「てるくはのる」遺体の傍に残された犯行声明文。小学生を切りつけた犯人が自殺し、動機は謎のままに。
1999年12月21日、京都市伏見区の日野小学校校庭で遊んでいた小学2年生の中村俊希君(当時7歳)が、若い男に首など数カ所を刺され、失血により亡くなった。
犯人は現場付近に凶器など大量の遺留品とともに、犯行声明文とみられる文書を残していた。
犯行声明文が残されていたことはもちろん、その内容から、犯行は二年前に起こった神戸の酒鬼薔薇聖斗事件を彷彿とさせ、文中の「私を識別する記号→てるくはのる」の謎解きなどで、マスコミでも話題となった。
翌2000年2月5日午前7時、京都府警の捜査員たちが容疑者としてマークしていた伏見区の浪人生・岡村浩昌(当時21歳)の家を訪れ、任意同行を求めた。
岡村がこれを拒否したため、捜査員たちは近くの公園に場所を移し、説得を続けたが、岡村は突然立ち上がって捜査員を振り切って逃走。そのまま近くにあった団地の屋上に駆け上がると、飛び降りて自ら命を絶った。
容疑者・岡村の死亡によって、事件の動機は永久に謎のままとなった。
小学校校庭で起きたこの殺人事件は、日本の国民に大きな衝撃を与え、また、「任意同行を求めた被疑者の逃走を許し、挙げ句の果てに逮捕直前で自殺されてしまう」という警察の大失態は、国民からの痛烈な批判を浴びることとなった。
事件の経緯と動機
1999年12月21日、目出し帽をかぶった男が、京都市伏見区の日野小学校に正門から堂々と侵入した。
そのとき、校庭で遊んでいた児童は20人ほどいたが、男はそのなかでジャングルジムで同級生7人と遊んでいた同校2年生の中村俊希くん(当時7歳)を包丁で突然切りつけた。
その後、男は俊希君以外には目もくれず、北側の裏門から平然として歩いて逃げた。
俊希くんは顔・首・腕・手のひらなどに切傷があったが、首の傷が最もひどく、長さは20cmにも及び、首と胴体はほぼ離れかかっていたという。
現場や逃走途中には、大量の遺留品が残されており、犯行現場には長さ約30cmの洋包丁1丁、金づち、殺虫剤の容器、また現場から400m離れた児童公園では、血痕の付着した紺色のフードつきジャンパー、逃走に使われた自転車、黒の目出し帽と右手の手袋、ナイフが発見されている。
そして、犯行現場となったジャングルジムの近くには、後述の通り、犯行声明文が残されていた。
事件直後、京都府警は直ちに所轄の山梨署に捜査本部を設置。約90人の捜査員を手配し、犯人の特定を急いだ。
犯行現場を目撃していた児童が「(自分の)お兄ちゃんぐらいだった」と証言したことや、犯行声明文の不器用な文字、さらに2年前の神戸の事件(酒鬼薔薇聖斗事件)のこともあったため、犯人は中学生か高校生と想定され、聞きこみによる捜査が行われた。
大量の遺留品も、そのほとんどが近隣の量販店で入手できるものであったため、遺留品から犯人を絞り込んでいくことは困難を極めた。
捜査開始から1週間が過ぎた頃、伏見区に隣接する宇治市の量販店から、犯行の2日前に「鞘付きナイフや農薬など遺留品と同じ商品3点を一括購入した若い男が防犯ビデオに撮影されている」との情報が寄せられたが、その防犯カメラの画像は非常に画質が荒く、また映っていた男も当初予想されていた犯人の年齢層より高かったため、対象年齢も捜査範囲も拡大せざるを得なくなり、犯人の絞込みはさらに困難なものになった。
しかしその後、犯人が逃走中に乗り捨てたと思われる自転車が、大阪府枚方市内で購入されており、防犯登録の住所欄には宇治市内に実在するレンタルビデオ店の所在地が記入されていることが判明。
捜査本部がビデオ店の顧客リストの分析を進めたところ、量販店の防犯ビデオに撮影されていた男と、自転車を購入した男が酷似していることがわかった。
こうして、翌2000年1月、京都府警は伏見区の浪人生・岡村浩昌(当時21歳)を容疑者としてマークし始めた。
1月下旬には動機解明のため、岡村が通っていた高校を調べ、府立高校の教師から岡村が「(卒業時に)卒業を取り消してほしい」と強く迫っていたことや、教育制度そのものに対して不満を抱いていたことなどの情報を得た。
2000年1月28日、京都府警山科署が、ホームセンターのビデオに映っていた男の写真を公開。
そして、2月5日午前7時ごろ、ついに捜査員6名が任意同行を求め、岡村宅を訪問した。
報じられた捜査の不備
2000年2月5日午前7時、山科署特別捜査本部の捜査員19人は3班に分かれ、岡村とその母親の住む公営団地「向山ニュータウン」の一室を訪れた。
