少年グループが大阪・愛知・岐阜の3府県で4人をリンチ殺害、少年事件史上初となる複数人への死刑判決。
3府県連続リンチ殺人事件とは、1994年(平成6年)9月28日 – 10月8日にかけて大阪府・愛知県・岐阜県の3府県で発生した不良少年らによる連続殺人事件である。
グループは計10人にのぼり、中には少女もいた。リンチに加担したものの、仲間の名前すら知らない者も数名いた。
犯行の経緯や動機
不良少年小林正人(当時19歳・愛知県出身)とその関連人物たちが11日間で計4人を集団暴行して殺害した連続殺人事件。
大阪事件
小林正人ら暴力団組員の不良少年3人が9月28日、大阪府で男性1人を集団リンチした末に殺害して高知県の山中に死体を遺棄した事件(殺人・死体遺棄事件)。ほか2人が関与。
1994年9月28日、少年達は大阪市中央区の路上で、帰宅途中の柏原市の寿司職人・Aさん(26歳)に因縁をつけ、区内のたまり場であるビルに連れこんだ。少年達はAさんを裸にして、両手両足を縛ったうえで激しい集団暴行を加えた。そして命乞いするAさんの首をベルトで絞めて殺害した。その後、現場のビルの1階にある中華料理店で食事をしてから、遺体を高知県の山中に遺棄した。遺体が発見された時、Aさんの顔は家族が判別できないほど、ボコボコに腫れあがっていたという。
木曽川事件
大阪事件の加害者少年3人(小林正人ほか2人)は愛知県に逃亡し、KMが所属していた不良グループと合流したが、10月6日に仲間割れを発端にメンバーの1人を木曽川河川敷などで集団リンチして殺害した(殺人事件)。ほか5人が関与(うち3人は長良川事件にも関与)。
10月6日、愛知県稲沢市の仲間の家で酒を飲んでいるとき、ふとしたことで仲間の1人である型枠大工・Bさん(22歳)へのリンチが始まる。ビール瓶などで殴打したあと、頭部の傷口をフォークで突き刺し、シンナーや醤油をかけて反応を見るという凄惨なリンチ。ぐったりしたBさんは尾西市の木曽川堤防に連れて行かれ、鉄パイプで全身で殴られ、シンナーの袋などを使って体の一部を焼かれた。リンチは7時間にも及び、遺体は河川敷の雑木林に遺棄された。
長良川事件
木曽川事件の翌日(10月7日)に主犯少年3人がボウリング場で出会った若者3人に因縁をつけ、翌8日未明に岐阜県(長良川河川敷)で集団リンチして殺傷した(強盗殺人事件 / 2人死亡・1人負傷)。
10月7日、愛知県稲沢市内のボウリング場で、アルバイト・Cさん(19歳)と会社員・Dさんさん(20歳)ともう1人に「目が合った」と因縁をつけ、財布をまきあげたうえで拉致。長良川の堤防に連れだし、鉄パイプでメッタ打ちにした。2人がぐったりすると、煙草の火を押しつけ、死んだか確認し、さらに暴行を続けた。少年たちは現場をあとにしてからも「ツルハシでとどめをさしておけばよかった」と戻ってきて確認した。
Cさん、Dさんの遺体が発見されたことにより事件は発覚。2人と一緒に因縁をつけられた男性の証言などから少年達は逮捕された。
主犯少年らの生い立ち
小林正人
愛知県一宮市生まれ。生後すぐ母親と死別し、親類の家に養子に行く。幼少の頃から盗み癖があり、中学時代には万引き、カツアゲを繰り返し、教護院(児童自立支援施設)に入っている。赤ん坊の顔にパチンコ玉を放ったこともあり、中学時代の終盤は教護院で過ごす。
児童自立支援施設とは、犯罪などの不良行為をしたりするおそれがある児童や、家庭環境等から生活指導を要する児童を入所または通所させ、必要な指導を行って自立を支援する児童福祉施設である。 退所後の児童に対しても必要な相談や援助を行う。 根拠法は児童福祉法44条である。
その後、益々非行が増長し、窃盗・恐喝・強姦などを繰り返し少年院に入所。一旦は仮退院したものの強姦事件を起こして補導された。
そして、強盗致傷事件を起こして大阪へ逃亡したことで、小森・芳我と出会うこととなった。
小森淳
大阪府松原市生まれ。中学の頃から、シンナー吸引や、原動機付自転車の窃盗など、非行を繰り返すようになった。定時制の工業高校に進むが、1年で中退。ホストクラブで働いたのち、暴力団の準構成員となる。
3人の中では、所属暴力団において最も上位で、小林との初対面時は山口組所属と自称した。
芳我匡由
