してお前を育てたんだ。それなのに十何年も俺を弄んで・・・・このバイタめ!」
「出ていくんだら出ていけ。どこまでも追って行くからな。3人の子どもは始末してやるぞ!」

この罵声を聞いた瞬間、チヨさんは咄嗟に、父親を押し倒し跨ったうえで、傍にあった股引の紐をつかんで、首にかけ絞めた。父親はなぜか抵抗しなかったという。

「殺すんなら殺せ」
「悔しいか」
「悔しかねえ。お前が悔しいからしたんだんべ。お前に殺されるのは本望だ」
「悔しかねえ。悔しかねえ」

そうして、父は絶命した。しかし、チヨさんにとっては、父の束縛から自由を取り戻した瞬間でもあったが、しかし同時に、罪悪感から逃れられないという、心の自由を失ってしまった瞬間でもあった。

そして、チヨさんは近所の親しい雑貨商宅を訪れ「父親を紐で絞め殺しました」と言って泣き、その場に崩れ落ちた。

問われた「尊属殺人」の是非とその後

いわゆる「親殺し」は、当時の刑法で死刑か無期の罪と定められていた。

しかし、宇都宮地裁での公判で、無報酬で引き受けた大貫大八弁護人は次のように主張した。

「被告人の女性としての人生は、父親の人倫を踏みにじった行為から始まっている。父に犯され、子を生み、人権は完全に踏みにじられた。そうした希望のない日々のなかで恋をし、本来ならば祝福すべき立場の父親に逆に監禁状態にされ、肉体を弄ばれた。この犯行は正当防衛または緊急避難と解すべきである。よってこの事件は尊属殺人罪、尊属傷害致死罪ではなく、単なる傷害致死罪を適用すべきである。また、犯行時の被告人は心神耗弱状態にあったとされる」

1969年5月29日、宇都宮地裁は、「尊属殺人罪は違憲」として普通殺人罪を適用した。さらに、A子の心神耗弱を認定して刑を免除した。

しかし、続く東京高裁は一転して「刑法ニ〇〇条は合憲である」として原審を破棄、心神耗弱のみを認定して懲役3年6ヶ月の実刑を言い渡した。

上告後、大貫大八弁護士はガンで入院、息子の正一が弁護を引き継いだ。やはり無報酬で、である。

1973年4月4日、最高裁は「尊属殺人は違憲である」として、さらに原審を破棄し、懲役2年6ヶ月、執行猶予3年の判決が言い渡された。チヨさんは釈放されたが、このとき既に34歳になっていた。

この結果を報じる新聞報道には「悪夢、忘れます」という見出しが載った。

チヨさんはその後、栃木県内の旅館に女中として働いた。3人の娘は施設に預けていたが、週に1度遊べるのを楽しみにしていたという。

「尊属殺人」について

自己または配偶者の父母、祖父母、おじ・おばなどを殺すことは「尊属殺人」と呼ばれていた。その逆の場合はない。これは一般の殺人よりも刑が重く設定されており、死刑または無期懲役に処せられるものだった。

これは「親は子を慈しみ育てるのに、その親を殺すとは言語道断である」という精神からのものだが、事件によってはそれが当てはまらない事例があった。本事件がその代表的なひとつで、この事件の公判から尊属殺人の規定が揺らぎ始めた。

本事件は「法の下の平等を定める憲法十四条に違反する」と主張される大きなきっかけとなった。

1945年11月、国民主権の原理を宣言する新憲法が公布された。1947年10月には刑法一部改正があり「皇室ニ対スル罪」は全章削除された。実はこの時、尊属に関する規定の存廃も一部で問題となったが、国会の質疑があっただけで、深く議論されることはなかった。

そんなさなかである1949年秋、福岡県内である事件が起こった。

夜の9時ごろ、自宅でAが父親(当時53歳)と食卓を挟んで座って雑談をしていたところ、父がいきなり「弟(当時9歳)のオーヴァ生地が紛失しているが、持ち出したのではないか」と言い始めた。Aはすぐに否定したが、父は「知っているくせに知らんとは何事だ。男らしく言え。お前が盗んだに違いない」と決めつけ、近くにあった鍋や鉄ビンを投げつけて来た。これにカッとなったAは、これを投げ返し、父親は頭蓋骨骨折などで、翌朝に自宅で死亡した。

この事件について、検察官は尊属傷害致死罪にあたるものとして福岡地方裁判所飯塚支部に起訴した。だが同支部は次のような判断から、適用するべきではないとした。

「(刑法二〇五条二項の)規定は之を其の発生史的に観れば子に対して家長乃至保護者又は権力者視された親への反逆として主殺しと並び称せられた親殺し重罰の観念に由来するものを所謂じゅん風美俗の名の下に温存せしめ来ったものであって、既に此の点に於て多分に封建的反民主主義的、反人権的思想にはたいしたものとして窮極的に人間として法律上の平等を主張する右憲法の大精神に抵触する」

裁判所ではAの人柄、当時の状況、謝罪の気持ちなどを考慮して、執行猶予付の判決が言い渡された。しかし、この判決について、検察官は最高裁に対し、憲法問題を理由とする跳躍上告の手続きをとる。この上告では、次のような点に重点を置いていた。

「子が親その他尊属を尊重するということは、単にわが国のみならず、東洋一般はもとより広く世界にも通ずる人類普遍の原理である」

検察官の上告を認容するかどうかの最高裁大法廷の見解は13対2に分かれていた。多数意見は原判決破棄だった。そのなかで、反対意見の真野裁判官は、大法廷の合議において多数派の道徳論に対して、次のように喝破していた。

「ソレ親子の道徳だ。ヤレ夫婦の道徳だ、ソレ兄弟の道徳だ、ヤレ近親の道徳だ、ソレ師弟の道徳だ、ヤレ近隣の道徳だ、ソレ何の道徳だと言って、不平等な規定が道徳の名の下に無暗に雨後の筍のように作り得られるものとしたら、民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原則は、果して何処に行ってしまうのであろうか、甚だ寒心に堪えない」

この事件については、最終的に原判決は破棄され、福岡地裁へ差し戻すという判決が出された。

その後、この刑法二〇〇条は、1995年の改正で削除されることとなった。

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