事件・事故

神戸商船大学院生リンチ殺人事件

法廷で初めて警察の職務怠慢が認定された事件

2002年3月4日深夜、神戸商船大学院生・浦中邦彰さん(27歳)が神戸市西区有瀬の県営住宅の駐車場で山口組系の末原組組長・佐藤高行(当時38歳)に因縁をつけられ、後から駆けつけた佐藤の子分らに暴行されたのち連れ去られた。

翌日午後4時20分頃、浦中さんは神戸市西区の山間部を流れる宝光芒川の浅瀬で遺体となって発見された。死因は川に捨てられての凍死だった。

事件の経緯と詳細

浦中さんについて

浦中邦彰さん(27歳)は神戸商船大学院で輸送システム工学を専攻していた。アルバイトをしながら、学業に励んでいたという。指導教官によると、浦中さんは神戸市東灘区の深江地区の復興状況などを調査するメンバーで、3年前「航空写真を用いた阪神大震災直後の道路交通実態の解析」という学位論文を発表した。

近所の人の証言によると、浦中さんは「彼はフロアの自治会長を務めたり、団地の掃除なども率先してやる世話好きの子」で、「深夜まで飲食店でアルバイトをしていると話していた。『遅くまで大変やね』と声をかけると、にっこりあいさつしてくれる子」だったという。

駐車トラブル

2002年3月4日午前3時過ぎ、浦中さんの友人・Hさん(男性 当時31)が、浦中さんを自宅のある神戸市西区有瀬の県営団地1号棟前に送り届けた。車から降りた浦中さんが家に向かい出した時、上下スエットでパンチパーマの明らかに暴力団とわかる男と目が合った。

男は山口組系・末原組組長・佐藤高行(当時38歳)で、佐藤の情婦でスナック経営の谷京子(当時35歳)も一緒だった。

「どこに車、停めとるんや」
 佐藤はそう怒鳴り、浦中さんの顔面を思いっきり平手打ちし、メガネを吹き飛ばした。
「なんでメガネ、飛ばすんや」

浦中さんは佐藤に突っかかっていったが、佐藤は浦中さんの胸ぐらを掴むと、その体を何度も車体に叩きつけた。その様子を運転席から見ていたHさんが飛び出し、2人を引き離そうとしたが、顔面を殴られ、鼻から血が噴出した。それでもHさんは暴れる佐藤の両足にタックルし、食らいついた。浦中さんは佐藤を羽交い締めにして抑えた。佐藤はなおも足元のHさんに何発か蹴りをいれていた。佐藤はもみ合う内に鼻から出血し、さらに逆上した。

3時15分、傍にいた京子が形勢不利と見て、「パパがやられてる。早く来て」と佐藤の子分を加勢に呼んだ。

3時20分、浦中さんも佐藤の首を抑えながら、携帯電話から110番通報している。それを見た京子は浦中さんの携帯を取り上げ、植えこみの中に投げ入れた。

ここで、この団地の駐車場トラブルというのがどういうものだったか見ておく。事件の現場となった県営有瀬団地(220戸)には駐車場が約120台分しかない。自治会が近くの民間駐車場を借りているが、住民が所有する車の台数分すべてが確保できているわけではない。 このため、同団地内の道路では、住民や訪問者、周辺の店舗に買い物に来る人らによる無断駐車が常態化。狭くなった道路を車が通れず、車の前で言い争う光景が後を絶たないという。

3時25分頃、佐藤の子分である冨屋利幸(当時37歳)が「チェイサー」で現れ、加勢に入った。富屋は佐藤を抑えていたHさんの顔面を蹴り上げ、浦中さんの顔面にも蹴りをいれていた。その直後、河原典之(当時30歳)、阿部盛靖(当時36歳)と、佐藤の子分が矢継早に現場に到着して、佐藤を含めた4人で2人を袋叩きにした。佐藤たちは「海に沈めたる」「山に埋めたる」と話し、Hさんを彼の車の後部座席に放りこんだ。
3時36分、ようやくパトカーが現れた。Hさんはドアを開けて車を飛び出し、警察に助けを求めた。この時、暴行で意識が朦朧としていたHさんは浦中さんがどうなったのかわかっていなかった。

パトカーが現れたのとほぼ同時刻に京子の弟・谷信之(当時32歳)が、「アリスト」に乗って加勢として駆けつけてきた。佐藤と京子はパトカーを見るや、京子の自宅である1号棟108号室に逃げ込んでいた。

