社会問題

札幌・白石区女性餓死事件

1987年1月、札幌市白石区の市営住宅の一室で、女性(39歳)が衰弱死しているのが発見された。女性には3人の子供がいた。

事件の経緯と詳細

1987年1月22日、札幌市白石区の5階建て市営住宅の一室で、ある女性が死んだ。栄養失調による衰弱死だった。女性はF子さん(39歳)という。

母さんは負けましたこの世で親を信じて生きた
お前たち3人を残して
先立つことはとてもふびんでならないが
もう、お前たちにかける声が出ない
起き上がれない
なさけない
涙もかれ、力もつきました。
お前たち空腹だろう 許しておくれ 母さんを

この日は冷えていた。この家のガスは料金滞納により止められ、ストーブの灯油もすでになかった。あるのは八畳の居間に置かれた電気ごたつだけ。冬の間、母子4人はそこに寄り添って、寒さをしのいでいた。

23日早朝、F子さんの小学5年の二男(当時11歳)と、4年生の三男(当時9歳)が階下の知人宅に母親が息をしていないことを知らせに行った。中学生の長男(当時14歳)は友達の家に泊まっていて不在だった。

知人がF子さんの様子を見に来ると、バンザイをしたような姿勢で横になってこたつの布団を胸までかけた彼女がいた。しかし知人の知るふっくらしたF子さんの顔ではなく、骨に皮が張りついただけのような状態で、目を大きく見開いたまま死亡していた。

F子さんはもともと身長160cmで60kg。それが死亡時には30kgほどになっていた。子供らに呼ばれて部屋にやってきた知人は、すぐにこの死体がF子さんと結びつかず、ハッとすると子供達に「なんでこんなになるまで黙ってたの」と怒鳴った。

部屋は異臭がたちこめていた。寝たきりとなっていたF子さんの嘔吐や排泄物が処理できていなかったためである。子供らが言うには、もう1ヶ月以上も前から寝たきりの状態で、食事もとらずに水ばかりを摂っていたという。子供達が無理に食べさせようとしても、首を振って拒否し、激しく嘔吐した。最初のうちは這ってトイレにも行っていたが、次第に動けなくなっていた。死の3日前には長男を呼んで、哀しそうな表情で何かを訴えた。それは言葉にはならなかったが、長男にはその意味が理解できるような気がしたという。

こたつの上には2、3000円分の小銭が散らばっており、部屋は荒れ、汚れた衣類の他、紙くずや空き缶などのゴミが散乱しており、台所もしばらくは使った形跡がなかった。その他、ゴミにまぎれて公共料金の請求書、サラ金の督促状もあった。石油販売店からの請求書には、「今後、お宅にはいっさいお売りしません」とサインペンで大きく書かれていた。

或る女性の一生

F子さんは1947年に日高管内の町で生まれた。十人兄弟の6番目の子だった。父親の勤め先が倒産してからは収入が不安定で、F子さんは他の兄弟と同じように地元の中学を出ると、半年だけ地元で働いたのち札幌へ出た。

札幌では製菓会社の工場に勤めた。父親も札幌の木材工場に出稼ぎに来ていたので、その工員寮に同居している。この工場には3年勤め、他の職場に移ったのち、20歳から24歳ぐらいまでのあいだは地元に戻って家事手伝いをしていた。

1971年、F子さんは再び札幌に出て、市内の映画館に勤めた。

札幌に来て2ヶ月後の11月、F子さんは結婚をしている。相手はラーメン屋の店員をしていて、彼女より5歳下だった。その翌年には長男が誕生した。その後も次男、三男と子宝に恵まれたが、夫はギャンブルが好きで、酒を飲んでは子供に手を上げるというような男だった。1976年には夫が仕事を辞め、建築現場の日雇いなどをしていたが、やがて仕事を休みがちとなって、競馬や麻雀に明け暮れた。そのため、F子さんがパートに出なければならなかった。

