事件・事故

荒川放水路バラバラ殺人事件

「オバケがいるよ」少女がバラバラ死体を発見、小学校教諭の女性が交際相手の警察官を殺害

1952年5月10日午後12時半頃、足立区本木町の荒川報水路の入江(通称:日の丸プール)に新聞紙と油紙に包まれた胴体部分だけの男性の遺体が発見された。

遺体を発見した少女が「オバケがいるよ」と泣きながら帰宅し、家族が西新井署に届け出た。

5月15日に頭部が発見され、遺体のモンタージュ写真が作成され、身元の特定が行われた。その結果、遺体は、しばらく前に行方不明となっていた板橋警察署の伊藤忠夫巡査(27歳)と判明。

同日に緊急逮捕された伊藤巡査の内妻で、小学校教諭の宇野富美子(当時26歳)が犯行を自供し、遺体損壊には富美子の母・シズ(当時51歳)も関わっていたことがわかった。

事件の経緯と動機

「オバケがいるよ」と少女が遺体を発見、身元特定へ

1952年5月10日午後12時半頃、足立区本木町の荒川報水路の入江(通称:日の丸プール)に新聞紙と油紙に包まれた胴体部分だけの遺体が浮かんでいるのを少女が発見、「オバケがいるよ」と泣きながら帰宅し、家族が西新井署に届け出た。

遺体は20~30歳までの男性のものと推定され、また遺体を包んであった10枚の新聞紙の日付が、4月26日と5月4日のものだったので、死後1週間以内とみられた。捜査本部は発見現場に遺体の残りの部分があるものとみて捜査したが、約300m下流のところで柳行李(竹などで編んだカゴのこと)が発見できただけだった。

5月14日、伊藤巡査の内縁の妻で、志村第三小学校教諭の宇野富美子(当時26歳)が志村署に呼ばれ、事情を聞かれた。富美子は伊藤巡査について「(伊藤の)実父母にも電報を打ったが、所在がわからない。借金のためか、女のためか、家出したのではないか」と語った。

5月15日午前9時50分頃、遺体の首部分が胴体発見現場の対岸、西新井橋上流の約1km付近を流れているのを瓦職人が発見した。長らく水中にさらされていたため首は原型をとどめておらず、モンタージュ写真を作成して、この被害者の身元を割り出すこととなった。

しかし、この日の内に志村署から連絡があり、同署警ら係に所属する伊藤忠夫巡査(27歳)だと推定されたが、翌16日、両腕も発見され、指紋照合の結果から伊藤巡査であることが確定した。

小学校教諭で内縁の妻、宇野富美子が犯行を自供

富美子が殺人の容疑で緊急逮捕されたのは15日夕方頃だった。富美子宅を家宅捜索したところ、2階の4畳間の押し入れから血痕が発見された。

それでも、富美子はしばらくは落ちついた様子で、「私は教育の任にあるものですよ。そんな私に嫌疑をかけられて迷惑です。どのような証拠によって逮捕されたのか存じませんが、これで憲法に保障された人権というものが、私にもあるのでしょうか。刑事さん、第一あの柔道何段という男をこんな小さな私が殺したり、ばらしたりできるわけがないでしょう」と話した。

あまりに迷いのないまっすぐな視線でそう言うので、刑事たちも思わず納得してしまったという。

しかしその後、17日正午頃、内縁関係にあった二人の事情を聞いていた刑事達は富美子に同情し、伊藤の不誠実さを責め、諭し続けていたところ、富美子はついに涙をこぼしながら「お手数かけて申し訳ございません。一切正直に申し上げます」と犯行を自供した。

供述から、富美子の母親である宇野シズ(当時51歳)が死体損壊の容疑で逮捕された。

「現職警官が殺害され、バラバラにされて川に捨てられる。しかも犯人は小学校の女性教師とその母…」

それまで先例のなかったような猟奇事件の思わぬ結末に、事件後も新聞各社による全国的な報道が続き、社会問題にまで発展した。

富美子の生い立ち、伊藤忠夫との再会

宇野富美子は大阪市都島区で生まれた。5人兄弟の長女で、兄1人、妹1人、弟が2人いた。

父親は絹綿加工業を手広く営んでいて、常時20人前後の従業員を雇っていた。言わば、比較的裕福な家で、富美子は「お嬢様」のような育てられ方をしていた。しかし、楽しいはずの青春時代は戦争と重なり、家業もその影響が直撃した。

富美子の学校での成績は常に上位で、疎開先の山形県長井高等女学校の専修科を卒業し、小学校訓導の免許証を得て、間もなく大阪の小学校に勤め始めた。生まれ育った家は焼失していたが、1人で部屋を間借りして、月収7000円から月々2000円を家族に送金していた。

この職場で富美子は年下の教諭と恋に落ち、彼女からのアプローチで交際が始まった。その後、富美子の方からプロポーズしたが「親の決めたフィアンセがいるから」と振られてしまった。これが相当こたえたのか、富美子はある男の元へ走ることになる。この男が、伊藤忠夫だった。