3時36分ごろ、保護されたHさんは、警官に対して「その辺りに(浦中さんが)いなければ車に乗せられたかもしれない」と、拉致された可能性を指摘。パトカー内で事情を聴いていると、冨屋、河原、阿部、谷の4人が、Hさんをパトカーから連れ出そうとしたため、警官らが押し返す一幕もあった。その後、警察官とヤクザたちが話し、富屋が出頭を約束した。警察官はHさんは4人にやられたとしか思えないような重傷を負っていたにもかかわらず、誤認逮捕を恐れたのか男達を任意同行させずに、現場にいた犯人たちを立ち去らせた。

4時7分、男が暴力団組員であることをに把握しながら、同17分には、現場の警官らは「事態が収まった」と判断。明かにHさんは4人にやられたと思えるような重傷を負っていたにもかかわらず、応援の自動車警ら隊員らは帰っていった。

しかし、浦中さんは連れ去られていた。パトカーが来た時、浦中さんは冨屋の車「チェイサー」の後部座席に失神した状態で放りこまれていたのだ。

3時55分頃、警察官がチェイサーのナンバーをチェックしているが、中にいた浦中さんを発見できなかった。

4時00分、チェイサーは浦中さんを乗せたまま、現場をあとにしている。

壮絶なリンチ

拉致された浦中さんが最も激しい暴力を加えられたのは、トラブルが起きた県営団地前の現場から約2km離れた同区の第二神明道路伊川谷インター近くの空き地だった。付近は雑木林のほか、資材置き場などもあり、時折、大型ダンプや車が出入りする。しかし、空き地前には「立ち入り禁止」の看板も立てられ、外から様子をうかがうことはほとんどできない。 この現場で相当時間、凄惨なリンチ行為をしていた。

佐藤たち暴力団員6名(あとから加わった者も含む)は、浦中さんをロープで金網のフェンスに縛り付け、殴る蹴るの暴行を繰り返した。浦中さんが意識を失うと、冷たい水を浴びせかけた。意識が回復すると激しい足げりを加え、失神すると、同じ行為を繰り返したという。

暴行場所を作業員宿舎に移し、拉致しそこなったHさんの名前と住所を聞き出すため、浴槽に顔を浸け、拷問した。友人の名前を問われた浦中さんは「・・・1号、・・・2号」「ユーアーマイフレンド」と言ったという。これは暴行を受け脳震盪を起こしたために、神経機能に障害をきたし、錯乱状態に陥っていたと思われる。

「極道の怖さ教えたる」

再び場所を変えたのち、佐藤の子分らはそう言いながら、デッキブラシで何度も浦中さんの頭部を殴りつづけた。その後、「た・・・す・・け・て・・」と言う浦中さんに、彼らは小便を掛けている。
「わかっとるやろな、警察には言うな」と言って、引き上げさせた。暴行は3時間に及んでいた。

暴行後は組長がショベルカーを使い、浦中さんを生き埋めにするよう指示した。しかし、ショベルカーが人目につかない場所まで入れず、穴を掘ることができなかったため断念。川へ放置するよう、組員らに再度指示したという。

3月5日午後4時20分頃、神戸市西区の山間部を流れる宝光芒川の浅瀬で遺体となって発見された。当時の気温は3℃ほどだったといい、死因は凍死だった。浦中さんの遺体はろっ骨をほとんど折られ、右後頭部はパックリと割れ、くも膜下出血で意識を失った形跡もみられた。、上半身は裸でにあざや切り傷が多数残っていた。また司法解剖の結果、浦中さんを川に放置したのは同日7時頃だったといい、浦中さんはその後、数時間生存していたとみられる。遺体にはベルトなどを凶器に使ったとみられる形跡もあったという。

警察の失態

この事件、浦中さんの死は防げた。駐車場で暴行された浦中さんを、その場で無事保護できていれば、彼が死ぬことはなかったのである。

事件発生直後に3本の通報があった。

第1報は、3時18分、一般加入電話による女性からの通報で、「けんかが起きている」という内容だったという。2報目は亡くなった浦中さんが同20分にかけ「ヤクザのおっちゃんが暴れてるんですよ」と話している。この時の浦中さんの通報では京子の「いいかげんにしときい。ほんまに殺されるで」という罵声が入っていた。同34分に3本目の通報、男性の声で「もう連れていかれよるで。はよ来たらないかん。時間がかかりすぎやわ。車にのせられよる」というものだった。3本の通報を受けた時点で、「ヤクザ」「殺される」「拉致されかかっている」という情報があり、被害者の命の危険を十分予測できたのにも関わらず、駆けつけた警官は着替えに10分もかけるほど悠然としていた。

署員の現場到着は、3時36分ごろ、神戸西署と井吹台交番からの4人だった。事件現場に最も近い有瀬交番にいた2人の到着は同41分。有瀬交番よりも遠い住民さえ騒ぎに気づいていたが、有瀬交番からの出動は、神戸西署からの指示後だったという。現場に向かうには2人以上で行動することが原則になっており、一人が仮眠中だったため、出動に手間取ったとみられる。