三男が生まれてからも、夫は変わらず、ギャンブルに凝った彼のつくる借金は増え続け、百万円ほどになった。F子さんの父親名義で金を借りたりすることもあったようだ。

1978年2月、借金は夫がすべて引き受けて返済すること、3人の子供はF子さんが引き取って育てることを条件に協議離婚が成立。この時F子さんは30歳、一番下の子は0歳児だった。

3月、母子4人は札幌市中央区の母子寮に入り、生活保護も受給してもらった。この母子寮での生活はF子さんにとっては楽しい日々だったという。

長男が小学校に入ったのを契機に、区内にある精神病院で働き始め、1981年4月にパートから正職員に採用された。それでも一家4人の生活費を稼ぐのは難しいので、生活保護を受給していた。同年8月には福祉事務所の後押しにより白石区の市営住宅に入居している。ここがF子さんの遺体が発見される場所である。

市営住宅に移って4ヶ月後の12月、白石区福祉事務所がF子さんの生活保護を廃止した。その理由は4月からF子さんが正職員になっており、10月には冬の燃料手当、12月にはボーナスが出るということが見込まれたためである。この要否判定は6ヶ月を基準に行われ、不本意であったが「F子さんは辞退届」に名を書かされた。中央区から白石区に変わったとたん、生活保護が打ち切られたことになる。F子さんの勤める病院には、他に2人の職員がやはり母子家庭で、生活保護を受けながら働いていた。そんなことがあってF子さんは福祉事務所へ直談判したが、相手にされなかった。

生活保護が廃止されたことで、一家の家計は大変苦しいものとなった。F子さんはそれまでの電車通勤から、自転車通勤に切り替えている。しかしいくら切り詰めていても、毎月不足が出てくる。以前のF子さんは金を貸して返さない人を軽蔑するような人物だったが、次第に周囲の人たちから借金をするようになっていた。几帳面な性格だったから最初はちゃんと返済していたけれど、そのうちにそれも出来なくなっていた。そんなことがあって、友人とも疎遠になり始めた。

金がないから周囲の人に借りに行くのだが、当初はちゃんと返していた。その返済する金はサラ金を利用してのものだった。F子さんはサラ金の2つの会社から約1000万円を借りていた。こうなってくると、もはや生活を立て直していくのは、よっぽどのことがないと出来なくなってくる。利息の支払いすらできなくなっている。

1985年冬、F子さんは病院の他に夜の居酒屋のアルバイトを始めている。

事件の1年前、三男が朝になると「お腹が痛い」と言い出し、学校を休みがちとなった。F子さんはそれを上司である医師に相談したところ、家族とのスキンシップが大事だと言って休職をすすめられた。もちろんその間は生活保護を受けよという医師のアドバイスだったが、生活保護は認められなかった。

F子さんは2月から病院を休み、その後3月から喫茶店で働いていた。

しかし6月にはガス料金滞納のためガスが止まり、その頃から居酒屋のパートをかけもちするようになる。喫茶店と居酒屋にはサラ金からの電話があった。

7月、休職中だったF子さんに病院は、従来の半額ではあるがボーナスを支給した。上司がそれを自宅まで届けに行ったところ、居間にサラ金の請求書の束があるのが目についた。心配する上司にもF子さん「生活保護を受けているので大丈夫」と嘘をついた。

9月、F子さんは勤め先の居酒屋の常連客から10万円を借りていたが、それも返せなくて、やがて職場に来なくなった。そしてまた別の飲み屋で働くようになって、それまで勤めていた店の人に怒られてしまう。

やがてF子さんは体調を崩し、喫茶店も辞めた。風邪をこじらせて寝込むようになったということだが、仕事に出られず、一家の収入は途絶えた。それからF子さんの死まで、ガス料金だけではなく、水道料金、電気料金も滞納していたが、こちらは供給され続けていた。

11月半ば、F子さんが勤めていた喫茶店の主人が、彼女を心配して福祉事務所に電話をした。その翌日には地区担当のケースワーカーがF子さん宅に様子を見に来て、事情を話した喫茶店の主人は「生活保護を受けさせてやってほしい」と頼んだ。そのケースワーカーは「明日にでも福祉事務所まで来なさい」と言って帰ったが、翌日F子さんが病をおして福祉事務所の窓口まで出向くと、面接担当のケースワーカーは事情も聞かずに

