事件・事故

埼玉・中1少年いじめ自殺事件

「バンザイ!」「あいつ死んじゃった」とニコニコ飛び回っていた加害者

1979年9月9日朝8時過ぎ、埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)のマンションで、市立上福岡第3中学校1年の林賢一君(12歳)が飛び降り自殺。林君は壮絶ないじめにより6月にも自殺未遂していたが、そのことがクラスメートに知られ、いじめはさらにひどくなっていた。林君は在日朝鮮人二世であり、民族差別の要素も持つ事件だった。

事件の経緯と詳細

「壁」

中学に入ってまもなくの4月20日、林君はささいなケンカから複数の同級生にいじめられるようになった。

この日、クラスメートと喧嘩になったのだが、途中に相手に加勢が入り、組み伏せられた林君は相手の腕を噛んだ。このことから「チビのくせに生意気だ」と目をつけられ、クラスでの世論も「噛みついた林が悪い」というものになった。

担任の女性教師(当時29歳)にもそう伝えられており、5月20日の家庭訪問の際に「林君が悪かったんですよ、相手に噛みついたりして…」と話している。この話に両親は林君がいじめられてるとは思わず、むしろ悪さをしている方だと思ってしまう。

いじめに対して林君はやられても反抗していたが、身長142cmとクラスで一番の小柄だったため腕力ではかなわず、むしろその反抗ぶりが楽しまれるようになっていた。

小学生時代、明るかった林君の表情は次第に陰りをみせていく。やがてクラスじゅうにのけ者扱いされ、話し相手がいなくなった彼に「壁」というあだ名がつけられた。

教師たちは休み時間のたびに職員室の前にポツンと立っている林君を何度も目撃している。教室にいるといじめられるので、職員室で先生が出てくるのを待って、一緒に教室に入っていくのである。

「自殺野郎」

H、O、Wにいじめられて、学校に行くのがいやになって、生きているのもいやになりました。ぼくは自殺します。さようならみなさん。

6月18日夕方、林君は上記の書き置きを残して自宅から消えた。書き置きには3人の加害者生徒の実名が書かれていた。 

母親は慌てて担任のK教諭に電話をしたが、「警察への連絡はちょっと待ってください」と言われた。

林君が帰ってきたのは午後8時半過ぎだった。林君は母親の姿を見るなり「お母さん、こわかったよう」と抱きついた。なぜか全身びっしょりで事情を聞くと、駅近くの高層マンションから飛び降りようとしたが、下を見るうちに恐くなったのだという。体が濡れていたのは恐怖のための脂汗だった。

この後、両親は加害生徒3人の親に自殺未遂には触れない形で「仲良くしてくれるよう、子どもさんにいってほしい」と頼み込んだ。

また、担任に対しては「息子の自殺未遂は狂言ではなく、本心からのことなのだから、二度とこんなことが起こらないように学校で処置して欲しい」と何度も頼んだ。

6月19日、担任はクラス全員に「林君は、いじめられるのがつらくて家出しました。1人をみんなでいじめるようなことはないように」と注意した後、「林君をいじめた人、手を挙げなさい」と挙手させた。手をあげたのはH、O、WとY、A、Kの6人だった。

担任は6人を図書室に呼び出し、「本当に死んでしまうよ」と注意したが、これは逆効果、その軽率な発言から林君の自殺未遂がクラス中に知られてしまうことになった。

説教から解放された6人は教室に戻ってから、反省もなく林君を「自殺野郎」「家出っ子」「林死ね、死ぬ勇気もないくせに変なことしやがって」とからかい、いじめはエスカレート、中学1年生の心はますます追い詰められていった。自殺未遂の一件で変わったことと言えば、いじめが教師の目の届かないところで巧妙に行なわれるようになったことくらいだった。

7月初め、林君の父親の姉が上福岡駅前で麻雀屋をやっていたのを、母親が引き継いで商売を始めると、学校のクラスの黒板には「本日開店、林こじき商店」と書かれてあった。林君はむきになってこれを消そうとするが、集団で小突かれた。

その他にも服にマヨネーズをべったり塗られて帰って来たこともあった。机の中に蛇のおもちゃを入れられ驚かされたことがあった。そうした中で林君は少しでも強くなろうとしたのか、7月から毎週日曜日、父親の知り合いのところに空手を習いに行くようになった。