遅い到着後も警官の不手際は多く見られる。まず、第一に10人もの警察官が到着していながら、冨屋一人に対してしか職務質問を行わなかった。その冨屋の免許証をチェックした時に、暴力団と判明したのに、だ。

さらに前述した通り、警察官はHさんは4人にやられたとしか思えないような血まみれの姿だったにもかかわらず、誤認逮捕を恐れたのか男達を任意同行させずに、現場にいた犯人たちを帰らせたことと、冨屋のチェイサーのナンバーをチェックした際に後部座席に失神したまま放りこまれていた浦中さんを発見できなかったことである。車にはスモークガラスなどは貼られておらず、懐中電灯を照らせばすぐに発見できたのにである。

また組員の衣服には、左腕と左太もも部分に血が付着していたため写真撮影したが、それでも事件性を想像できなかったのか、いったん帰宅させていた。これは照屋が「でもこんなようさんパトカーがおったら、連行されてるみたいで嫌や。パトカー退かしてくれたら、必ず後で出頭する」と言ったためである。警察はなんと暴力団員の要求を呑んだのだ。

警察官は車の中でHさんから「(浦中さんが)拉致されたかもしれん」という話を聞いたが、浦中さんが見当たらないことから、家も近いので”自力で逃げた”という憶測をたて、捜索すらしていない。

4時30分頃、野田巡査が浦中さんの自宅に連絡して、母親から浦中さんがまだ帰宅していないことを知らされた。この時、巡査は暴力団が関わってることや、浦中さんが怪我していることなどは一切話していない。母親は浦中さんが友人に怪我を負わせて逃げていると誤解したが、巡査はその誤解を解こうともせず、電話を切っている。

同じ頃、冨屋が有瀬交番に出頭。

「わしが1人でやりましたんや」

警官らはHさんから何人もの男から暴行を受けたという話しを聞いていたが、一人やってきた冨屋に対して詳しく追求はしていない。取り調べは1時間ほどで終わり、冨屋は放免された。冨屋はその足でリンチ現場である作業員宿舎に急行している。

5時44分ごろ、病院搬送後のHさんが「浦中さんを乗せた車は銀色のセダンだった」などと、連れ去られたことを具体的に示していた。

通常、事件発生後は、人の出入りや時間経過などで証拠が失われたり発生当時の状況が変化しないよう、当時の状態を一定期間保つが、同署はこうした現場保存を十分にしていなかった。午前7時すぎには、現場付近で、浦中さんの携帯電話や知人の眼鏡などが見つかったが、落ちていた場所の詳細な状況を写真などで記録せずに回収。初めて鑑識作業をしたのは6日で、前日にはまとまった雨が降ったため、現場付近にあったとみられる浦中さんの血痕、加勢に駆けつけた組員らの足跡やタイヤ痕などが、採取できなかったという。

事件後

事件後、捜査ミスを認めた兵庫県警は、所轄署の田中東雄・神戸西署長(当時)ら10人の処分に踏み切った。だが、いずれも減給(100分の1)3ヶ月や訓戒など、失わせてしまった命と比べると、はるかに軽いものだった。

途中で警察に保護されて難を逃れたHさんは、事件後PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、事件の起きた午前3時頃になると体が震えて眠れなくなると言う。そのため、仕事を夜勤の仕事に変えた。
また公判では証人として出廷し、次のように語った。

「浦中さんを助けることができなかった自分を責め続ける日々が続いている。申し訳なかった」

裁判とその後

2004年3月26日、神戸地裁は佐藤に無期懲役、他の組員ら6人に懲役21年を求刑。

2004年8月5日、神戸地裁は佐藤に懲役20年、元組員らに10年~14年、谷京子には懲役3年執行猶予4年を言い渡した。
 

2003年4月17日、浦中さんの母親が、犯人の暴力団員7人とともに、県警を管轄する兵庫県を相手取り、約1億3700万円の損害賠償を求める訴訟を神戸地裁に起こした。

2004年12月22日、神戸地裁村岡泰行裁判長は「組長らが浦中さんに対する暴行をエスカレートさせた背景には、警察官らの組織的な対応のつたなさ、暴力団に対する不適切な対応が大きく影響している」として、殺人事件と捜査の不作為との因果関係を全国で初めて認定し、県や組長らに合わせて9736万円の賠償を支払いを命じた。

2005年7月25日、大阪高裁の控訴審でも、一審を支持し、県の控訴を棄却した。

2006年1月19日、最高裁・横尾和子裁判長は、県側の上告を棄却。一、二審の判決で確定した。

この判決は、警察の職務失態とXの死との間に因果関係があったことを認めた判決として大きく注目されました。

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