「まだ若いのだから働きなさい」
「別れた夫から子供の養育費をもらうか、養育できないという証明をもらってきなさい」

と話し、受給は認められなかった。
がっかりしたF子さんは「もう二度と福祉事務所には行きたくない」と話したという。

痩せこけたF子さんの遺体が発見されるのは、それから2ヵ月後のことであった。

この年の10月26日、東京・荒川区で生活保護を「辞退」させられた女性が自殺している。福祉事務所への抗議の遺書を認めていた、

「二度生きて福祉を受けたくありません」
「あなたは満足でしょう。あなたが死ねと言ったから死にます」
「福祉は人を助けるのでしょうか。苦しめる為の所でしょうか」

3年前の1984年4月には、同じ札幌市白石区の母子家庭で、火災により小学2年生の男児が焼死するということがあった。この家では生活保護廃止となって電気も止められたために電灯がわりにローソクを使っていたという。火事の時、母親は働きに出ていた。

トピックス:餓死

現代日本で死因が餓死というのはニュースになる。飽食の時代に餓えて死ぬ人というのはかなり稀だからだ。例えば、子供を虐待して餓死させるという事件がある。食べ物を与えられないで死んでしまうというケース。その一方で自ら餓死を選ぶ人々もいる。そういう意味での餓死は「自殺」と言えるが、そうは言いきれない部分もある。

1977年5月20日、大阪府寝屋川市の主婦(29歳)が栄養不良による衰弱死。家には9歳から生後3か月までの5人の子供たちがいた。夫は病気がちで前年から失業、生活保護を受けていたが、夫が紹介してもらった仕事も長続きせず、主婦が「このままでは一家は立ち直れない」とこれを辞退し、内職して家計を助けた。やがて夫にも仕事が見つかり、建設作業員として名古屋に出稼ぎに行き、もうあと2日で大阪に戻ってくるという時の主婦の死だった。内職だけでは生活が厳しく、自分は水道水でしのぎ、子供たちには食事をとらせていた。主婦の日記には

「きょうも食べるものがなく、10円でパンの耳を買ってくる」
「塩もお米もなくなった。明日はなにを食べようか」

と書かれていた。ちなみに夫は 翌年5月、南港の工事現場で重機と重機の間に挟まれ、7月に死亡した。妻の一周忌で郷里から戻った翌日の事故だったという。

1985年8月には東京・足立区でA子さん(23歳)と妹のB子さん(20歳)が餓死するという事件も起こった。

この一家は父親が借金をつくって蒸発し、母子3人がつつましく暮らしていたが、A子さんが高校卒業後に就職すると生活保護が打ち切られた。やがて母親が病死し、A子さんもサラ金からの督促を理由に会社を辞めた。その頃から若い姉妹は家にとじこもり、ゴミも出さずに(おそらくは、次第にゴミ自体が出なくなった)外の世界との関わりを絶った。そこで姉妹が何を語り合ったかはわからない。発見された時にはミイラ化していた。どちらが先に死んだのかわからないが、おそらくは病気の妹の方だっただろう。2人は抱き合うように死んでいたという。A子さんは封筒の裏に「死んでやる」と書いていた。

1996年4月27日、東京都豊島区池袋のアパートで無職・A子さん(77歳)と、寝たきりの長男・Bさん(41歳)が餓死しているのが発見された。遺体は死後20日が経過していた。

母子は1985年に父親と3人でこのアパートに越して来たが、1992年3月に父親が死亡。それ以後、一家の収入は母親の月4万円の年金のみだった。家賃にも足りず、貯金を取り崩して生活していたが、それも底をついていた。部屋には食料も現金もほとんどなく、A6判のノート10冊が残されていた。それらは「悲しい日記 天国にいる夫へ」(冒険社)、「池袋母子餓死日記」(公人の友社)として刊行されている。 

池袋・母子「餓死日記」事件 「私は、本当に、生まれが、悪く、生きてゆく事が、苦しい。死にたい」助けを求める声、届かず。 1996年4月27日、東京・豊島区池...
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