しかし、岡村は「いきなり訪ねてくるのは失礼だ。今日は友だちと会う約束がある」「捜査令状を持ってるんですか?ないんなら帰ってくれますか。僕は忙しいですから」などと言って任意同行を拒否。
捜査員が母親に事情を説明し、ホームセンターのビデオに映っていた写真を見せると、母親は「写真があなたに似ている。行って話をしなさい。信じているから」と促した。当初、岡村は頑なに拒否したが、捜査員が1時間近く説得した結果、「近くの公園でなら話してもいい」と態度を軟化させた。
そして午前8時20分、捜査員と岡村は、岡村宅から200mほど離れた向島東公園へと場所を移した。このとき、公園の中には4人の捜査員がおり、その後、午前10時半頃には、捜査員の要請によって、母親も公園のベンチに来て説得に加わった。
午前11時過ぎ、説得と並行して行われていた岡村宅の家宅捜索にて、彼の部屋から犯行を裏付けるメモが発見されていたが、公園で説得にあたっている捜査員への連絡は行われなかった。
午前11半過ぎ、家宅捜査にあたっていた捜査員が地裁に逮捕状を請求。
そして、午前11時50分、岡村への説得はなおも続けられていたが、岡村は突然ベンチから立ち上がると、持っていた黒いバッグを捜査員に投げつけて逃走した。
ちなみに、このとき岡村が投げつけたリュックの中からは約20通の手紙(手書きとワープロの2種類)が見つかっており、その大半は岡村の小・中・高校時代の担任や教師に宛てたものだった。
手紙には日野小学校の事件を認める記述や自分のような中退希望者を理解して中退させてほしかった、といった学校教育に対する不満や自殺をほのめかすような記述があり、自宅から押収したメモにもこれと同じような記述があったという。
周辺に配置されていた捜査員たちが後を追うも、公園から200mほどの地点で岡村を見失ってしまった。
一方の岡村は、近くにあったスーパー内を経由し、公営団地・向島ニュータウン内のゴミ集積所に身を隠していた。
しかし、12時30分頃、捜査員に発見され、「何をしている」と声をかけられて再び逃走。公営団地の階段を駆け上がった。
そして、12時40分頃、屋上に出た岡村は、そこから身を投げて自ら命を絶った。
岡村が投身する10分前に、岡村を発見していながら、2度も逃走を許した京都府警の捜査は、マスコミからも大きく非難された。
投身直後の12時45分には、地裁から逮捕状が出されていたが、被疑者死亡のまま書類送検され、不起訴処分となっている。
岡村についてと事件のその後
岡村浩昌について
岡村には両親と5歳年上の兄が一人いる。
小学生時代の岡村は友達も多く人気者で、小学校の卒業文集では「宇宙旅行をして美しい地球を見たい」「大人になって学校を見学に行きたい」と書いている。
ちなみに、岡村の出身小学校は日野小学校ではない点を補足しておく。
中学では野球部に入り、その後陸上部に移った。スポーツ全般を得意にしていたようで、特に足が速く、野球部でも1、2を争うほどだったという。
その後、中学1年の秋頃、父親が病死。それによって兄の家庭内暴力が激化し、近所の人の話によると、母親はたびたび顔に痣をつくっていたという。
兄は岡村には暴力をふるうことはなかったようだが、岡村は悲惨な暴力を間近で見ることになった。
1994年4月、岡村は地元の進学校である洛水高校Ⅱ類理数クラスに進学。上位の成績で入学しており、クラブは陸上部を選択し、1年生の2月にはマラソン大会で4位の成績をおさめた。
順風満帆な高校生活の始まりに思えたが、2年になったころから岡村に変化が見え始めたという。
岡村は欠席が目立ち始め、ついには留年が確実となったことで、岡村は退学を希望したが、担任教師の勧めもあり、岡村はひとまず「休学」とした。
休学中には、一時的に住み込みの飲食店アルバイトをしていたが、大半は団地内に引きこもって過ごした。ちなみに、この間、教諭は岡村に精神科のカウンセラーを紹介して行かせている。
この頃の岡村は団地内で住民からたびたび奇行を目撃されており、廊下で一人で外を長時間眺めていたり、自転車を無表情で長時間触っていたりしたことから、「変な高校生」として警戒される存在となっていた。
1年間の休学を経て、岡村は再び高校に来るようになったが、1997年11月、岡村は「高校生活なんて意味がないから中退したい」と担任教師に打ち明けた。教師はなんとかなだめて説得したが、岡村は納得しなかったという。
結局、岡村は学年末の追試で、英語だけを落としてしまった。本来なら1単位足りないということで卒業は見送られるはずだったが、教師らは職員会議を開き、相談の上、再追試を条件に岡村の卒業を認めることとした。
