事件・事故

女子高生誘拐飼育事件(女子高生籠の鳥事件)

1965年11月25日、自称観光ガイド・角園九十九(当時40歳)が東京・豊島区長崎2丁目の路上で、女子高生(当時17歳)を靴べらで脅して連れ去り、自宅アパートに監禁した。

角園が逮捕されるのは翌年5月のことで、角園と被害者である少女の”特異な同棲”が騒がれた。

事件の経緯と動機

1965年11月25日。この日の午後は冷たい雨が横なぐりに降っていた。

東京・豊島区の西武線・椎名町駅に降り立った1人の男がいた。
名前は角園九十九(当時40歳)。彼はどこにでもいるような、冴えない中年男であった。

角園は駅から自宅アパートに戻ろうとしたのだが、道路工事をさけて、いつもと違う道筋をとった。敬愛病院の角を曲がると、紺のレインコートを着た高校1年生ぐらいの少女が歩いているのが目に入った。少女は米屋わきの路地に曲がり、激しくなってきた雨を見上げて、折りたたみの傘を開こうとしていた。

角園はこの時、この少女を襲おうという気持ちになった。後から駆けて近寄り、金属製の靴べらを彼女の首筋にあてて、左腕を首にまきつけた。

「静かにしろ!騒ぐと殺すぞ!まずお前の傘をたため!」

少女はおとなしく言う通りにして、傘を置いた。そして角園はレインコートの中に少女をすっぽり抱え込み歩き出した。その途中、角園は少女に年齢、名前などを尋ねている。少女は「高校3年のA子(当時17歳)」と正直に言った。

現場は線路の北側数百メートルで、角園のアパートは線路のはるか南にあった。角園は人目につかない道を選びながら歩き、途中でオートバイとすれちがったりしたが、なんとか自分の部屋まで辿りついた。

部屋に入ると、A子さんの目と口に絆創膏を貼り、「裸になれ」と命じた。手錠をかけ、ベッドに寝かせ、性交しようとしたが、痛がってうまくいかなかった。そこで角園は少女の首に果物ナイフをあてて、口の絆創膏をはがして口淫させた。角園はその後、ベッドに転がされているA子さんの傍を、ぐるぐる歩き回っていた。どうしていいものか、混乱したためである。

角園は少女が生理中であることを、翌朝起きてシーツが汚れているのを見て、初めて知った。

角園九十九について

角園は1922年(大正11年)、神奈川県橘樹郡御幸村生まれ。父親は新聞記者で、母親は幼い頃に亡くなっている。11歳の時に父親は再婚、妹が生まれた。この頃、一家は杉並区和田本町に住み、さらに2人の弟が生まれた。

1942年(昭和17年)頃、父親は新聞社を退社し、一家は満州に移住。ただし20歳になっていた角園だけは日本に残った。

終戦時、角園は中尉(海軍)となっている。並の徴兵では中尉にまではなれない。学歴などははっきりしないが、幹候コースか軍の学校か予科練を出ていたとされる。一方、一家は満州から引き上げてきて、その数年後に父親は亡くなったが、それ以来角園は実家には寄りつかなくなった。

1947年5月、角園は結婚。女児をもうける。戦後は新聞販売、出版業などに従事した。だが23歳の時に妻と離婚してからは、定職を持たなかった。窃盗の前科があり、1963年7月に府中刑務所を出所ている。

1964年、角園は西武線江古田駅から徒歩10分のアパート(豊島区長崎4丁目)を借りた。管理人には「翻訳家、夜間学校の語学講師をしている日野雅史」だと名乗っていたが、実際は観光ガイドの仕事をしていた。ガイドといっても、ホテルのロビーあたりをたむろして客を見つけるもぐりの商売である。と言っても、英語は得意だったようで、英文の日記もつけている。

I’m lonely man,I have to find for a peach,and it must be white ripe peach.
(俺は孤独な男。だから”桃”を探さねばならぬ。それは白く熟れた甘い桃だ)

日記によると、角園は1965年8月16日にウィリアム・ワイラー監督の「コレクター」を観て感動している。

この作品はイギリスの作家ジョン・ファウルズの同題の小説を映画化したもので、内気な若い銀行員のフレディが、大金を掴んで郊外に別荘を買い、車で美しい女学生ミランダをさらってきて地下室に監禁するというものである。

俺はすべてのことを考えた。結局被害者は被害者だ。それは美しい目的を与える。
被害者は所有者のためにある。それは彼女らの務めだ。ラスト・シーンはすばらしい。
被害者は美しいし、フレディは思いのまま情容赦なく振舞う。
……フレディの気持ちはよくわかる。

角園はこの映画におおいに影響を受けたのか、町を歩いて美しい女性を見つけては、日記に「あんなコレクションが欲しい」などと書いていた。

A子さんは共栄女子商業高校3年生。春には某製薬会社の就職も内定していた。

この日は文化祭の準備のため学校の授業はなく、午後6時頃にバドミントン部の練習を終えて、友人と一緒に校門を出た。バスで池袋で降りてから、友人に誘われて新栄堂書店に入り期末試験の参考書などを立ち読みしていた。続いて池袋駅地下にある西友ストアーであべ川餅を食べ、店の前で友人たちと別れた。A子さんは西武線に乗って椎名町駅で降り、自宅に向かった。いつもと同じ、いつもの帰り道、のはずだった。