大阪市西成区生まれ。7人兄弟。貧しく、放任の家庭。小学校6年生頃から、毎日のようにシンナーを吸引するようになった。
窃盗、シンナー吸入などで何度も補導され、初等・中等少年院などを出入りしていた。17歳だった1994年5月、女性と同棲し、1児を設けて入籍するが、派手な女性交友が原因で、同年8月に離婚している。
判決とその後
主犯格の少年らは、強盗殺人、殺人、死体遺棄、強盗致傷、恐喝、逮捕監禁の計6つの罪で起訴された。
裁判では、主犯格3名は反省のない態度をみせ、「自分は未成年だから死刑にはならない」「俺の刑はどれくらいなの」と発言したり、被害者遺族に対して笑みを見せるなどして、傍若無人な態度を繰り返した。
また、犯行に反対していたグループの仲間である2人の少女の殺害も計画していたと証言する。
しかし、死刑を求刑されてからは、一転して態度を変え「生きて償いたい」というようなことを言い出し始めた。
第一審判決で名古屋地裁 (2001) は「いずれの犯行も自らの欲望・感情の赴くまま行動して傷害・強盗などを犯した加害者少年たちが『被害者らを解放すれば警察に捕まる』などと考え、自らの行動によって生じた結果の処置に困惑した。
その際に虚勢を張る心理も混じって声高に激化した言動をする者に影響され『相手に弱みを見せられない』という少年期特有の心理状態も手伝ってこれに同調し、お互いが適切に事態を収束させることができないまま最悪の結果を招いた」と認定した。
2001年7月9日、名古屋地裁は「通り魔的犯行で社会に大きな不安を与えた。わずか11日間に無抵抗の若者4人の生命を奪った責任は重く、極刑はやむをえない」として主犯小林に死刑、他2人に無期懲役を言い渡した。無期の2人に関しては、殺人ではなく傷害致死と判断されていた。
2005年10月14日、名古屋高裁・川原誠裁判長、3人全員に死刑判決。「3人の役割に差異はない」とされたのである。少年事件では、初めて複数に死刑が言い渡された。かつて非道を繰り返した少年達は30歳になっていた。
無期から死刑になった1人は「死刑になってもやむを得ない」と語っており、拘置所では義務づけられていない封筒貼りの作業をやって年に3、4万円になる報酬の全額を遺族に送っていた。
一審で無期判決を受けたもう1人も、「(誰が主犯かどうか)責任のなすりつけ合いで、聞くに忍びないから」と公判にも出ず、「死刑という判決があっても、それは覚悟している」と語った。
一連の事件で計10人が逮捕されたが、うち主犯格3人は全員が当時少年でありながら控訴審までに死刑判決を言い渡される形となり、最高裁判所の上告棄却を受けたことで死刑が確定した(少年死刑囚)。
主犯格3人が起訴された罪状は以下の通り。
加害者少年小林正人と共犯者1人による強盗致傷事件
大阪事件(殺人・死体遺棄事件)9月28日に大阪府で発生。
主犯格3人+共犯少年(暴力団の仲間)1人の計4人から恐喝された男性1人が集団リンチの末に殺害され、死体を高知県の山中に遺棄された。
大阪事件・木曽川事件の間に加害者小林正人が共犯者1人とともに起こした恐喝事件。
および小林正人・小森淳の両加害者による共同暴行・示兇器脅迫、およびKAと共犯者1人による共同暴行事件。
木曽川事件(傷害・殺人事件)10月6日深夜に発生。
大阪事件後に愛知県(主犯3人のうち1人、小林正人の出身地)へ逃亡した主犯格3人は小林が所属していたグループと行動を共にしていたが、小林の不良仲間だった男性1人が小林とトラブルになったことを発端に小林たちから集団リンチを受け、木曽川河川敷で死亡した。
第一審では「傷害致死罪」と認定され3人中2人 (小森淳・芳我匡由) への死刑適用が回避されたが、控訴審では一転して「殺人事件」と認定され、3人全員に死刑が適用されることとなった。
長良川事件(監禁・強盗殺人・強盗致傷事件)木曽川事件の翌日(10月7日深夜)に発生。ボウリング場で偶然加害者らに遭遇した男性3人が集団リンチを受け、2人が死亡・1人が負傷。
また公判中に主犯格3被告人の心理鑑定を担当した加藤幸雄・日本福祉大学副学長(非行臨床心理学)は本事件の性質について「『発達の未成熟』『不幸な出会い』『仲間のコミュニケーションの薄さ』など、(集団心理によってエスカレートする)現代の少年犯罪と同じ構図の事件だ」と指摘した。