そして、1998年3月16日、他の生徒たちに遅れて、学校の応接室で「岡村1人だけの卒業式」が行なわれた。教師たちが祝っても、岡村は最後まで喜ぶ様子を見せなかったという。
卒業してすぐの4月、岡村はかつての担任教師のもとを訪れ「できれば、卒業せずに高校に残りたかった。単位が足りないのに卒業させられたことが納得いかず、すっきりしない」と言い、「大検を受けたいので、卒業を取り消して中退扱いにしてくれ」という理解しがたい要求を突き付けた。
校長や教頭が問いただしても、その理由をはっきり口にすることはなく、結局、学校側はこれを受け入れられるはずもなかった。
しかし、岡村はその後、何十回にもわたって卒業取り消しを求める行動を起こしていたという。
事件のその後
2000年7月1日、俊希君のご両親である中村聖志さんと妻・唯子さんの共著による『聞け、”てるくはのる”よ』が出版された。
本書においてご両親は、俊希君に対する思いだけでなく、子どもたちを守るため、少年法を含む法改正の必要性を訴えている。
2004年3月3日、俊希君の遺族らを含む「全国犯罪被害者の会」メンバーによって『被害者の権利の確立と、被害回復制度の拡充を求める陳情書』が、京都府議会議長に提出された。
陳情書においては「被害者と家族は一生立ち上がれない痛手を受けながら、偏見と好奇にさらされ、精神的、経済的苦痛を強いられてきた」という訴えが綴られ、また、「誰もが被害者になりうる。医療や生活の補償、精神的支援の制度確立は国の責務」と指摘し、「被害者のための刑事司法の実現」「刑事裁判に被害者が参加する制度の創設」「損害回復制度の確立」などが要望された。
そして、現在に至るまで、中村聖志さんは「犯罪被害者の会」の活動を行う傍ら、警察に対して事件の情報開示を求める運動をされており、「被害者の”知る権利”の獲得」を訴える活動に取り組まれている。
実際、被害者遺族に対して「家族がどのような最期を迎えたのか」について、”加害者保護”の観点から情報が開示されないケースが未だに存在することは、理解に苦しむところである。
私を識別する記号→てるくはのる
京都府警が会見で、この「私を識別する記号は→てるくはのる」を含む犯行声明文公表し、それがニュースなどで報道されたことで、この言葉の解釈をめぐってさまざまな推理が展開された。
1.アナグラム説
当初有力とされた説で、「てるくはのる」の6文字を入れ替え「くのてるはる」と読む説があった。
後述の通り、これは全くの的外れなモノであったが、実際、京都に住む「くの」さん宅には、問い合わせの電話が殺到したことが報じられている。
2.キーボード文字変換説
キーボードに表示された「てるくはのる」の文字列に沿って入力すると「W.FHK.」となり、この後半部分にあたる文字列に、事件との関連性を見出そうとした説である。
F=伏見区、H=日野小、K=京都府、というような見方がされたが、これも全くの見当違いであった。
3.「21」キーワード説
岡村が犯行当時21歳であったことや、犯行日が21日であったことから、キーワードを「21」として解読を試みた説である。
また、「てるくはのる」の「る」という文字を「反」という記号と読み解き、「反対に進む、反対に読み進む」という解釈がされた。
最初の文字「て」から50音順に進み、「て」を含んだ21文字目にあたる文字が「ら」であり、次の文字「る」を反対に進む記号として以降の「くはの」をそれぞれ50音順に「反対に進む」と「むかお」の文字が示されるとした。
「てるくはのる」の最後の「る」を、「全体を反対に読む」と解釈し「らむかお」を反対に読むことで、犯人は「おかむら」であることを示してると考えられた。
しかし、これも偶然の一致に過ぎない全くの見当違いの憶測であり、岡村の残した「適当な文字列」が、勝手な推理や憶測によって「暗号」かのように扱われていたことが明らかになった。
4.明らかになった「てるくはのる」の正体
3月11日、岡村の自宅から押収された物の中に「名言名句416ページ」という殴り書きされたメモがあったため、岡村宅の本棚にあった格言集『すぐに役立つ名言名句活用新辞典』(現代言語研究会/1993年11月1日出版)が調べられた。
そして、数々の推理や憶測を生んだ「てるくはのる」の文字列は、単に「か行」の索引の末尾の文字を左から右へ並べただけだったことが判明した。(該当ページの詳細は以下を参照。)
「適当な文字列」が「勝手な解釈」によって深読みされたものとして、典型的な事例である。