A子さんは普段遅くなる時は家に電話してそのことを告げていた。だがこの日は最終電車の時間になっても帰って来ない。両親は長崎2丁目の交番に行ったが、巡査に「友達のところへでも泊まったのでしょう。よくあることです。明日になって届けたらどうです」と言われ帰された。

結局、娘は翌朝になっても帰らず、学校の方にも現れない。両親はすぐ警察に届けた。それだけではなく、目撃情報を依頼するビラを西武池袋線沿線に商店などに貼ってもらうなどした。費用は25万円ほどかかった。

やがてマスコミも「理由なき家出」として話題にし始めた。A子さんは成績優秀で、内定ももらっており、ソロバンの二級検定試験の結果も楽しみにしており、冬休みのアルバイトで友人たちと旅行に行く計画をたてており、異性関係もないということからである。

半年間の同棲

「ねえ、私、逃げないから手錠や目隠しをとってください。あなたは優しい人なんでしょ」

誘拐の翌日、A子さんはそう話しかけ、角園は言われるがままにした。優しい言葉をかけられたこともあるが、手錠をつけたままだと扱いづらいということもあった。さらにA子さんが喜びそうな雑誌を買ってきて、機嫌をとった。

「ねえ、あなた、私のこと好きなの」とA子さんが尋ねると、
「好きだから、お前をああしてここに連れて来たのじゃないか」と角園は怒ったように言った。

A子さんからすれば、この中年男が可哀想な人に思えた。あんなことをしなければ、女1人ものにできないのか。そういう思いが母性本能をくすぐった。「怖い」という思いは次第になくなっていった。

4日目、角園は1人大丸に出かけて、少女のための下着類、ワンピース、オーバーなどを買ってきた。他にもミシンや布地なども買い与えている。A子さんは年頃の少女らしく新しい服を着て喜んだ。

角園の犯行は最初こそ強引だったが、それからはずっと少女を大切に扱っていた。もう淋しい思いを綴った日記をつける必要もなくなっていた。

12月4日、2人は伊東のホテルまで出かけた。宿帳には「日野雅史 43歳 著述業」「みどり 17歳」と記していた。”みどり”とは、別れた妻との間にもうけた一人娘の名前で、角園はA子さんに「パパ」と呼ばせていた。

この小旅行は、監禁以来風呂に入っていないA子さんの機嫌とりであった。誘拐の手配書がまわっているので銭湯に行けない。アパートに浴室をつくりたかったが、管理人が良い顔をしない。だからポリエチレン製のたらいを買ってきて、これで行水させていた。

「日野さん(角園の偽名)、若い愛人を見つけたのね」

2人の様子は、アパート管理人夫妻も知っていた。夜遅くに帰ってくるのを何度か見かけたのだが、いずれも少女の方が角園の腕にぶらさがるように歩き、楽しそうな様子だった。

殺風景だったアパートの部屋に、少女のための家具がひとつ、またひとつと増えていった。角園は「日野みどり」名義で貯金すら始めていた。部屋の中では恋人を、外では親子を装った2人の関係は半年間続いた。

1966年5月18日、2人はA子さんの母親を呼んで内偵していた捜査員に発見された。偶然、A子さんを目撃した人が、目白署に届けていたためだ。

目白署に保護されたA子さんは、最初の調べにこう語った。

「あの日、池袋駅で友達と別れたあと、なんとなく国電に乗って渋谷に来た。ハチ公の銅像前で雨に濡れて立っていると、「どうしたの?」と傘をさしかけたおじさんがいた」

角園も同じようなことを供述している。

「その少女が『家に帰りたくない』と言うので、住所をたずねると自分のアパートの近くだった。『一緒に帰ろう』と言って連れ帰り、そのまま一緒に暮らし始めた。死に別れた妻にA子がよく似ていたので結婚するつもりだった。行方不明で騒いでるのは知っていたが、帰すつもりはなかった」

無論、これは口裏合わせした嘘である。角園は取り押さえられた時に、「シブヤ、シブヤ」とA子さんに声をかけていた。おそらく以前にこういうストーリーを話していたのだろう。各新聞は、当初この創作をそのまま報道した。

判決とその後

5月31日、共栄女子商業高校は校長名で目白警察署長宛てに要望書を提出した。誘拐事件での捜査の努力は感謝するが、当局が報道陣に不用意な資料と見解を公表したことの責任を問うものだった。

公判では、角園の強姦の意思の有無がポイントとなった。誘拐からしばらくは愛撫のみであったが、1月半ばに初めて関係をもった。”強引”にではなかったが、やや無理に行為を済ませた。このことで角園は裁判長から、
「残酷なことではないか、年端もいかぬ子に…むごいこととは思わないか!」と叱られている。

1966年11月10日、東京地裁、角園に懲役6年の判決。最高裁まで争われたが、いずれも棄却されている。

この事件を、マスコミなどは「なぜ少女は逃げなかったのか」ということから、「異常な同棲」などと報道され、逃げなかったA子さんが咎められるなどした。こうした謎は、「ストックホルム症候群」という精神医学用語で説明される。

犯罪被害者は、恐怖を抱いた後で犯人に優しくされると、生命を救われたような特別な感情をもったりする。不思議と犯人に同情や親しみを持ち、時には愛情すら育む。ハイジャック事件などで、無事解放された乗客が口を揃えて「犯人は私達には親切だった」などと言うのはそのためである。

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