いじめは休み時間の教室だけにとどまらなくなり、登下校時や、所属していた卓球部も練習中にも広がり始めた。球拾いをしている林君のところにやって来て、足で蹴飛ばしていく。すなわち、クラス外の生徒たちにもいじめは波及していったのである。特に二学期が始まってからの9月3、4、5、6、7日の1週間続いた、卓球部の集団暴行はひどいものだった。

「もう我慢できないよ」

9月8日、林君は朝家を出たきり学校へは行かず行方不明となった。 カバンは知り合いの家の前に捨てられており、父親が車で探し回ったところ、市内の路上で見つけた。2人は喫茶店に入り話し合った。父親は「あと2年半じゃないか」と励ましていたが、「僕はずっと我慢してきたんだ。でも、もう我慢できないよ。昨日だって…」と漏らした。前日に逆立ちで教室を歩かされたのだという。3時間の話合いの末、林君はようやく父親の説得に応じる形で納得した。その夜も普通に過ごしていたという。

翌朝、日曜日ということで林君は新調の空手着を着て家を出た。マンションから飛び降りたのは直後のことである。林君の死がクラスメイトに知らされると、遺書で名指しされていたWは「バンザイ!」「あいつ死んじゃった」とニコニコ飛び回っていたという。

市教育委員会では三中事故対策委の「調査報告書」がまとめられたが、それによると「クラス内でいじめはなかった」「(林君は)いざこざの多い生徒であった」と書かれていた。

さらに同市教育委員会・小山教育長は両親に対し、次のように話した。

「今回の賢一君の自殺はまったく不幸な出来事ではございましたが、学校当局および担任の教師は、教育者として、あたうるかぎりの指導と対策を講じており、それでも自殺を防止できなかったという点では遺憾なことではありました。しかし、それは学校及び教師の責任の範疇を越えるものであると考えます。…なお、自殺の原因は種々の複雑な要因が噛み合っており、何が直接の原因であるかは断定できませんでした

そのようにして片付けられようとしていたこの事件を、両親は自分たちで調べようと同級生やその保護者に話を聞いて回った。いじめに関わった子の親からは「林君が死んだのは親の責任だ」と言われ、地域では白い目で見られることもあったが、それによって初めて凄まじいいじめの実態を知ることができたという。

さらにいじめは中学に入ってからではなく、小学校時代からあったことを裏付けるものも出てきた。

賢一君の死後、姉が持ち物を整理していると、賢一君の小学校時代の卒業サイン帳を見つけた。これは卒業文集ではなく、友人で回し書きをするメッセージファイルである。それには次のようなことが書かれていた。

「中学は林といっしょなんて、神様はなにをやっているのだ」(女子)
「林へ―――。一生のおねがいです。…死んでください(今すぐに)。…ただうれしいことといえば林と別れることであります」(女子)
「中学は同じだ。いやだいやだ。おまえとぜったい同じクラスになりたくない」(女子)
「中学はいっしょでないのでほっとしています。そんなかおみてたらいつしぬかわからないもん。ではサイナラ、なぜだかへんになってしまった」(女子)
「好きな人、林以外の人。嫌いな人、林。林のBAKA」(男子)
「林のバカアホトンママヌケ早く死ね!!というのはほんの重いじょうだん。」(男子)
「もう→牛→でっかい→きん→きたない→うんこ→林のするもの→自殺→田宮二郎…」(男子)
※俳優・田宮二郎は猟銃自殺している。

サイン帳には21名の名前が書かれてあった。そのうち10枚が上記のような罵詈雑言(にしても度が過ぎている)であり、それ以外は「頑張れ」というような普通のメッセージであった。

このサイン帳からわかることは、女子を含む、少なくとも10人以上がいじめに加わっていたこと。筆跡やイラストなどは、それぞれ違う感じであり、1人のいじめっ子がクラスメイトを装って書いたものではない。

6年の時の担任教諭は、賢一君がひとりでぽつんとしていたのを覚えていたが、いじめについては知らなかったらしい。このサイン帳を見せられて、悪口を書いた教え子について「なぜあの子がこんなこと(を書いたのか)・・・」とうろたえた。

賢一君の自殺前の「もう我慢できないよ」という言葉は、もう何年も耐え続けてきたという、重みのあるものだったことが窺える。

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