伊藤の継母は富美子の母・シズと実の姉妹で、2人は幼い頃から知り合っており、しばらく2人は互いの家に行き来するなど、いとこ同士の交際をしていたが、富美子の大阪行きで一旦は立ち消えとなった。

そんな伊藤と、富美子は49年夏頃から文通を始めた。

そのうちに伊藤が大阪に遊びに来て男女の仲になった。当時、年下の教師との恋に破れて傷心していた富美子は、伊藤との東京での新しい生活を夢見ていたという。

伊藤忠夫の生い立ち

伊藤忠夫は山形県で生まれている。一家の生活は貧しく、伊藤は小学校を出た後奉公に出た。そのうち上京し、日本光学の工員として働き始めたが、召集され中国へ出征することとなった。

48年2月、伊藤は警視庁巡査となり、板橋区の志村署に警ら係として勤務していた。柔道三段の頑丈な体つきだったが、勤務成績は芳しいものではなく、51年には拳銃をなくし譴責処分を受けている。また、酒好きで借金があり、判明しているだけでも18軒から計58700円もあった。

夢見た東京での生活と、明らかになった現実

51年4月、ついに富美子は上京、板橋区の志村第三小学校に勤務し始めた。学校での富美子の評判は極めて良く、児童らにも慕われていたという。

この上京は、もちろん、伊藤と一緒になるためであったが、富美子は伊藤の現状を知って愕然とした。

安定した収入を持つ警察官でありながら、伊藤は借金まみれで、住まいもなく寮暮らし、逆に自分が借りた部屋に伊藤が転がり込んでくる始末であった。

さらに、伊藤は同居しても籍を入れようとはしなかった。また、伊藤が借金を抱えている状況であったため、憧れていた結婚式をあげる夢も叶わなかった。

間もなくして、面倒見なければならない母と弟(当時14歳)も上京してきたため、富美子は伊藤に別れ話を持ち出したが、「男の面目にかけて絶対にできない。どうしても別れるなら、勤めもやめて一生つきまとってやるぞ」と脅された。以後、富美子は失望と苦悩のなか生活苦の日々を送ることとなった。

母・シズは「娘の苦労を見たくない」と52年4月に一旦転出届を出すも、「やはりおまえが心配で帰れない」とそのまま東京に居続けた。

「売春婦として売り飛ばされる」恐怖から犯行へ

52年5月7日午後9時ごろ、泥酔して帰宅した伊藤は富美子に「どこで飲んできたの、私に苦労ばかりさせて」と詰問され、思わず彼女をひき倒し殴った。

普段はすぐに平謝りする伊藤の、初めての暴力だった。伊藤は手をあげた後、涙を流し始めたため、この場はいったん納まった。

そしてその後、伊藤は酔いつぶれ、横になっていたがこの時ふと寝言を漏らした。

「捨てるのは惜しい。売れば金になる」

その言葉に、富美子は衝撃を受け、「伊藤は自分を売春婦として売り飛ばすつもりなのだ」と感じた。

実は、以前に「知り合いが博打に負けて妻をとられた」と伊藤が話していたのを聞いていたことがあった。

そしてこの時、富美子は夫殺害を決意した。

翌8日の朝、警棒の端に細紐を結んで、窓の外に出し窓を閉めた。そして紐を伊藤の首にひと巻きし、思いっきり引いた。夫の「自警」(警視庁機関紙)からヒントを得たこの方法で伊藤はまもなく絶命した。

母娘による犯行の隠蔽

母・シズは気配を察して、目を覚ましており、シズは死んだ伊藤の前で泣き崩れたが「バラバラにして捨ててしまおう」と富美子に提案した。

弟を東大久保の親類に預けたあと、2人は押入れに隠しておいた伊藤の遺体を金ダライで血を受けつつ、切断した。

翌9日午後7時過ぎ、富美子は小学校から借りてきた自転車に胴体部分を乗せて自宅を出発。シズは首と両腕部分を持ち、待ち合わせていた新荒川大橋へとバスで向かった。

そこで遺体を放水路に投げ込んだ。その時の「ドボン」という音が、その後いつまでも富美子の耳を離れなかったという。

取り調べが一段落した6月9日、富美子は刑事に次のように語っている。

「世間の人は私のことを異常性格というかもしれませんが、私は伊藤に対して心から詫びるつもりはありません。あのまま生活をつづければ、どちらかが殺していたでしょう。私は夫を殺した瞬間、ホッとした気持ちでした。長い間おびやかしてきた邪魔者がいなくなって、もう大丈夫という安心感で一杯でした。予期に反して悪い結果になったことについても、少しも後悔しておりません」

判決とその後

1952年12月、東京地裁は、富美子に懲役12年、母・シズに対して懲役4年の判決を下した。

2人はともに栃木刑務所で服役していたが、シズは翌年に獄中で病死。

富美子は刑務所の温情で、死期の迫った母の看病ができ、その死を見送ったという。

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